私がキリスト教の団体から離れたのは、17歳の時だった。
だからといって、イエス様への信仰心を失ったわけではない。ただ、もう宗教団体との関係は断ちたかった。信仰は私と神との問題であって、人であれ聖書であれ、介在させるつもりは無くなっていた。
変わったのは、教会から離れたら他の宗教へも寛容となり、仏教だろうと権現様であろうと気にしなくなったことだった。蕎麦屋の軒先の狸だって、実に愛嬌のある神様だと思っている。ちなみに貧乏神様は敬遠している。
戯言はともかく、教会から離れてしばらくすると、今まで見えてこなかたことに気がついた。イエス様の教えと、教会のやってきたことって、かなり離れている気がするぞ。
当初は中世から近代にかけての宗教戦争と、帝国主義時代の植民地侵略におけるキリスト教の役割に注目していた。それどころか、過去を遡るたびに胡散臭く思えてきた。
私はプロテスタント(新教)とカトリック、ロシア正教しか知らなかったが、よくよく調べると沢山ある。コプト派、アルメニア教会、ネストリウス派等さまざまな宗派があることに気がついた。
もっと言うなら、イエスはユダヤ教の預言者の性格を有する。聖書を読んでも、明らかに偶像崇拝を禁じているし、女性を蔑視していない。ところが、キリスト教会とりわけローマ・カトリックは大きく違う。
あまり知られていないが、キリスト教の歴史は、女性差別の歴史でもある。とりわけマリア信仰を巡る弾圧と妥協は長年にわたって繰り広げられた。未だにバチカンは女性司教を認めない。
ユダヤ教やイスラム教が誹謗してきたように、偶像崇拝は本来イエスが排除してきたはずなのに、いつのまにやら既成事実化して、問題視すらしない。
20代を半ばを過ぎた頃には、私は現行のキリスト教会は、イエス様の教えとはかけ離れたものだと考えるように至った。さりとて、アメリカのファンダメンタリストのような聖書絶対視派にも違和感を禁じえない。
聖書、とりわけ新約聖書は過去、何度となく編集されて今日に至る。そのことを証明したのが「死海文書」などの古代の文献だった。キリスト教が封じてきた禁断の文書は数多くある。すべてが公開されているわけではないが、そこから推測される真実は、今日のキリスト教の権威を著しく損なうはずだ。
しかし、宗教的確信は事実を拒むことを厭わない。神への信仰は、真実さえ歪める。正しいと信じて幸せな人生を歩む人たちは、自らの幸福を侵食する真実を断固拒否する。
21世紀に入り、近代が黄昏を迎えつつあるなかで、表題の本が世界的ベストセラーになったことは実に興味深いと思う。20世紀にも、類似の書物は出るには出たが、大衆的評判を得ることは難しかった。何が変わったのだろう?
私は近代の黄昏を、科学的合理精神への疑問というかたちで理解をしている。それは民族主義と宗教への回帰を意味すると考えている。にもかかわらず、既成の宗教の権威を否定するような本がベストセラーとなる事実に、少々戸惑っている。
もしかしたら、新しい宗教を人々は求めているのかもしれない。
だからといって、イエス様への信仰心を失ったわけではない。ただ、もう宗教団体との関係は断ちたかった。信仰は私と神との問題であって、人であれ聖書であれ、介在させるつもりは無くなっていた。
変わったのは、教会から離れたら他の宗教へも寛容となり、仏教だろうと権現様であろうと気にしなくなったことだった。蕎麦屋の軒先の狸だって、実に愛嬌のある神様だと思っている。ちなみに貧乏神様は敬遠している。
戯言はともかく、教会から離れてしばらくすると、今まで見えてこなかたことに気がついた。イエス様の教えと、教会のやってきたことって、かなり離れている気がするぞ。
当初は中世から近代にかけての宗教戦争と、帝国主義時代の植民地侵略におけるキリスト教の役割に注目していた。それどころか、過去を遡るたびに胡散臭く思えてきた。
私はプロテスタント(新教)とカトリック、ロシア正教しか知らなかったが、よくよく調べると沢山ある。コプト派、アルメニア教会、ネストリウス派等さまざまな宗派があることに気がついた。
もっと言うなら、イエスはユダヤ教の預言者の性格を有する。聖書を読んでも、明らかに偶像崇拝を禁じているし、女性を蔑視していない。ところが、キリスト教会とりわけローマ・カトリックは大きく違う。
あまり知られていないが、キリスト教の歴史は、女性差別の歴史でもある。とりわけマリア信仰を巡る弾圧と妥協は長年にわたって繰り広げられた。未だにバチカンは女性司教を認めない。
ユダヤ教やイスラム教が誹謗してきたように、偶像崇拝は本来イエスが排除してきたはずなのに、いつのまにやら既成事実化して、問題視すらしない。
20代を半ばを過ぎた頃には、私は現行のキリスト教会は、イエス様の教えとはかけ離れたものだと考えるように至った。さりとて、アメリカのファンダメンタリストのような聖書絶対視派にも違和感を禁じえない。
聖書、とりわけ新約聖書は過去、何度となく編集されて今日に至る。そのことを証明したのが「死海文書」などの古代の文献だった。キリスト教が封じてきた禁断の文書は数多くある。すべてが公開されているわけではないが、そこから推測される真実は、今日のキリスト教の権威を著しく損なうはずだ。
しかし、宗教的確信は事実を拒むことを厭わない。神への信仰は、真実さえ歪める。正しいと信じて幸せな人生を歩む人たちは、自らの幸福を侵食する真実を断固拒否する。
21世紀に入り、近代が黄昏を迎えつつあるなかで、表題の本が世界的ベストセラーになったことは実に興味深いと思う。20世紀にも、類似の書物は出るには出たが、大衆的評判を得ることは難しかった。何が変わったのだろう?
私は近代の黄昏を、科学的合理精神への疑問というかたちで理解をしている。それは民族主義と宗教への回帰を意味すると考えている。にもかかわらず、既成の宗教の権威を否定するような本がベストセラーとなる事実に、少々戸惑っている。
もしかしたら、新しい宗教を人々は求めているのかもしれない。