ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

土地の評価方法 その三

2011-08-16 15:00:00 | 社会・政治・一般
相続税における財産評価は、その相続発生(死亡時)の時価が基本。これは、しっかりと法律に規定されている。

しかし、土地の時価は算定が難しい。ゆえに、その算定のための指標として路線価が設定されている。これは税務署の職員が、売買事例等をもとに算定して毎年夏に公表している。

この路線価を用いて不動産評価をするが、標準的でない形状をした土地には、評価を減額する扱いがある。ただし、その減額は3割が限界となっている。

これは実際の不動産実務からは、大きくかけ離れている。道路に接していない土地や、著しく形状が歪んだ土地などの場合、同じ場所の整った形状の土地の半値以下となることも珍しくない。3割減では、まるで足りない。

昭和40年代ぐらいまでは、路線価の算定は非常にゆるく、実際の売買相場の半値以下であったので、こんな非現実的な減額措置でも、大きく問題とはならなかった。

しかし、高度成長に伴う不動産価格の上昇が、この3減額措置が現実離れしていることを明らかにした。相続税では金銭納付が原則だが、お金が足りない場合、不動産そのものをもって納税(物納)も認めている。

バブルの崩壊で、不動産の時価が大幅に下落したが、路線価の評価は一年後であり、またお役所仕事の常で、急激な変化を嫌がったせいか路線価は、それほど大きく下落しなかった。

おかげで、時価よりも路線価評価額のほうが高い逆転現象が生じてしまった。とんでもない話だが、これを逆手にとった納税者が少なからずいた。

実勢価額5千万の土地を、路線価評価では1億円だという。ならば、土地で物納してしまえばいいではないか。そう考えた納税者が多数出てきた。おかげで、従来滅多になかったはずの物納申請が大幅に増えた。

税務署はてんてこ舞いしたが、さらに困った事態が生じた。物納された土地は、国税局ではなく、財務局が管理することになる。その財務局から、物納を拒否する連絡が来るようになってしまったからだ。

国税局は相続税法の財産基本通達に基づいて財産を評価する。しかし、財務局は国有財産法で評価する。路線価評価で1億円でも、実際の売買価額が5000万円では国家が大損だ。

実際問題、財務局では競売に出せば出すほど大損する羽目に陥り、競売に出せない含み損をかかえた土地が未だに大量に保管されたままとなっている。

だから物納を拒否してきたため、慌てて税務署は物納を受け付けなくなった。そして、従来認めなかった不動産鑑定士による時価評価による申告を認めるようになった。ただし、これは後で再び否定する方向に向かったが、その件は後日書きます。

問題の根本は、路線価の設定が実勢からかけ離れ過ぎたことなのだが、この見直しには時間がかかった。不満はあるが、ずいぶんと改善されたことは私も認めている。

現在、路線価は実勢価額の8割だとされている。ただし、相変わらず減額措置は3割で頭打ち。それゆえ、形状が悪い建築に向かない土地の評価は高いままとなっている。

路線価が、実勢価額よりも大幅に安かった時代は、あんないい加減な減額措置でも我慢できた。しかし、路線価と売買価額が近づいた今日、これでは困る。

路線価評価で1億円の土地が、一年後に5000万円でしか売れないのならば、それは明らかに路線価評価額がおかしい。財産評価通達の減額措置を見直さねばならないと思うが、その気配はない。

いや、ちまちました改正はあるのだが、まるで意味がないというか、根本問題から逃げている。

私は財産評価通達は8割がた妥当だと認めている。だが、現場には特殊な事例が数多く存在して、それらを一律に評価すること自体、無理があるのが本当だと思う。

だからこそ、不動産鑑定士による評価に期待を抱いたのだが・・・
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土地の評価方法 その二

2011-08-12 13:00:00 | 経済・金融・税制
お代官様には逆らえない。

日本人の性根に叩き込まれたものなのかもしれない。もっとも、如何にお上といえども、あまりに非道ならば一揆だってやっちゃう。

その点は、お代官様も分っている。だから、ほどほどに年貢を取り立てる。まァ、生かさぬよう殺さぬようにではあるが。

そのあたりの感覚は、近代になってもあまり変わらなかった。年貢こそなくなったが、儲けに対する課税(法人税、所得税)や、流通税(関税、消費税、印税)、そして所有に対する税(自動車税や固定資産税)と、いささか複雑になってはいるが、ほどほどであることが基本となっている。

税という奴は、誰だって払いたい訳はない。一揆こそ起さないが、高すぎると必ず脱税が横行する。昔から庶民はもちろん、金満家といえども脱税節税には頭を絞る。

税法の隙間をついての節税は、税務署も頭を痛める。裁判に持っていっても勝てない場合だってある。だから税務署は、税法を厳格にして隙間を埋める。

つまり税法には後追いの性格が強い。時代の変化に追いついていないことがよくある。土地の評価についても、同様なことが伺える。

もともと不動産の所有にかかる税金は、それほど高いものではなかった。なにせ、戦前は大地主と農家を除けば、借家住まいのほうが多い。大土地所有者ともなれば、当然に政治的発言力も強い。税金もそれほど高くなかった。

多少の差はあれど、だいだい時価(土地の更地価格)の1割から2割程度が公的な評価額であった。それは戦後になってもそう変わらず、公的評価額は時価の1~2割程度であり、固定資産税はその1,7%だから微々たるものであった。だから、支払う側もそう高額だとは思っていなかった。

しかし、戦後になり農地解放と高度成長が土地神話を産んだ。土地の価格は右肩あがりで上昇しっぱなし。公的な評価は、それに追いつかず、実勢価格との差は開くばかり。

いったい公的な評価とはなんなんなのだ?

そこで公示価格の評価が飛躍的に上昇した。ほぼ倍近いアップに驚いたが、たしかに実勢価格との差は近づいたのは確かだ。もともと、公示価格制度自体が、不動産に詳しくない一般の人が、土地の売買をする際の目安にする目的を持っていたので、それはそれで評価していい。

だが、ここで困ったことが生じた。固定資産税の課税の基準となる固定資産税評価額と、相続税の財産評価基準となる路線価が、この公示価格の急上昇に引っ張られてしまったのだ。

どうも、どこかのお勉強は出来るが、世間を知らないエリートが勘違いをしたらしい。おおかた、一つのものに二つ以上の価格がつくのはおかしいとでも思ったのだろう。

まず、固定資産税の急騰に根を上げた地主連中が抗議の声を上げた。いくら負担調整措置をとっても、数年間で4倍近い税の高騰は高すぎた。

なにしろ固定資産税評価額なんて、実勢価格の1割~2割程度だったのだから、それを8割近くに再評価されたら、たまったものではない。

これは、土地の売買相場を示す指標としての公示価格と、不動産を所有することで生じる固定資産税の課税の算定基礎となる固定資産税評価額を、同じ水準にしようとした行政判断ミスだと私は考えている。

だが、固定資産税の税率は、1、7%に過ぎない。それでも行政訴訟が相次いだ。大半が原告(納税者)敗訴となったようだが、役所が神経質になったのは間違いない。

しかし、もっと問題になったのが相続税の世界であった。
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土地の評価方法 その一

2011-08-11 12:09:00 | 経済・金融・税制
毎年、8月はお勉強月間。

そんな訳で、いささか面唐ネ話が数日続きます。読み飛ばしていただいても結構ですが、しばしお付き合い下さい。

もう十数年前のことです。まだ私はこの業界に入って2年程度のペーペー。相続税の仕事は、佐藤所長の担当で、私は補佐に過ぎませんでした。

その時にやったのが、某繁華街のそばにある閑静なお家の評価でした。大きな国道沿いで、立派な邸宅の脇にある小道を入ると、その小道は両側は見事な盆栽が置かれている。

その小道を8メートルばかり進むと、古い平屋建ての日本家屋があった。ずっと一人暮らしであったそうで、狭い家ではあったが、丁寧に住まわれていたことが伺えるものであった。

建物は築40年を超えるもので、評価額はほとんど付かない。問題は土地であった。国道から続く通路も含めると60平米を超える面積がある。

ただ、地型が悪い。8メートルの通路部分は、幅2メートルに満たないため、車さえ置けない。奥の敷地も歪んだ台形状で、三角形となる無駄な部分が多い。これでは上手く家を建てられない。

亡くなられた方は、その無駄な部分を庭として、趣味の盆栽造りに活かしていたようだが、一見して売るのは難しい土地だと分った。

いざ、評価してみると、驚いたことに評価額は6千万を超えた。当時はまだバブルの名残で、都心の一等地の路線価は、高止まりしていた上に、評価上の問題があったからだ。

相続税の評価では、路線価に地積を乗じて計算する。これが正方形や長方形といった規則正しい形の土地なら、別に問題は無い。ただし、入り口が狭くて奥に広いなどの諸条件がある場合、一定の要件の下で、評価を減額することが認められる。

問題は、その評価の減額が最大でも3割であることだ。これは不動産の世界の実態とは、大きくかけ離れている。このような、建築に不向きな土地の時価は、せいぜい半値になれば御の字なのが実情だ。

実際、この土地はすぐに売りに出されたが、相続税評価額の半値でも売れなかった。どの不動産業者も渋り、1千万円台の提示が続いた。

最終的には、表の邸宅の方が買い取ったようだが、2千万を少し超える程度の価格に留まった。これは時価の下落を考慮しても安すぎると相続人が憤るのも無理はない。

だが、これはむしろ、相続税評価額が高すぎるのだ。路線価が高いのではなく、評価の減額の仕方が低すぎる。最大3割の減額しか認めていないことにこそ問題がある。

今だから言えるが、あの土地の評価は6千万の半値程度が望ましかった。そうすれば、その後のバブル崩壊による時価の下落を考慮すると、売却価格2千万は妥当だといえた。

やはり、相続税における財産評価通達に沿った評価方法がおかしいと思う。

今回は、戦後の日本の土地の公的な評価について書き記してみたいと思います。
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韓流ブームに思うこと

2011-08-09 14:54:00 | 社会・政治・一般

なにを今更の気もする。

なにがって、「韓流ブーム」のことだ。TVをほとんど観ず、自他共に認める芸能音痴ゆえに、私は「韓流ブーム」とやらとは、まったく無縁である。

ただ、一部で「韓流ドラマ」などの熱心なファンがいることも知っている。どうやら、歌の世界でも、随分と韓国から芸能人が輸入されているらしい。

そんな訳で、「韓流ブーム」とか言われているらしい。

なにを今更だ。元々、日本の芸能界には半島出身者が数多く活躍している。歌手、役者、演奏家と枚挙に暇が無いほどだ。ただ、営業上の理由で日本人名を使っているので目立たないだけだ。

一つには、日本の社会の閉鎖性がある。一部上場の有名企業だと、新卒者の場合、身上調査があって在日韓国人や在日朝鮮人は事実上門前払いの扱いであった。

だからこそ、プロスポーツや芸能界で稼ぐコリア系の人々を多く生み出した。そうでなければ、中小企業で働くか、自分で店を営む自営業者となるしか生きる術がなかっただけだ。

つまり潜在的に日本の芸能界には、半島出身者を受け入れる素地があった。それに拍車をかけたのがTV及び広告業界の不況だ。スポンサー収入が激減した結果、日本のTV業界は未曾有の不況の最中にある。

日本全体が不況であるのだが、為替レートで円は高いまま。一方、韓国はウォンが長期の低迷となっている。日本の芸能界が受け入れやすい韓国の芸能人を輸入する外的条件が整っている。

新人の芸能人を育てるのには、時間と金と運が必要だ。しかし、既に韓国でスターとして完成している人材を輸入すれば、リスクもコストも大幅に下がる。

さらに言ってしまうと、韓国の芸能人が日本で受け入れやすいのは当然だ。長いこと韓国では、歌にせよ小説にせよ、日本のものは公式には禁止されていた。しかし日本の歌や小説漫画などは、水面下では当然のように歌われ、読まれ、親しまれてきた。

同じ土壌で育ったような面は確かにある。ついでだから指摘しておくと、日本の歌、とりわけ演歌などは韓国の歌の影響をかなり受けている。相互に影響しあってきた歴史をもつのだから、韓国の芸能人が日本で活躍できるのは当然と云えば当然だ。

要するに安価で質の高い人材こそが、韓流ブームの実態だ。さらに付け加えるのなら、日本の若者たちより辛抱強く、ハングリー精神に富むことも大きい。

なにしろ韓国は小国ではないが、人口6000万程度では市場規模は大きいとは言いかねる。だから常に輸出を考える。日本国内にしか通用しない製品、商品でも十分稼げた日本と異なり、海外に輸出することを前提にしなければ十分に稼げないことが、LGやサムソンといった世界的大企業を生んだ。

その意識は人材教育にも現われる。韓国の若者たちの出国意識は高い。閉鎖的なコネ社会の韓国ではなく、世界で活躍することを当然の目標だと捕らえている。この意識の高さが「韓流ブーム」の根底にある。

ただ、世界といっても通用するのは在外コリアが多い日本とアメリカぐらいなのも事実。私はディスカバリーチャンネルで、韓国の若手スターが世界で活躍しているといった番組を観た事がある。もちろんスポンサーは韓国の会社ばかり。

しかし、周囲でその彼を知っている外国人(もちろんコリア以外)は皆無であった。アメリカでの公演も、どうやら在米コリアンの観客で占められていたようだ。

正直、アメリカでアジア系の芸能人が人気を得るのは難しい。ジャッキー・チェンなど映画スターの成功例もあるが、やはり芸能の分野では、白人や黒人、そしてラテン系が中心の世界だ。

世界では、未だ少数派であり、新興勢力に過ぎないコリアが世界で活躍するには、スポーツか芸能が一番手っ取り早い。だからこそ、コリアの若者は世界を目指す。

別に韓流ブームとやらには興味はないが、コリアの若者たちのヴァイタリティはいささか眩しく見える。なにしろ、海外へ留学することを目指す日本人の若者は減るばかり。

私なりの文明観だと、日本は欧米の退潮に従い衰退していくと思っている。そして、シナやコリアは、それに引き摺られて混乱と分裂していくものだと思っていた。

でも、コリアやシナの若者のヴァイタリティをみていると、案外とそんな欧米文明の退潮も乗り越えられるのかもしれないとも思っている。

まァ、欧米の物まねをしているうちはダメでしょうがね。

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3月のライオン 羽海野チカ

2011-08-08 13:57:00 | 

あまりに身近すぎて、受け入れがたいこともある。

当初は同じ作者の「ハチミツとクローバー」を取り上げるつもりだった。だけどイケナイ。あんな表紙絵を見てしまったら、こちらを取り上げずにはいられなくなった。

大学卒業後、私がやられた難病は、実のところ子供の患者のほうが多い。多いと言っても患者数自体はそれほど多くない。ただ、小学校入学前後に発病することが多いので、わりと知名度は高い。

もっとも子供たちの場合だと7割がたは治ってしまう。逆に20過ぎて発病した場合は、7割がたが治らない。大人になればなるほど治りにくい難病なのだ。

子供なら7割は治るというが、では残り3割はどうなる?

私は幾人かに実際会ったことがある。同じ難病患者が集まるHPの掲示板で掲示されたオフ会でのことだ。周囲にまったく同じ難病患者がいなかった私は、憑かれたようにそのオフ会には何度も参加した。

どんなに理を尽くして説明しても、どんなに親しい友人にも分ってもらえない苦しみが、ここでならあっという間に理解し合えた。おかげで私はどれだけ救われたことか。最近はご無沙汰だが、幹事も何回かやっている。

だから、すぐに気がついた。幼少時から難病を抱えて大人になった人たちが、繊細で傷つきやすい心と、頑なで強固な意志の持ち主になりやすいことに。

表題の漫画のなかで、主人公のライバルとして登場する少年も、間違いなくこの同じ難病だと思う。実在のモデルがいることも分る。多分、羽生名人のライバルといわれた人だろう。

作者の画力が、見事にそのキャラクター造形に成功している。よくぞ、ここまで理解できたと思う。その理解力に敬意を表したいぐらいだ。もちろん、物足りない部分はあるが、それは主観の問題であり、程度の問題でもあるので十分許容範囲だ。

ただ、それでも読むのが辛い。嫌になるくらい辛い。客観的にみて、他の病気と比べても、肉体的苦痛は少ないと思う。でも、あの吐き気を催すような倦怠感は苦しい。心を蝕むような独特の倦怠感には、私も散々苦しめられた。

そして、病み衰えた自分を周囲の健康な者たちと比べてしまう苦しみが辛い。内面の苦しみに過ぎないのだが、答えが見つからぬ苦悩であるがゆえに、尽きることのない。だからこそ辛かった。

だからこそ、将棋の世界に埋没せんとばかりに意気込む主人公のライバルの気持ちが良く分る。苦しいぐらいに、分りすぎてしまう。

考えてみれば、私が税理士の受験勉強に打ち込んでいたときもそうだった。勉強に集中しているときだけ、病気の苦悩から逃れることが出来た。

模試なんて、所詮勉強の途中経過の表示に過ぎないと思っても、そこで好成績を挙げると、自分が健康な人たちに負けていないと安心できた。

それなのに、冷静に自分を考えると、難病はなにも変わっていないことに気がつかざる得ない。苦悩は永遠に続く。

主人公よりも、脇役のほうに傾倒する自分もどうかと思うが、こればっかりは仕方ない。

なお、表題の漫画は隔週発売のヤング・アニマルに連載されています。名作の予感が漂う作品なので、機会がありましたら是非どうぞ。

コメント (2)
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