ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「ブラックジャック 六等星」 手塚治虫

2007-10-19 09:35:15 | 
数多あるブラック・ジャックの作品のなかで、私が一番気に入っているのが、表題の作品です。

医院長を亡くして、その後継の席を巡って争うベテラン医師2名。本当は同じキャリアを持つもう一人の医師が居るが、性格も地味で温和で目立つことを好まない人柄ゆえに話題にもならない。

しかし、交通事故の現場での難しい処置を素早くこなす腕前の持ち主でもある。その現場を見かけたブラック・ジャックが思わず声をかけるほどの技量の持ち主なのだが、控えめな性格から医院長選挙には声もかからない。

しかし、合い争う二人が不正で逮捕され、緊急の難しい手術が待っている。さて、どうなるか。ネタばれになるので、ここから先は漫画を読んでいただくのが一番。

私がいつも思うのは、人を見る目の難しさ。人間誰しも派手な振る舞いの人には自然と注目してしまう。組織の中に居れば、どうしても力のある人の下に集まり勝ち。派閥を厭い、一人変人と思われるよりも、長いものには巻かれるのが楽な生き方であるのは確かです。

だからといって、その派閥のボスが本当に実力のある人かどうかは別問題。派閥のボスは務まっても、組織全体を統括する器量には欠けることは、実のところそう珍しくない話。

ひと目を惹く仕事、目立つ仕事だけで組織は動かない。人に厭われる仕事でも必要な仕事はいくらでもある。目立たないけど、それがないと全体が動かない地味な仕事もある。

地味な仕事を地道にこなしつつ実力を蓄える逸材も少なくない。ただ、このような人物はなかなか見出されない。このような地味は逸材が見出され、世に出て活躍するさまは何度でも観たいものです。

六等星のように、地球の夜空ではかすかに小さく輝く程度だが、実際は巨大な恒星であり、遥かかなたにあるからこそ小さく見える星もある。そんな小さな星に着目した手塚治虫の慧眼に敬服です。
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「リア王」 ウィリアム・シェークスピア

2007-10-18 14:08:48 | 
基本的に芸能ごとには、あまり詳しくない。

TVをあまり観ないので、人気の芸能人など顔は分っても、名前は分らない。映画はたまに観る程度だし、舞台や劇場には滅多に足を運ばない。だから戯曲はどうもピンとこない。

さて、そこでシェークスピアだ。名前だけなら誰もが知っているが、読んだ人は案外少ないようだ。私が初めて読んだのは、多分高校生の頃だが、それほど感銘を受けた覚えはない。

大学生の頃、少し年上だった彼女は、私が演劇関係に興味を示さないことに不満だったらしく、時折劇場を連れ回された。その時合席した彼女の友人から、シェークスピアは声を出して読むと面白いと聞かされた。

少し思い当たる節があったので、さっそく家に帰って一人の時にやってみた。嗚呼、なるほどと思った。それまで、なんて回りくどい言い回しなんだと不満を抱いていたのだが、声を出すとスイスイ読める。そのうち、心の中で声を出す読み方に変えてみたところ、同様の効果があることが分り、一時期戯曲を読み漁っていたことがある。

ただ、本音は彼女との共通の話題欲しさであったので、別れてからは縁遠くなってしまったから私も浅ましいものだ。

シェークスピアの五大悲劇のうち、私の記憶に最も深く刻まれたのが、表題の「リア王」だった。歴史絵巻としての面白さは、数あるシェークスピアの作品のなかでも一番だと思う。

自らの愚かな判断が裏切りを招き、人を見る目を誤らせ、大切な人を失う辛さ。その辛さが次第にリア王の正気を失わせていく有様は、見たくないものを無理やり見せられるが如き厳しさがある。それでいて、目を逸らすことが出来ない。悲しみと後悔が、リア王を狂気の谷間に追いやっていく。

老いらくの狂気は、周囲の人間を遠ざける。孤独は、ますます狂気を色濃く深めていく。人はこれほどまでに苦しめるものなのかと、十代の頃驚愕したことが思い起こされた。

その後、難病を患い長く療養生活を送るようになったが、私が最も嫌がったことが、周囲から常軌を逸していると見られることだった。なまじ苦しみから、狂気の淵を彷徨う自分を意識していただけに、人前では殊更平常を装う癖がついた。妙な発言をしないように、意識して常識人を装うように努めた。

その癖、狂気をあからさまに表に出すことに、妙な憧れをも持っていた。狂ってしまえば、狂いきってしまえば悩むことはないだろうと安易な夢をみたせいでもある。

狂ってしまうほどの悲劇は、遠くから見ているだけでいい。自分自身で体験して良いものではない。だからこそ悲劇を描いた本は読むだけで十分だ。自分は不幸だと自己憐憫の深みにはまりそうになったら、シェークスピアの悲劇を読むのは、けっこういい心のリハビリになると思う。
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焼き鳥いせや

2007-10-17 12:35:36 | 日記
東京は吉祥寺の街は、わりとお洒落な雰囲気がある。

でも、それは比較的最近のこと。駅前の古い木造家屋がごちゃごちゃした辺りは、戦後のドヤ街の名残が色濃く感じられる。大学4年間を吉祥寺で過ごした私にとっては、お洒落なお店よりも、狭い路地の奥にあるオンボロの飲み屋のほうが馴染みがある。

駅の南側、井の頭通りを少し入ったところにあった焼き鳥屋「いせや」は、2階建ての古い木造家屋だ。古い造りだけに、天井は思いのほか高い。木の柱は黒ずんでいて、近づくと焼き鳥を焼いた煙の匂いがしそうだ。土間つくりの一階は、いつもお客さんで一杯だ。急傾斜の階段を上がると、古びた畳の部屋に案内される。温かみのある電球にぼんやりと照らされた部屋は、お世辞にも綺麗とはいいかねる。

学生の頃、この店はもっぱら酔っ払うために使った。いや、吐くためにと言ってもいいかも。店が適度に汚いので、吐くことにあまりストレスを感じないからだ。おまけに安かった。でも、正直言えば、看板の焼き鳥はたいして美味くない。実に噛み応えのある鶏肉だった。金さえあれば、もっと美味い焼き鳥の店はいくらでもあったと思う。

最近の焼き鳥やは、どこもお洒落で綺麗で、しかも焼き鳥は美味しい。当然に値段も高いが、それも致し方ない。肉を焼くだけの料理の場合、肉の素材の良し悪しで味がほぼ決まってしまう。やはり高い肉のほうが美味いのは必然なのだ。

ところで、「いせや」は全然お洒落じゃない。むしろ珍しいくらいのこ汚さだ。だからこそ、この時代には目立つ。半年くらい前だが、新聞に「いせや」の閉店が書かれていた。あの一等地に、あの古い家屋だ。老朽化もあったのだろう。まさか、新聞ネタになるとは思わなかった。

幸いなことに、井の頭通りの本店は閉店だが、井の頭公園口店はまだ営業しているという。先だって、大学のWV部の50周年記念のOB会が開かれたので、参加したついでに同期と後輩を連れて「いせや」に飲みにいってみた。

本店は、既に取り壊されて、高層ビルが建築中だった。しかし、井の頭公園口店は昔と変わらず、古く汚い日本家屋そのままにあり、周囲のお洒落なブテックから浮いていたのには安堵した。

嬉しいことに、本店同様に一階の土間は昼間っから客で一杯。なんで、こんな汚い店がいいんだと思いつつ、日本間に案内される。白熱電球がぼんやりと鈍く照らす畳が黄色く薄汚れてみえるのは錯覚ではあるまい。土壁は、誰かが蹴っ飛ばしたのか少し壊れている。嗚呼、ここは昔と同じだ。

焼き鳥は相変わらず固く、柔らかさとかジューシーさなんて言葉とは無縁だ。でも酒は安く、つまみはチープで学生時代には実にありがたかったことを思い出す。バイトと思われる店員の愛想は、まったくなく、むしろぶっきらぼうなくらい。普通なら怒ってもいいのだが、この店だと失笑するしかない。

2時間ちかく飲み食いしたが、一人2千円で収まった。やっぱり安いわな。間違っても接待や、最初のデートには使えないだろうが、こんな店が残っているのは、なんか嬉しい。機会がありましたら、話のネタにどうぞ。
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亀田vs内藤戦に思う

2007-10-16 09:28:21 | スポーツ
ひどい試合でしたねえ、先週の亀田vs内藤戦です。

老獪なチャンピオンである内藤に対して最終ラウンドまでKOされなかった程度の実力でしょう、亀田は。基礎的な能力は高いと思います。でも、これまで弱い相手としか試合をしていない為、試合の経験値が絶対的に低い。これじゃあ勝てない。

でも、金平会長にとっては、試合で稼げれば良い訳で、別に強い選手を育てる気はないので、あれでいいのでしょう。親父さんの代から、あそこのジムはそうでした。弱い選手と試合を重ねて実績を作り上げ、世界戦をぶちあげて判定で勝利を収める。箔をつけたチャンピオンで一稼ぎして、すぐに負けてベルトを返上。毎度、毎度のパターンを繰り返してきたものです。

今回は亀田というキャラを利用して、TBSとタイアップして付加価値を付けて売り出したところが、今までとの違いなのでしょう。今のところ、はっきり言えるのは、ボクシングの価値は貶められた。その一言に尽きると思います。

元々ボクシングという格闘技は、極めて不自然な形体をとります。拳による打撃だけの闘技であり、攻撃範囲は上半身限定という、実戦ではありえない制限を設けています。

限定されているがゆえに、その技術は極限まで高められ、狭い範囲に攻防を集中させることで威力を高める不思議な格闘技です。ルールにより制限を設けたがゆえに、そのルールの範囲内を徹底的に活用する高度な技量を要する格闘技でもあります。

基本的な右ストレートという技、一つとっても容易に身につくものではありません。踏み込んだ足の勢いを膝から腰に伝え、上体をひねるかたちで、右腕に力を伝えて拳に打ち出す。私は何度練習しても、なかなか出来ず、いつも手打ちになっていました。これだと力が十分に発揮されず、KOパンチにはならない。練習での静止状態でならともかく、実戦でまともに打てたことはありませんでした。どうも、私は才能ないみたい。

シンプルであるがゆえに、素人にも分りやすいのですが、実際には奥が深いものでもあります。単に技を覚えるだけでなく、筋力を含めて総合的に体力を高めるトレーニングの質の濃さは並大抵ではありません。食事から水分摂取にまで至る生活管理を要する格闘技ゆえに、求道的高尚さを感じることさえあります。

だからこそ、ルールを守ることが絶対に必要不可欠となるのです。そして、亀田選手にはこれがない。視聴率がとれればいいTBSや、金になればいい金平会長はこれでいいのでしょうが、ボクシング界にとって今の亀田選手は有害としか言いようが無い。

でも、私としてはこれ以上、ボクシングの価値を貶めて欲しくありません。私が若い頃、初めて出くわした格闘技がボクシングでした。喧嘩に強くなりたいのなら、ボクシングはその最短のコースだと今でも信じています。もう、当分亀田は観たくありません。
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沖縄教科書検定に思うこと

2007-10-15 09:12:17 | 社会・政治・一般
どうも違和感が拭いきれない。

戦争というものは残酷なものだ。善も悪もなく、老若男女区別なく犠牲となる。どちらかといえば、弱いものほど犠牲になる傾向が強い。合理的に考えれば、相手の弱い部分から攻撃していくのは、きわめて基本的な戦い方でもある。

アメリカという国は、戦争に関しては極めて真面目な国だ。合理的思考をもってして、勝つために必要な手段をとることをためらわない。インディアンとの戦争では、勇猛な戦士たちと戦うよりも、留守を守る女子供を襲い虐殺してしまった。

家族を奪われたインディアンたちは、怒りに震え復讐を誓ったが、家族を失った喪失感からは逃れることが出来ず、次第に衰退の道を辿った。こうしてインディアン(アメリカ原住民)を排除して、キリスト教的正義と民主主義の聖地は築き上げられた。

その後のスペインとの戦争でも、正義もへったくれもない残虐な戦法を駆使して戦い勝利をもぎ取った。同じアメリカ人同士が血で血を洗う激戦を繰り広げた南北戦争は、奴隷の解放という名目で覆い隠さねばならないほど悲惨な戦いであった。

近代以降、最も残虐で仮借なき戦いをする国がアメリカだと思う。

そのアメリカ軍の上陸を目前に控えた沖縄の人たちの怯えは、相当なものであったはずだ。武器を手に取る男たちが戦って死ぬのは覚悟の上だろう。しかし、愛する家族たちが、獰猛なアメリカ軍の兵士たちに蹂躙されるのは耐え難いと考えたことは、容易に想像できる。

私は文章による正式な命令があったとは思わないが、日本の軍人たちが民間人の自決に関与した可能性は極めて高いと考えている。ただし、軍人の一方的な命令だけではなかろう。民間人のほうでも、女子供をアメリカ兵の獣欲から守るために、自らの手で死なせなければとの思いはあったと思う。

日本人って奴は、今も昔も集団の合意を大事にする。軍の一方的な命令だと断じるのは無理がある。それを密かに望み、協力する社会の合意がなければ、あれほど多数の民間人が死ぬことは在り得ないと思う。

忘れてはいけないのは、戦後の日本はアメリカの占領下にあったことだ。アメリカは侵略者としては、かなり寛容であったことは否定しない。だからといって、天使の使いであった訳ではない。

戦争という奴は、人間の暗い部分を燃え上がらせる。多くの戦友たちの命を奪った憎むべき日本人たちに勝ち、高揚感をたぎらせた若きアメリカ兵の性欲の犠牲になった日本人女性は少なくないはずだ。

アメリカの軍政下で、当然に報道管制もあったであろうが、それでもレイプ事件は隠し通せなかった。その意味で、婦女子に自決を求めた当時の日本人の思いは決して虚構ではない。起こるべき事実を予感したからこその自決強要であろうと推測できる。

私はやはり非公式ながらも軍が関与したと思う。正式命令が無かっただけで、軍人が口頭で命令すれば、それは同様の効力を持つと思う。その命令を内心支持した民間人も相当数いたと想像できる。

かつて南米に逃亡したナチスの高官がイスラエルの諜報部に捕まり、裁かれた時のことだ。それをヨーロッパの新聞は「裁かれているのは、我々も同じだ」と報じた。ナチス・ドイツのユダヤ人狩りは、ヨーロッパの一般市民の密かな同意の下に行われていたことを認めた発言だと私は思った。

沖縄での婦女子の自決には、やはり軍部の関与があったと思う。しかし、それを軍部だけに押し付けるのは間違いだと思う。その自決を当然のことと思い、内心同意した一般市民が少なからずいた事実から目をそらすことになる。そして、アメリカ軍は非武装の民間人を死傷させることを躊躇わぬ、仮借なき敵であったとこを忘れてはいけない。いくら戦後の占領政策が寛容であったからといって、事実から目をそらし軍人にだけ罪を被せる行為には、私は感心できない。
コメント (15)
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