なんとなく、読む気が起こらなかった本の代表が表題の作品です。
粗筋は読まなくても、そのタイトルからして中身が想像できてしまった。だから読まなかった。
しかしながら、母が療養型病院で長期間の入院の末、衰弱死するようなかたちで亡くなったことを、ようやく冷静に思い返せるようになったと思えたので、読んでみるととにした。
分かってはいたが、やはり重ぐるしい。作品の文体自体は、むしろ淡々と書かれているのだが、やはり内容が重い。
主人公がまだ元気なうちに楢山行きを決めたのは理解できる。自らの死を決断するには、相当な気力、体力が必要なのだろう。本当に老衰した状態では、その決断は出来ないと思う。
若い頃、私は山登りに傾倒していたので、自らの死をある程度覚悟して登っていた。自然の強大さの前に、自らの弱さと儚さを知り、そのなかで全力を振り絞り生きる努力をすることこそ山登りだと考えていた。
あの頃、私は自らの死を恐れてはいなかった。そう思い込んでいた。
それがただ単に体力のある余裕からの虚言に過ぎないと思い知らされたのは、20代前半で原因も分からず、治療法も確立していない難病に苦しんだ時だ。
2か月以上、病院のベッドの上で寝たきりの生活を送っていた私は、死がまじかにある現実から目をそらしていた。でも、主治医の失言で、自分が死にかけていた事実を直視せざるえなくなった。
怖かった、逃げたかった。でも衰弱して寝たきりの私は、逃げるどころか、寝返りすら一人では出来ない。一晩中、自分が死ぬことを考えていたら、翌朝には胃潰瘍になっていた。
自分がこれほどまでに弱虫だとは思わなかった。心も体も衰弱していては、死に対して堂々と対峙することなんて出来やしない。
だからこそ、まだ元気なうちに楢山行きを決断した主人公の凄さが分かる。
多分、私には出来ない気がする。自ら死を決断するのなら、元気な時にこそするべきだ。
ところで、この作品が映画化されて、欧米やアジアなどに知られて以降、日本では貧しさから姥捨てをしていたとされてしまったらしい。おそらく貧しい地域では実際にあったのだろう。でも、日本って比較的農作物に恵まれている国なので、一部でしかなかったのだろうと思います。
でも、よくよく考えると、現代の日本の山間部に多数ある介護型老健施設って、ある意味姥捨て山ではないかと思うこともあります。もちろん、介護施設と、姥捨て山は、まるで違うのですが、それでも私は思いだす。
母が2年近く世話になった病院の大部屋を。家族から遠く離れた、あの清潔な施設で母は幸せな老後であったかと云えば、決してそうではないと思う。でも私も妹たちも、どうしようもなかった。ベストではないけど、ベターであったと信じたい。
そう考えた時、自らの意志で楢山へ向かった主人公は、ある意味ベストの選択をしたのかもしれないと、うかつにもそう思ってしまう自分が嫌ですね。きっと、私には出来ない崇高な決断でしょうから。