ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ダ・ヴィンチ・コード」 ダン・ブラウン

2007-10-25 09:33:34 | 
私がキリスト教の団体から離れたのは、17歳の時だった。

だからといって、イエス様への信仰心を失ったわけではない。ただ、もう宗教団体との関係は断ちたかった。信仰は私と神との問題であって、人であれ聖書であれ、介在させるつもりは無くなっていた。

変わったのは、教会から離れたら他の宗教へも寛容となり、仏教だろうと権現様であろうと気にしなくなったことだった。蕎麦屋の軒先の狸だって、実に愛嬌のある神様だと思っている。ちなみに貧乏神様は敬遠している。

戯言はともかく、教会から離れてしばらくすると、今まで見えてこなかたことに気がついた。イエス様の教えと、教会のやってきたことって、かなり離れている気がするぞ。

当初は中世から近代にかけての宗教戦争と、帝国主義時代の植民地侵略におけるキリスト教の役割に注目していた。それどころか、過去を遡るたびに胡散臭く思えてきた。

私はプロテスタント(新教)とカトリック、ロシア正教しか知らなかったが、よくよく調べると沢山ある。コプト派、アルメニア教会、ネストリウス派等さまざまな宗派があることに気がついた。

もっと言うなら、イエスはユダヤ教の預言者の性格を有する。聖書を読んでも、明らかに偶像崇拝を禁じているし、女性を蔑視していない。ところが、キリスト教会とりわけローマ・カトリックは大きく違う。

あまり知られていないが、キリスト教の歴史は、女性差別の歴史でもある。とりわけマリア信仰を巡る弾圧と妥協は長年にわたって繰り広げられた。未だにバチカンは女性司教を認めない。

ユダヤ教やイスラム教が誹謗してきたように、偶像崇拝は本来イエスが排除してきたはずなのに、いつのまにやら既成事実化して、問題視すらしない。

20代を半ばを過ぎた頃には、私は現行のキリスト教会は、イエス様の教えとはかけ離れたものだと考えるように至った。さりとて、アメリカのファンダメンタリストのような聖書絶対視派にも違和感を禁じえない。

聖書、とりわけ新約聖書は過去、何度となく編集されて今日に至る。そのことを証明したのが「死海文書」などの古代の文献だった。キリスト教が封じてきた禁断の文書は数多くある。すべてが公開されているわけではないが、そこから推測される真実は、今日のキリスト教の権威を著しく損なうはずだ。

しかし、宗教的確信は事実を拒むことを厭わない。神への信仰は、真実さえ歪める。正しいと信じて幸せな人生を歩む人たちは、自らの幸福を侵食する真実を断固拒否する。

21世紀に入り、近代が黄昏を迎えつつあるなかで、表題の本が世界的ベストセラーになったことは実に興味深いと思う。20世紀にも、類似の書物は出るには出たが、大衆的評判を得ることは難しかった。何が変わったのだろう?

私は近代の黄昏を、科学的合理精神への疑問というかたちで理解をしている。それは民族主義と宗教への回帰を意味すると考えている。にもかかわらず、既成の宗教の権威を否定するような本がベストセラーとなる事実に、少々戸惑っている。

もしかしたら、新しい宗教を人々は求めているのかもしれない。
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「アルメニア史 再生と滅亡の地」 佐藤信夫

2007-10-24 09:24:18 | 
今年、アメリカ下院に提出された日本への従軍慰安婦を対象とした非難決議は、数百人のアメリカ下院議員のうち出席者10数名による賛成を経て決議がなされた。

私はアメリカの正義病に共産中国や増長韓国が便乗しただけのアホ騒ぎと思っていたが、一方同じ乗りでトルコのアルメニア人虐殺事件が、アメリカの下院で決議されそうになった。これにトルコが大反発。事なかれ主義の日本と異なり、誇り高きトルコ共和国政府は、面子を賭けて抗議の運動を起こしているようだ。

少し説明すると、第一次対戦中にオスマン・トルコ帝国によりアルメニア人迫害があったのは事実だし、数十万人のアルメニア人が殺されたのも事実だ。ソ連によるポーランド将校の虐殺で知られる「カチンの森の虐殺」や、ブラジルのインディオ保護局によるインディオ虐殺(映画「グレート・ハンティング」で撮影された)など、非武装の一般市民への政府の命令による虐殺は枚挙に暇が無いほど多く実施された。

100年以上たって、その虐殺事件を理由に非難されるのだから、たまったものではない。でも、このトルコ非難決議を背後で操っているのは、おそらくユダヤ人団体とキリスト教団体だと思う。正確にはアルメニア系アメリカ人だと思われる。

アルメニアは、世界最古のキリスト教国でワインの発祥の地ともされる古い歴史を持つ国だ。一時期はバルカン半島からオリエントにかけて巨大な勢力を誇った古豪でもあった。しかし、人類史でも屈指の騒乱の地だけに、いつしか歴史の影に身を潜め、現在は黒海の南に小さくまとまっているに留まっている。

ローマ帝国より早くにキリスト教を国教に定めた国ではあるが、国内にはユダヤ教、イスラム教と様々な宗派が乱立して、それゆえ国としてまとまりづらかったようだ。とりわけオスマン・トルコ帝国の属領当時は、その商才をもって帝国に仕え経済の中核を担ったユダヤ系のアルメニア人に対する迫害は強かったようで、これが後の虐殺の要因となっている。そのため、早くから出国して欧米へ移民した者も多い。当然にイスラム教であるトルコ人からは、キリスト教徒であるアルメニア人に対しても視線が厳しかったことも、後の虐殺に影響している。

ところで、アルメニアのユダヤ人たちは、その商売の才は抜きん出て優秀で知られる。イスラエルが建国されると、多くのアルメニア人が移り、首都エルサレムの一等地に豪邸を立てた。商売上手で知られるユダヤ人のなかにあっても、突出した優秀な商人として活躍してきたことは、案外日本では知られていないようだ。

私がアルメニアのことを知ったのは、ご他聞に漏れず大学受験の世界史の授業だが、正直忘れていた。暇を持て余していた病気療養時に図書館で見つけて読んだのが表題の本だった。世の中知らないことは、いくらでもあると実感した本でもあった。

ユダヤ系アルメニア人の他にもキリスト教徒のアルメニア人も多数存在しており、かなりの人数がアメリカに住んでいると思われる。あまり表舞台に出てきて目立つ人たちではないのだが、その資金力を背景とした政治的発言力は相当なものがあると想像できる。

郷里のアルメニア政府とは、必ずしも円滑な関係ではないらしいが、危機意識の高い少数民族らしく、生き残るための政治活動には抜け目が無いと思われる。長く続いたアメリカの共和党主導の政治から、民主党への移行が予想される今だからこそ、今回のトルコ非難決議を持ち出してきたのではないだろうか。(何故、今なのだ?個人的には理解不能)

私もそれほどの知識を有しているわけではないので、いずれもう少しアルメニアの歴史については調べてみたいと考えています。
ちなみに、ワインが美味しいそうなので、とりあえずそちらから試してみますかね。
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「墜落の仕方教えます」 ウォーレン・ハーディング

2007-10-23 09:32:14 | 
何をやっても良いとされると、案外人は戸惑うものだ。

遊びにしたって、何をやっても良いとされると、かえって何をしたらイイか分らなくなる。自由に好き勝手することは、案外不自由さを感じることが多い。

だからこそルールなどの制約を自主的に設けると、むしろ遊びの楽しさが深まることがある。制約があるからこそ、その制約のなかで最大限知恵を絞る楽しみが生まれる。

本来、山登りにはルールはない。あるとしたら、生きて帰ることだと思う。でも、それでは面白くない。だから、様々な制約を自主的に設けた。自分の足で登るのもその一つだ。ただし、海外でのトレッキングなどで、馬やラバを用いるケースもある。でも、ヘリコプターで登頂したって、それは登山じゃないと思う。

やはり、自分の力で登ってこそ、登山の価値が見出せるってもんだ。しかし、人間の欲には限りが無い。ただ単に登るだけでは、満足しきれなくなった。そこで山頂へのルートをわざわざ難しくすることに価値を見出した。危険を承知で、意図的に登攀が困難なルートを経て登ることに、高い価値観を認めるようになった。

わざわざ岩壁を登攀して頂上を目指すだけではない。危険の増す厳冬期に登ることすら挑戦するようになった。ヒマヤラにもアンデスにも出向いて、未踏の山を探し出し、初登頂を競い、それが済むとコースの難易度を競った。ほぼ、70年代には、地球上の全ての山が、登山家の欲望に屈した。

このあたりから、登頂を目的としない登山が徐々に楽しまれるようになった。それがクライミング=岩壁登攀だ。頂上を目指すのではなく、難しい岩壁を登ることに主眼を置いた。山でなくともいい。海岸の岩壁でもいいし、高原の岩肌を登るのもいい。極端な場合、川原の巨石を登るだけのクライミングも楽しまれた。

しかし、どんな急傾斜の岩壁だって、ドリルで穴を開けてボルトを打ち込み、それに梯子をかければ必ず登れる。これじゃあ、面白くない。しかも、これって自然破壊じゃないのか?

自然破壊、反対。岩を傷つけずにクライミングを楽しもう。そう叫びだしたのがアメリカのロイヤル・ロビンスやイヴォン・シュイナード等だった。一方、所詮クライミングなんて遊びさ、と嘯きドリルを片手に、登りたいところを登るのが本能ってもんさと反論したのが表題の著者だ。

ロビンスらの主張をクリーン・クライミングと言う。当初は、環境保護運動も相乗りして、クリーン・クライミングが優勢に思われた。しかし、自然に運動は衰退した。何故かと言うと、全ての岩場でのクリーン・クライミングは不可能だったからだ。

岩壁にクラック(割れ目)や、がっちりした角があればクリーン・クライミングは問題なく出来る。クラックにハーケンを打ち込むより、ロビンスらが開発したナッツなどを引っ懸ける方が楽だし、速い。

しかし、どの岩場にもクラックがあるわけではない。安全性を確保するためには、岩に穴を穿ちボルトを打ち込む必要がある場合も多い。ごく一部の岩場でしか実現不可能なクリーン・クライミングは一時のブームで終わった。

当初は胡散臭く思えた著者の言うように、やはりクライミングも遊び。あまりに厳しすぎる制約は、かえって面白さを損ねる。ちなみに、このクリーン・クライミングの思想は、手足の力だけで登るフリー・クライミングへと引き継がれ、やがて室内に人工の岸壁を設定して登るインドア・クライミングへと昇華した。

インドアならば、たしかに自然破壊にはならない。でもね、私としては、太陽の日を浴びて、鳥が囀り虫が飛び交う自然のなかでのクライミングがいいなあ~。このほうが、遊びとしては自然だと思う。やっぱり無理な制約は、却って面白くない。その意味で、著者ハーディングの主張を首肯したいと思います。
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藪のなかの気配

2007-10-22 14:15:11 | その他
10代の頃は、頻繁に山に登っていたため、時折不思議な体験をすることがあった。

あれは、高校2年の秋だった。WV部の合宿で裏丹沢に登った時のことだ。登山客で賑やかな南側と異なり、交通の便の悪い丹沢の北側は人気が少ない。道志山塊の麓側は過疎化が進行しており、バスは一日に10本に満たない。

その秋は冬の訪れが早かったようで、北斜面は既に落葉で埋まっていた。傾斜はそれほどでもないが、落ち葉の下の霜柱が溶け出して、足を踏み出す度に滑るのには閉口した。

先頭を任された私は、なるべく歩きやすい道を探しつつ登るよう努めた。ふと気がついたら、登山道を外れて獣道に入り込んでいた。

野生の動物は、人間が築いた登山道も使うが、目的が違うので動物専用の道を歩むことが多い。長年、山登りをしていると、その違いは明白だ。まず、土の固さが違う。やはり人間の使う道は踏み固められ整備されている。また動物はせいぜい50センチから1メートルの高さがあればいいので、獣道は草木の茂みにトンネルを作り上げる。丁度、腰から上が草木にぶつかり、下半身がぶつからない道なら、ほぼ獣道とみて間違いない。

高さ2メートルほどのススキの生茂る獣道は、上半身がススキに邪魔されるも、下は歩きやすく、ついつい入り込んでしまったようだ。読図をすると、すぐ近くの稜線まで突き進めば、再び登山道に当たるはずなので、休憩をとり上級生が偵察に行くこととなった。

私もリーダーに指示された獣道の一つを、軽快に登っていった。ススキの茂みの下に出来た獣道のトンネルは快適で、その大きさからして猪か鹿が利用しているようだ。

ふと気配を感じた。

獣道ではしばしば野生動物と遭遇することがある。鹿ならいいが、猪はやばいと思い足を止め、様子を窺う。妙だった。獣道にしては、やけに踏み固められている。糞も少ないし、なにより獣の匂いがしない。

気配に敵意が混じっている気がした。獣じゃない・・・あいつらは、まず驚いて突進することはあっても敵意はみせない。野犬ならあり得るが、だとしたら警戒の唸り声をあげるはず。

多分、ススキの藪の十数メートル向こうだと感じた。しばらく黙したまま対峙する羽目に陥った。まずいことに、ザックを休憩地点に置いて空身できたため、なにも道具を持ってない。ベルトに差したカラピナを取り出して、メリケンサック代わりに握り締めた。緊張から、じんわり脂汗が染み出てくる。

突然、背後から声がした「先輩、道ありました~。バックしてください」。後輩が近づいてきた。私は大声で返事して、音をたてて後ずさりした。

気配は消えうせていた。

その後は、何事もなく登山は進み、夕方には表丹沢に下山した。帰りの電車のなかで、先輩に藪のなかでの出来事を話した。リーダーとして最後尾を歩いていた先輩は、俺も視線を感じたよと小声で囁いた。もしかしたら、やばい人間かもなと呟いた。

あ!と思った。噂を耳にしたことがある。浅間山で繰り広げられた日本連合赤軍のリンチ事件以降、都会に居場所をなくした過激派が、山中に隠れているとの話をだ。裏丹沢は登山者も少なく、人里からも適度に離れている。隠れ場所には格好だと思う。

何度となく野生動物には遭遇しているが、あのような妙な気配を感じたのは、あの時一度きりだ。その後のことは不明だが、なんとも気持ちの悪い遭遇でした。日本の山で浮「動物といえば、熊、サル、猪、野犬でしょうが、やっぱり人間が一番怖い。環境破壊猛獣でもある人間こそが、一番恐ろしい生き物なのでしょうね。
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「ちょっとピンぼけ」 ロバート・キャパ

2007-10-20 13:07:28 | 
かつて、戦争は賛美されるものであった。

全ての古典を読んだわけではないが、概ね戦争に関する記述は、勝者の側に立って書かれる。当然に勝者を讃える内容となり、戦争は賛美の対象となる。

歴史記録を作成することは、古代の多くの国で国家事業とされたため、勝者である統治者を讃えるため、戦争を賛美するのは当然なものとならざる得ない。敗者の側からの記述もあるにはあるが、多くは悲劇を描いたものであり、間違っても戦争反対論にはならない。

しかし、民主主義という極めて特異な政治形態が普及するようになると、言論の自由が必要とされるようになった。権力は必ず肥大して腐敗するようになる。その事実を正しく有権者に知らせねば、選挙は正しく機能しない。

そのため、政治権力者にとって、事実を報じるマスメディアの存在は時として危険な存在となった。民主主義を標榜する国にあってさえ、政治の不正、腐敗を報じるマスメディアを何らかのかたちで規制する動きは、当たり前にあった。しかし、政権を担う政治家にとっては好ましくない報道も、野党政治家にとっては有用な報道であり、それがゆえにマスメディアは存在を許された。

やっかいなのは戦争報道だ。とりわけ国外で行われる戦争は、容易に報道することが難しかった。自国の軍の協力なくして、戦場を取材することは極めて危険だ。また、戦争に勝つという目的のため、それを阻害する事実の報道は忌避された。マスコミの側もそれを積極的に支持した。

第二次大戦中、あるアメリカのジャーナリストは、共産中国寄りの報道を続け、アメリカの反日姿勢を応援しつづけた。それに異議を唱えた外交官の意見は封殺され、あまつさえ投獄されさえした。戦争に勝つためには、力を集結させる必要があると判断したアメリカ政府首脳の意を汲み、マスメディア自身による言論統制は積極的になされた。

ところが、豊かになった欧米では大企業の手を離れたフリージャーナリストが活躍するようになった。冷戦のさなかに、彼らフリージャーナリストは世界を駆け回り、大企業に支配されたマスコミ報道が必ずしも事実を報じない現実を目の当たりにするようになった。

しかし、一人で相手するには難しい。そこでグループをつくり情報交換や共同作業をして報道の質を高めるようになった。こうして生まれたのが報道写真家集団マグナムだった。その構成員の一人が表題の著者ロバート・キャパだ。

ここで報道における写真の効用の凄さが実証された。ベトナム戦争は、従来の軍服を着た軍人同士の戦いという概念を一変させた。ヴェトコンという平服を着た戦士を相手に戦わざる得なかったアメリカ軍は、必然的に平服の一般市民をさえ敵視するようになった。

空中から市街を爆撃すれば済んだ第二次世界大戦と異なり、地上戦での戦闘が不可欠だったベトナム戦争は、一般市民を巻き込んだ壮絶な戦いとなった。ソンミ村の虐殺で知られるように、アメリカ軍は各地で残虐な殺戮を繰り返した。その事実を報じた写真は、何も語らずとも事実を知らしめた。

ゲリラ相手の戦場の悲惨さを知らぬアメリカの一般市民は、この写真を見て嫌悪感を募らせ、厭戦気分が蔓延した。アメリア国内においてさえ、反戦運動が広まりデモは大通りを練り歩いた。LOVE&PIECEが合言葉となり、もはや戦争を賛美することは叶わぬ自体となった。心身ともに疲弊した兵士は、帰国するや否や「幼児殺し」と呼ばれ、身の置き場を失した。

もはやアメリカは戦えなくなった。アメリカが再び回復するには、フセイン大統領のクエート侵略を待たねばならなかった。ここでようやく正義の戦争という大義を回復できたからだ。

報道の恐ろしさを実感したアメリカは、以降報道に細心の注意を払うようになった。その意味で、ロバート・キャパを始めとするフリージャーナリストの存在意義は、非常に大きかったと私は思います。
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