太宰治が嫌いだった。嫌いだとはっきり明言していた。でも、何でだろう。
初めて読んだのは、国語の教科書の「走れメロス」だった。それほど悪い印象はない。あまりに堂々とした友情に軽い気恥ずかしさを覚えたくらいで、嫌な感じはしなかった。それが嫌悪に代わったのが「人間失格」だった。一言で言えば「甘ったれるな!」それが私が太宰治を嫌った原因だった。
久しぶりに再読してみて分かった。やっぱり私は太宰が嫌いだ。でも、その嫌いの成分のうち何割かは嫉妬な気もする。あの堕落の仕方は、私には出来ない。やろうとしても、多分出来ない。あれほどまでに自己憐憫の情に浸ることは、恥ずかしくって、みっともなくって出来やしない。
人間は誰しも嘘をつく。生きていくために、楽に生きるために、誰かを傷つけないために嘘をつく。自分自身に対してさえも、嘘をつき続けた太宰は、その嘘の重みに耐え切れず、最後は壊れた。
皮肉なことに、希代の嘘付きであったがゆえに、小説家として成功した。彼の嘘は多くの人を楽しませる嘘でもあった。だから太宰の小説は、多くの人に好まれた。
でも太宰は、本当は何を言いたかったのだろう。何を求めていたのだろう。傷つくのを恐れず、他人を傷つけるのを厭わず、ただ自分の欲望に忠実に生きたのなら、太宰はあんな人生を送ることはなかったのだろう。
私とて、人を傷つける生き方は好きではない。だけど自分に忠実でありたいと欲するなら、結果的に他人を傷つけることはやむを得ない。その報復は、自ら被るしかあるまい。身体より心が傷つくものなのだが、それを恐れてはいけないと思う。自身が傷つくことによる痛みを知ることが、他人への優しさにつながると思うし、自制を養うことにもなる。
誰も傷つけずに、生きていくことなど出来るはずがない。他人を傷つけたと悩むのなら、その分他人を癒せばよい。自分に嘘を付き続けるのは、多分他人に嘘をつくより自身が傷つくものなのだろう。
太宰の小説は上手いと思う。それでもやっぱり、私は太宰が嫌いだ。
初めて読んだのは、国語の教科書の「走れメロス」だった。それほど悪い印象はない。あまりに堂々とした友情に軽い気恥ずかしさを覚えたくらいで、嫌な感じはしなかった。それが嫌悪に代わったのが「人間失格」だった。一言で言えば「甘ったれるな!」それが私が太宰治を嫌った原因だった。
久しぶりに再読してみて分かった。やっぱり私は太宰が嫌いだ。でも、その嫌いの成分のうち何割かは嫉妬な気もする。あの堕落の仕方は、私には出来ない。やろうとしても、多分出来ない。あれほどまでに自己憐憫の情に浸ることは、恥ずかしくって、みっともなくって出来やしない。
人間は誰しも嘘をつく。生きていくために、楽に生きるために、誰かを傷つけないために嘘をつく。自分自身に対してさえも、嘘をつき続けた太宰は、その嘘の重みに耐え切れず、最後は壊れた。
皮肉なことに、希代の嘘付きであったがゆえに、小説家として成功した。彼の嘘は多くの人を楽しませる嘘でもあった。だから太宰の小説は、多くの人に好まれた。
でも太宰は、本当は何を言いたかったのだろう。何を求めていたのだろう。傷つくのを恐れず、他人を傷つけるのを厭わず、ただ自分の欲望に忠実に生きたのなら、太宰はあんな人生を送ることはなかったのだろう。
私とて、人を傷つける生き方は好きではない。だけど自分に忠実でありたいと欲するなら、結果的に他人を傷つけることはやむを得ない。その報復は、自ら被るしかあるまい。身体より心が傷つくものなのだが、それを恐れてはいけないと思う。自身が傷つくことによる痛みを知ることが、他人への優しさにつながると思うし、自制を養うことにもなる。
誰も傷つけずに、生きていくことなど出来るはずがない。他人を傷つけたと悩むのなら、その分他人を癒せばよい。自分に嘘を付き続けるのは、多分他人に嘘をつくより自身が傷つくものなのだろう。
太宰の小説は上手いと思う。それでもやっぱり、私は太宰が嫌いだ。
地味だけど渋い。
骨太でひねくれていて、抜群に面白い作品なら、私はジェラルド・カーシュを進めます。
本当にひねくれているのですが、骨太です。
出だしの一文「メロスは激怒した」から、一気に引き込まれました。
メロスがね、孤軍奮闘する中で、ついに力尽きて、
もういいや、寝ていたい…で寝かける、しかし、うとうとした後、がばと起きて、辛い体に鞭を打って
走り出す姿に泣きました。
冒険小説の泣かせる基本があると思います。