ヌマンタの書斎

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目立ちたい

2023-04-21 09:24:28 | 社会・政治・一般
「彼は承認欲求が強すぎたんだよ」

ある知人の大学生が、あの回転ずしスシローのペロペロ事件の犯人を評した科白にいささか驚いた。あれって承認要求から起こした行為なのか。

誰にでも自分の存在を外にアピールしたいとの欲求は程度の差こそあれ、普遍的にあると思う。だいたいブログなんてネット上に公開されることを前提にした電子日記であり、これもまた承認欲求の顕れだと思う。

特に自分に自信が持てない十代だと、自分をアピールしたい焦燥感から馬鹿げたことをやってしまう。多かれ少なかれ、誰にでもあるはずだ。これは昔からあることではある。ただインターネットの普及後、誰でも気軽に映像をアピールできるようになったことが、バカげた自己アピールを増やした。

スシローでやらかした高校生、あれで自分を世間にアピールして、その先を考えなかったのか。いや、彼だけじゃない、数年前からインスタなどに馬鹿げた行為を自ら曝して、世間から非難と冷たい視線を喰らっている若者が後を絶たない。

何故に自分がやらかした結果がどうなるかを想像できないのか。

私にだって馬鹿げた自己アピールをしたいと思ったことがある。いつまでも治らぬ病気に苛立ち、未来への展望を描けず、絶望から死ぬなら悪名を残してと考えてのバカげた自己アピールを夢見た。

でも、やらなかった。私がそれをやらかせば、家族や友人へ迷惑がかかることが明白だったからだ。私がやりたかったのは、いわゆる無差別テロだ。いや、正確には無差別ではなく、霞が関や永田町で偉そうにしている輩を滅殺することだ。

わざわざ大学病院の図書館に潜り込み、人体に有害な物質を探したり、爆発物を作る方法を求めたりしていた。前者は私の学力では探し出せず、後者は爆発物よりも信管を入手することの困難さから諦めた。

今だから言うが、あの狂気の似非宗教団体オウムがサリンによるテロを実行した時、私は先を越されたかのような苛立ちを感じた。既に社会復帰していたが、まだ心の奥底にどす黒い狂気が潜んでいることを自覚しており、それが再び噴出しそうな感覚に怯えた。

それを自制できたのは、私が苦しんでいた時も陰で支えてくれた家族の顔であり、忘れずにいてくれた友人の顔を思い出したからだ。犯罪者に連なる家族や友人は、それだけで世間の冷たい視線に苦しむ。私はそれを知っていたので、大切な人たちまでも巻き込みたくなかったからだ。

難病に苦しみ狂気の縁を彷徨っていた私でさえ、自らの愚行で家族や友人を苦しめることぐらい容易に想像できた。私は孤独の殻に閉じこもっていたが、まったく世間から切り離されていた訳ではなかった。だからこそ自制できた。

スシローの唾付け高校生は、現在自宅に引きこもっていると聞く。家族は憔悴し、通っていた高校も荒れているらしい。そうなることぐらい、容易に予測できると思うが、出来なかったからこその愚行なのだろう。

率直に言って、私はこのような愚行に対する有効な対応策が分からない。ただ、やらかしてしまったことの結果責任は取らさねばならないと思うし、それに苦しむことが世間に明らかにされることで、なんらかの抑制効果は見込めるかもしれない。

でも、バカは馬鹿。それを知りつつも、自分だけは大丈夫と根拠なき確信でやらかす追随者は、再び出現すると思います。
コメント (4)
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