「俺、今日、和也を殺してしまった」
そう呟いて、その男性は泣き崩れた。ここは東京は神保町界隈の小さなスナックだ。世界一の古本屋街として有名だが、近隣には大小の出版社が多いことでも知られている。
泣き崩れている男性は、大手出版社である小学館の週刊少年サンデーの編集部員だ。人気漫画タッチの担当編集者であり、作者であるあだち氏のとの打ち合わせの後の出来事だとされている。
この話が事実であるかどうかは分らない。むしろ都市伝説として一人歩きしている感が強い。ただ、まったく故なきことではあるまい。
大手出版社では、漫画出版は収益の大きな柱だ。その大きな収益源を漫画家だけに任せることなんて出来やしない。だから、大手漫画雑誌に連載される漫画の多くは、漫画家と出版社編集部員との協同作業によって作られる。
もちろん編集部の干渉を嫌う漫画家も少なくないが、腕のいい編集部員の協力により人気を伸ばした漫画は数知れず。そのゆえに、冒頭のように主要な登場人物を死なせてしまうような重大な判断は、漫画家だけでなく編集部の諒解あってのこととなることは不思議ではない。
だから都市伝説とは言いかねるが、それでもやはり大げさに過ぎる気もする。ただ、この作品がハッピーエンドを迎えるためには、和也の死こそが重大なポイントであったのも確かだ。
この漫画が絶大な人気を博したのは事実。当時、読んでいなかった私でさえ、ある程度のストーリーは知っていた。読んでいないのに、知っていたのは友人知己から聞かされていたからだ。
私はスポーツものの漫画は好きだが、ラブストーリーはそれほど好まない。絵柄が優しいことも手伝って、あまり積極的に読みたいと思う漫画ではなかったのが、読まなかった理由だ。
実際、この手にとって読んだのは30代も過ぎてからだ。人気が出るだけの内容はあったと思う。そして、間違いなくこの漫画のクライマックスは、和也の死の場面だと思う。その後のストーリーは予定調和の世界に過ぎない。
ちなみに現在、漫画の製作には、漫画家と編集部以外に、アニメ化を睨んだTV局のスタッフ。ゲーム化を狙うゲーム製作会社のスタッフ、そのCMに便乗して商品の売上増加を狙うメーカーの広告部のスタッフなどが関るケースが増えている。
この製作手法は通称メディア・ミックスと呼ばれている。かくして漫画は多くの人、会社を巻き込んだ協同作業と化している。ちょっと、行き過ぎの気もしないではない。
私としては、漫画家と編集部員との協同であるくらいが良いような気がするが、これも時代の流れなのかもしれません
正直言って、死体は好きではない。
ただ、怖いというわけではない。死体は動かないし、処理さえしてあれば臭いさえしないことは分っている。綺麗な棺に入れられて、美しい花に覆われていても、やはり死体にはあまり近づきたくない。
たとえ、その亡くなった方が敬愛する人であったとしても、出来るなら死体とは距離を置きたい。いささか失礼だとは思うが、それが私の本音だ。
臆病と誹られても仕方ないと思うが、死という現実が具体的な形となっていることに、どうしても耐えられない。否定したいのに、厳然と死という現実を突きつけてくる威圧感に圧唐ウれる。
多分、本能的な拒否反応で、なにか理屈があってのものではないと思う。物心付いた頃から、死というものから距離を置きたい気持ちを持っていたと思う。
ところが、世の中には奇特な人たちがいて、死体を見ることに強い関心を持つ。禁じられた行為だとは言わないが、ある種の後ろめたさを持つ行為だと思う。
そんな異様な行為を、あえて意図的に、積極的に、そして冷静に行う若者たちを主人公に据えたのがライトノベルの世界で名を上げた乙一氏であった。
本人もまさかと思っていたようだが、表題の作は日本ミステリー大賞を受賞している。サイコではないが、正統派のミステリーでもない。しかし、ホラーでもないし、ライトノベルでは断固無い。
私のようなホラー好き、サイコ・ファンにはいささか物足りないが、それでも面白いことは否定できない。正義もなければ、倫理にも乏しい。さりとて狂気には程遠いし、共感はさらに遠い。
でも、一読すると忘れ難い印象が残る。そんな一風変わったミステリーです。残暑の夏を足元から、じわっと冷やしてくれるようなホラーの味付けもある変り種なので、興味がありましたらご一読してみてください。
短いので気軽に読めると思います。でも、読後感の異様さは簡単には拭えないと警告しておきます。そんな作品ですよ
前回まで5回にわたり書いてきた土地の評価についてですが、実は表題の本がそのネタ本の一つです。
もちろん、私自身の土地評価の経験をベースにしておりますが、この本及び著者の森田税理士には大きく影響を受けています。ただ、その全ての意見を肯定している訳ではありません。
本来なら、一読をお薦めしたいと書きたいのですが、この本に関しては止めます。
理由は簡単で、専門知識がないと、ほとんど理解できない内容だからです。少なくても相続税法が分っていて、なおかつ財産評価通達による財産評価の実務経験がないと、7割がた理解不可能な内容なのです。
いささか残念な気もします。戦後の日本政府による土地政策は、間違いと歪みが無視しえぬほど課題だらけ。ただ、一般の消費者、国民が土地の問題を我が身のものとする機会は限られる。
それゆえに、政策の歪みが放置されてきた。
ほとんどの場合、土地の相続や、売買で困難に直面して、そこで初めておかしなことに気がつく。金額が大きな問題でもあるので、知らずに直面した人々は、困惑し、怒り、絶望に打ちのめされる。
本当は、もっと多くの方に、この土地の問題は知ってほしい。著者の森田先生もそう思って筆を執ったのでしょう。しかし、問題が専門的に過ぎて、専門知識がないと理解が難しい。
なるべく私も、専門知識がない方にも分りやすくと思って、5回も書いてきたのですが、まだまだ不十分みたいです。
民主主義を標榜する以上、有権者がある程度の見識をもつことは必要不可欠。しかし、この土地評価の問題ともなると、どうしても高度な専門知識が必要になる。
難しいことを難しく説明するのは簡単。難しいことを、優しく説明することこそ難しい。つくづく、自分の力量のなさを感じてしまいますね。
この本を読んで感じる怒りを、ほとんどの方と共有できないのは、とても残念です。
この土地の公的な評価が問題になった原点は、公示価格の急上昇が行われた昭和50年代だと、私は考えています。それ以前は、公的な評価額(固定資産税評価額、路線価)は実勢価額に比して著しく低かったので、評価方法に欠陥があっても、それを問題視する納税者はいなかった。
ところが、公示価格の急騰に伴い、路線価及び固定資産税評価額までもが実勢価格に近づいてしまったことで、評価方法の欠陥が露呈してしまった。
正直言えば、土地の評価について、全国画一的な評価をすることは、いささか無理がある。それでも8割がたは適正だと、私は考えています。問題は、画一的な評価が難しく、個別に判断すべき案件までもに画一的な評価を強要したことです。
ただ、すべての土地について個別評価は、行政の側では対応できない。それだけの人員も予算もないのが実情です。そうなると、やはり問題の根源は、公的な評価を実勢価格に近づけてしまったことだと思うのです。
公示価格は、消費者が土地を売り買いする際の目安になることを目標にしているから、実勢価格に限りなく近くても良いのです。
しかし、土地を保有することにかかる税金は、同じ基準である必要はない。そもそも、その土地に住み続けている、ありは商売をしている人たちにとって、自分が住む地域の土地の売買相場が上昇することは、基本的に意味が無い。
もし、土地を売りたいと思ったら、その売買益には所得税がかかるのだけであり、そこに住み続ける、あるいは商売を続ける人たちには、土地の売買相場が上がることは、別世界の出来事。
ところが、そこに一つのものに二つの評価額が付くのはおかしいと考えてしまった勉強は出来るが、頭の良くないエリートがいた。公的な評価額を上げれば、固定資産税の税収は増えるし、相続税の税収も上がる。それが高すぎれば、売ればいいだけだと安直に考えたバカがいた。
このバカ、税の基本が分っていない。儲けに対する税金と、所有に対する税金が同じ基準であっていいわけがない。国家権力にとって、税金は大切な収入ではあるが、高すぎればむしろ国家を危うくする。
だから古来より権力者は、生かさぬよう殺さぬよう、ほどほどに税金をかけてきた。相続破産などを産みだすような税金は、あきらかに政策ミスなのです。
つまり一物二価、ひとつのものに二つ以上の価格がついても良いのです。
そうして、実勢価額よりも大幅に低い公的評価額にしておけば、評価方法の欠陥など目を潰れる程度の問題になります。そもそも、いろんなケースがあふれている土地の評価を、すべて画一的にすること自体、無理があるのです。
政治とは、四角い枠のなかを丸くすくい上げる程度で良いのです。枠の隅が残ってしまいますが、そのくらいの残りがあるほうが、世の中うまくまわるもの。
完全ならざる人間が、完璧をやろうとすること自体、無理なのです。
投資家という人たちにとっては、土地もまた立派な収益物件だ。彼らの土地に対する評価は、実にシンプルだ。すなわち投資額からいくらの収益が上がるのか、が基本となる。
もちろん、転売による利益も考えるが、基本は投資効率だ。10億円で購入した不動産からいくらの賃料を得られるのか。その年利回りを考えて、投資するかどうかを考える。
たとえば年間500万円の賃貸利益(経費控除後)の場合、還元利回りを4%とすると500万円÷4%で、この不動産の評価は 1億2,500万円となる。これが収益還元法による評価額となる。
主に商業用地や賃貸物件に使われる評価方法で、不動産会社や投資グループなどはもちろん、不動産鑑定士なども活用している評価方法だ。
しかし、財産評価通達では、この収益還元法は公式には認めていない。あくまで路線価による評価が原則となる。ただし、一時、この収益還元法による評価した相続税申告を税務署が受け付けていた時期があった。
それはバブルの崩壊により、路線価が土地の実勢価格を上回る自体に陥った時だ。相続税を払おうと思っても、土地は大幅に低い金額でしか売れない。結果、相続破産という悲劇が生まれた。
正確な数字は不明だが、この相続破産は軽く三桁に達したらしい。この事態に国税庁は慌てた。あってはならないことだからだ。自分たちのやったことで、国民の生活が破綻に追いやられた。
しかたなく、不動産鑑定士による評価額を認めた。財産評価通達以外の方法で評価された相続税の申告書を認めた。これは大事件であった。
これで相続破産という悲劇は無くなる。そう思った人は少なくなかったが、直にそれが幻だと気がついた。不動産鑑定士の評価による時価を付した相続税の申告書が否認されるケースが出てきたのだ。
なかでも収益還元法により評価された商業地の時価鑑定額は、露骨に嫌がられた。どうやら、不当に安く評価したと思われる申告が出てきたらしく、それが国税庁を警戒させてしまったらしい。
おかげで、財産評価通達以外の評価方法は再び下火となってしまった。では、相続税評価額が時価を上回る異常な事態による相続破産はどうなったのか。
なんと、呆れたことに問題が先送りされただけだった。多額の相続税額の滞納案件は、税務署の手を離れて国税庁へと管轄が移される。そこで競売に出されたり、相続人の二次納税義務の履行を求めて強硬な税額徴収がされる。
ところが、この相続破産案件に関しては、据え置きというか、ほっぽらかされた。これで良かったなどと安堵してはいけない。納税義務は頑として残っているのだ。どうも、再びバブルよもう一度と、本気で願っているらしい。土地の時価さえ、再び急騰すれば問題は解決する。
嘘みたいな話だが、これは国税庁のみならず大蔵省でも根強く残っている考えらしい。退官した数人のキャリア官僚から、似たような話を聞いたことがあるので、ほぼ間違いないらしい。
つまり、相続税が払えなかった納税者たちは、お役人の考えしだいで再び強硬な徴収に怯えねばならず、不安な日々は続くこととなる。
それも、これも土地の評価方法がおかしいからだが、そのことは手付かずのまま、今日に至っている。