面白くないなんて、絶対云わない。
でも、観終わったあとで感じた既視感があったがゆえに満点は付けられない。多少のプロットの違いはあれども、これ第一作目のスターウォーズのリメイクに感じられて仕方なかった。もちろん、当初のルークが父と共に皇帝を倒した後の、30年後の世界を描いている。
それは分かった。でも、敢えて暴言吐かせてもらうと、初代ウルトラマンが、M87星雲にゾフィーと共に帰郷した後、返ってきたウルトラマンが登場したのと同じ印象は拭えない。
つまるところ、これこそが王道なのか。
いや、如何に陳腐であろうと、エンターテイメントの王道はワンパターンでいいのだ。そう断言されると、返す言葉がないのも事実だ。
実際には、この映画、小ネタが満載で、古くからのスターウォーズのファンには堪らない作りとなっている。起き上り小坊主みたいな新しいドロイドも可愛いし、主役に女性を持ってきた新味も分かる。エイリアンの造形も楽しい。
意外な驚きも待ち受けているし、これぞ王道といいたくなる作りも悪くない。事実、私は二時間を超す大作であるのに退屈することはなかった。ただ、残念ながら30年近く前のスターウォーズの第一作目を超える感動はなかった。
もっとも、これで納得するファンも多いのだと思うので、失敗だとは思わない。でも改めて確信したのは、一作目の偉大さである。あれは、本当に凄い映画であったのだと痛感しました。
一つだけ後悔しているのは、上映時間の都合で2Dで見た事。もう一度観るとしたら、劇場で3Dで観なおしたいですね。
案外と、日本は東京などの大都市よりも、地方都市のほうが可能性を秘めているかもしれない。
そう思わせるのが、Jリーグ開始以来、常にJ1で活躍し、優勝もし、ACL(アジア、チャンピオンズ・リーグ)でも活躍しているサンフレッチェ広島である。
日本サッカーには二つの潮流がある。一つは日本リーグ時代からの、ブラジル流サッカーである。これは日系ブラジル人らを助っ人として、社会人チームが受け入れたことに由来する。その流れで、ブラジル人コーチを日本に呼ぶことも古くからあった。
もう一つの流れが、ヨーロッパのサッカー指導者をコーチとして迎えてきた流れである。東京五輪のクラマー・コーチが有名だが、当時はドイツのプロリーグに日本人選手を送ったり、指導を受けさせたりしている。
Jリーグは始まった当初も、読売ヴェルディはブラジル人中心のチームであり、他に鹿島アントラーズ、清水エスパルスなどがブラジル人中心のチーム作りをしていたのは前者の流れである。
一方、当初からヨーロッパ志向をみせたチームもある。それがサンフレッチェ広島である。イングランド人のバクスター監督を招聘し、以来、基本的にチーム作りはヨーロッパ志向で作られてきた。
ちなみに、どっちつかずのチーム作りをしたガンバ大阪や、浦和レッズなどはjJ開幕当初かなり低迷した。どちらが良い、悪いではなく、一貫したチーム作りをしてきたチームが強く育つのは必然でもある。
その一つの成果といえるのが、広島に本拠地を置くサンフレッチェであろう。率直に云って、資金力はさしてない。しかし、一貫したチーム作りは下部組織から透徹しており、下から育った選手たちが、今のチームを底支えしている。
今回のクラブ世界選手権は、地元開催枠という、いささか気恥ずかしい立場での出場であった。しかし、オセアニア、アフリカ代表を撃破して、リーベ(南米代表)に惨敗。その後にACLの覇者、広州恒大を逆転で破っての3位である。立派としか言いようがない。
大金はたいて、大物外国人助っ人を呼べる財力はないが、長年一貫した方針で狽チた若手選手が育っている。日本サッカーの進展を示す一例として、サンフレッチェ広島は是非とも注目していただきたいチームだと思います。
国力が衰退するとは、人が衰えることだ。
しかも、衰える時は、間違いなく政治からだ。古来より堕落した王様、利権争いにしか眼中がにない貴族、足を引っ張り合う官僚たちが国家を衰えさせ、最終的には亡国に至るのは、歴史を学べば分かること。
私の知る限り、古代から現代に至るまで、一切の例外はなく、衰亡した国家においては、その権力者たちの堕落と衰退が必ず存在する。外部からの侵略、あるい天災などにより滅んだ国もあるが、外的要因だけで滅んだ国は歴史上稀なのが現実だ。
拝金主義に陥った国民、やるべきことを丸投げするだけの政治権力者、権限振るえど結果責任はとらない官僚などがはびこる国家は、既に亡国の兆しが出ていると判じて、まず間違いない。
その典型とも云えるのが、我が日本国である。
バブルの崩壊で政策責任をとった官僚はいたか。バブルの崩壊での損失を直視せずに、先延ばしにして被害を拡大させた責任をとった政治家はいたのか。バブルの崩壊により、ますます拝金主義に陥った堕落した経営者が出たのは必然であり、より狡猾な外資に国内を食い荒らされたのは当然である。
責任をとるべき人が、それをやらずに逃げ去り、あるいは知らぬ顔をして居座る。まさに亡国の兆しに他ならない。
これは今も続いている。いや、拡大しているといっていい。
バブルを期に腐敗し、堕落し、その責任をとらずにしらばっくれたのは銀行をはじめとした金融機関である。日本の産業界で最も国際競争力がない、過保護のダメ企業が銀行であった。
だが、銀行だけではない。談合漬けのゼネコンは、競争入札が強要されると、仕事の丸投げでの利ザヤ稼ぎを仕事と思い、肝心の建設に対する責任感を失った。横浜のマンションだけではないはずだ、偽装工事は。
そして、遂には日本の誇りとする自動車産業にも、この腐敗は及んでいることが分かった。アメリカで騒ぎになったタカダ社製のエアバック問題がその典型である。タカダ社の対応は、日本の銀行にも似ていて、その責任感のなさに唖然としたものだ。
やはりトップが、責任回避と無責任を繰り返せば、それは当然に全体に波及するのだろう。
表題の書において、高杉良はバブル崩壊から2007年あたりまでの、日本を主導してきた人たちの無責任ぶりを厳しく指弾する。それは大手マスコミが避けてきた行為であり、観て見ぬふりをしてきたことでもある。
この書が出てから、そろそろ十年近くたつが、事態はいっこに良くなる兆しはなく、むしろ悪化している。新聞やTVが敢えて報じない、不愉快で不快な事実を知りたかったら、読む価値はあると思う一冊です。
甘ったれるなと言いたい。
既に既報のとおり、平成29年4月からの消費税の増税において、食料品の軽減税率適用が政治決着された。これについて、実務家として言いたいことは沢山あるが、今は研究中であり、とりあえず保留する。
しかし、どうにも我慢ならないのが、新聞等への軽減税率の適用である。
新聞などは、欧州の例を取り上げ、民主主義社会においては政治情報の重要性から、それを伝える新聞等について、軽減税率の適用は普通であると言い訳している。
言いたいことは分かるが、特定のインテリ層しか新聞を読まない欧州と、識字率が高く、世界屈指の発行部数を誇る日本の新聞とでは、まるで質が違う。
第一、日本の新聞が民主主義に必要な適切な政治情報を伝えていると云えるのか、私は大いに疑問だ。大手の新聞よりも、はるかに発行部数の少ない雑誌などのほうが、むしろ有権者には有益な政治情報を取り上げているのが実情ではないか。
新聞は、むしろ政府の広報紙としての役割を忠実に果たしているのが現実だ。本当に政治家が嫌がるような事件を報道することは、むしろ稀ではないのか。官僚が本気で嫌がる事実を報道する勇気がある新聞なんて、どれだけあったと云えるのか。
朝日や毎日などが、盛んに反・安倍、反・原発、反・日米安保などの情報を紙面で取り上げていると思っている人は、認識が甘いと思う。これらの報道で、安倍政権への支持が下がったと云えるのか。原発の再稼働が阻害されたのか、日米安保条約及び安保法制へ大きな影響を与えたと云えるのか。
むしろ、マスコミの安直な安倍政権批判は、国民から冷笑されて相手にされてないのが現実ではないのか。原発を否定するなら、代替エネルギーによる発電が進むべきだが、現実はどうなのだ。少ししか進んでいないし、むしろ自然回帰エネルギーは欠点が露呈し、石炭、石油などの地球温暖化ガスを排出する火力発電の問題が次々と出ているのが現実ではないのか。
いくらマスコミは日米安保を否定しようと、日本列島はアメリカの世界戦略上の要である現実に変わりはしない。むしろ、アメリカ軍を補強する存在としての日本の軍隊の重要性が増しているのが現実だろう。
私からすると、新聞が賢しげに報じる報道は、新聞社が傷つかない程度の、反・政府、反・原発、反・安保に過ぎない。本当に政府が嫌がるような報道は、大手のマスコミほど避けているのが実情だろう。
で、なんで新聞が軽減税率の対象なのだ。
私には、さっぱり共感できない。たしかに民主主義が適正に運用されるためには、適切な報道が必要不可欠だと思う。しかし、日本の新聞が、その役割を適切に果たしているとは、到底思えない。大手新聞社が馬鹿にする週刊誌のほうが、はるかにマシな報道をしている気がする(碌でもない記事もあるけど)。
むしろ他の出版物と同じ税率である方が、相応しいと思いますね。
気が付いたら10年目であった。
2005年の11月末に始めたこのブログも、既に10年目に入った。我ながら、よく続いたと思う。もっとも10周年だからといって、特段普段と変わることはない。
あくまでマイペースで、自分の書きたいことを、書きたいときに、書きたいように書き殴る。それが私のモットーである。実に我儘勝手なモットーだと思うが、このスタイルが一番書きやすい。
おかげで10年続いたのだと思うが、このところ少し悩んでいる。書斎と銘打っているのは、このブログは読書ブログであるからなのだが、ここ最近本を取り上げる回数が減っている。
原因は、私の読書量が減っているからだ。私が本を読むのは、もっぱら電車の中が多い。通勤ラッシュの最中ではあるが、始発駅を使うので、ほとんどの場合、座って通勤できる。しかし、最近は座っても本を読むことなく、ウトウトとしていることが多い。
昨日なんて、銀座から渋谷までのわずか15分たらずの間に、手に取ってあった本を3回も落とす始末である。立っていれば、そんなことにはならないのだが、座っているとついつい眠気に襲われてしまう。
ほんの3年前には、こんなことはなかった。
原因の一つは疲労であろう。細かい仕事が増えて、以前よりも多忙なのは事実だ。そして、認めたくはないが、やはり年齢の影響も否定できない。それは週に1、2回やっているジョギングでも体感している。明らかに体力が落ちているのだ。
読みたい本は沢山あるが、気力と体力がそれに追いつかないのが、読書量が減った最大の原因である。困ったと思いつつ、眠気には勝てない。昔から、食い気と眠気には勝てない性分なのだ。
それでも、まだまだ読みたい本は沢山ある。ブログのためではなく、私自身が読みたいと願っているのだ。この気持ちがある限り、書き続けることは出来ると思う。ただ、少し本を取り上げる回数は減ると思う。
我儘一杯のブログですが、今後もよろしくお願いします。