ヌマンタの書斎

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平山相太の引退

2018-02-06 13:02:00 | スポーツ

野球での平成の怪物が松坂ならば、サッカーで平成の怪物と云われたのが平山相太であった。

前者は実績に相応しいと思うが、残念ながら後者はそうではなかった。

いや、高校サッカーまでは、まさに怪物であった。身長190センチの長身であり、足技もある超大型FW。高校選手権において長崎代表の国見高校のエースとして二年連続の得点王であり、17得点は未だに破られていない記録でもある。

東京五輪以降、低迷していた日本サッカー界にとって、咽喉から手が出るほどに欲していたのが長身のFW選手であった。Jリーグが始まった頃は、サンフレッチェ広島の高木選手が身長188センチで最も大型の選手であった。

だが、当時の高木選手は決して上手い選手ではなかった。当時の日本代表のFWは、三浦カズやゴン中山のような俊敏なタイプが主流で、高木は控えの選手に過ぎなかった。

一応云っておくと、高木選手は相当努力して技量を向上させたが、如何せん世界のトップレベルのDFと張り合えるだけの技量はなかった。だからこそ、平山のような長身で、かつ足技も上手い選手が求められていた。

平山の先輩で、船越という長身の選手もいたが、線が細くJリーグでさえ満足に戦えなかった。それだけに平山に対する期待は大きかった。

でも、今にして思うと、平山にはハングリー精神に欠けていたように思う。国見高校の名監督である小嶺氏は、平山に適した戦術をチームに叩き込んでいた。しかし、筑波大のサッカー部はともかく、プロチームはチームに彼がフィットさせることを求めた。

レンタル移籍したオランダのヘラクレスでは、平山を引っ張ってくれたピーター・ボスが監督でいる間は活躍できた。しかし、監督が交代すると、平山は干された。よくある話ではあるが、彼はそこから立ち上がることが出来ず、失意の帰国をした。

その後は、FC東京でJリーグの試合に出ていたが、交代選手であることが多く、なかなかレギュラーに定着できなかった。当時の原監督のコメントは、私もよく覚えている。「平山は試合に出ている時と、そうでない時の差が激し過ぎる」と彼の怠惰を叱責していた。

彼はエースとして持ち上げられている時は、かなり活躍したが、控えに回ると途端にモチベーションが落ちた。いつでも、どこでも活躍できる選手ではなかったと思う。このことが、彼の評価を大いに下げさせる要因となった。

エースとして期待された五輪チームでこそ活躍したが、日本代表では彼は高原や柳沢らの控えに過ぎず、そんな時のやる気のなさは、他の選手に気づかれていたと思う。実際、チームの中核であった遠藤や俊輔は、彼の怠惰な態度に好意的ではなかったと思う。

気が付いたら、彼は怪我の多さも手伝って、次第に日の当たる場所から遠ざかってしまった。常に注目を集める選手から、あの人誰?と言われてしまう選手に堕ちてしまった。

そして、まだ十分若いのだが、つい先日ベガルタ仙台での引退発表となってしまった。

身体的にはこの20年でも指折りの恵まれた才能の持ち主であった。でも精神面がもろかったのではないかと思う。

日本の場合、長身の選手がFWに居る場合、周囲が彼に得点できるようボールを回してくれる。回りの選手がお膳立てしてくれるからこそ、活躍できた訳なので、自分から試合を作るのは苦手な人が多い。

私の見る限り、平山はそのことに気が付いていて、Jリーグでは自らが起点となってゴールを目指すような動きを必死でやっていたのも確かだ。かなり泥臭くもあったが、チームを鼓舞するかのような良いプレーもやっていた。

ただ、それが続かなかった。私はそれが残念でならない。日本サッカーはまたも長身FWの選手を喪失してしまった。とても残念です。

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