油断大敵だと痛感した。
この季節、暑さ故にどうしても水分が欲しくなる。家では麦茶やウーロン茶、ルイボスティー、コーン茶などを作って、それを冷やして冷蔵庫に常備している。
ありがたいことに、最近はパック入りのティーバックが手軽に買えるので、それを寝る前に沸かして造り、朝になると瓶に移して冷蔵庫で冷やしていた。
ところが、先日のことだが、麦茶の味がオカシイ。なんか嫌な感じがしたので吐き出して、瓶を灯にかざして見てみると、なんとなく淀んでいる気がした。多分、雑菌が繁殖しているように思えた。
すぐに瓶の中味を全て捨てて、改めてネットで調べてみて驚いた。パック入りのお茶は、お湯で沸かして作ったほうが雑菌が繁殖しやすいそうだ。むしろ常温の水に浸す、いわゆる水出しの方法で作ったほうが雑菌が繁殖しにくいそうだ。
私、まったく真逆だと思っていた。お湯で沸かして作った方が、安全だと思い込んでいた。もっとも煮出した場合だと3日、水出しの場合でも5日程度で飲み切るのが良いそうだ。
知らなかった・・・まァ考えてみれば、空気中には雑菌がふわふわと浮遊しているのが普通であり、沸かした後で冷めていく過程で、その雑菌が紛れ込んだのだろう。一応、蓋はしているけど、微細な雑菌のすべてを防ぐことは出来ないのだろう。
以降、私は水出しの方法で麦茶やルイボスティを作っている。で、今さらだが驚いたのは、水出しのほうが美味しいと思えることだ。煮出すほうが味が濃く出て美味しいはずと思い込んでいたのだが、どうも錯覚であったようだ。
私が知らなかっただけかもしれないけど、美味しく楽しめるのならば、それで良し。でも、思い込みってダメですね。腹を壊す前に気が付いて良かったです。
民営化が正しいと信じ込んでいる人は多い。
官公庁の事業は、一見公正に行われているかに見えるが、無駄が多く効率が悪い。これは、行政の一環であるため、コスト意識が欠落しているためでもある。
だから、もはや政府がやるべきでない事業を民営化することにより、より効率的な運営が可能となり、それが結果的に国民の利益になる。これが、民営化の大看板である。
まったくのウソではないと思う。でも、少しでも過去の事例を振り返れば、必ずしも民営化が正しいとは言えないはずだ。
例えば慢性的な赤字体質から分割民営化された国鉄ですけど、これは労働組合潰しの一環としての民営化であったはず。赤字路線の切捨ては、必然的に人員削減を伴うものであり、まず人減らしありきの民営化でした。
で、あれから数十年、国鉄は黒字化したでしょうか。経営は効率化されたでしょうか。その答えは、上場直後と現在の株価の差額にこそ反映されていると思います。含み損を抱えた投資家がどれほどいるのか知りませんが、これを視て見ぬ振りしている経済評論家が如何に多いか、呆れてものがいえません。
民営化=経営の効率化、合理化ではないことは、いい加減はっきりさせて欲しいものです。
少し前から問題に上がっている簡保生命の不正だって、つまるところ経営の効率化を目指した過程から生まれたものです。私は当初から、絶対にやらかすと信じていました。
なぜなら、民間の生命保険会社が同じことを散々とやらかしてきたからです。やるに決まっていると当時から思っていました。実際、民間の保険会社は、不公正をさんざんやらかし、自殺者まで出し、裁判で負けてからようやく規制を受け入れたのです。悪いことだと知りつつ、それが利益になるため止められなかったのです。
今でこそ偉そうにコンプライアンスなどと言っていますが、当時のご乱交ぶりを知っている私からすると、それは多数の保険契約者の犠牲のもとに、嫌々作られた規制なのですから。それを知りつつ、新聞やTVは大切な広告主様の不正を告発することから逃げ回っていました。
ようやく報道したのは、金融監督庁(当時)がその不正の指導を始めてからです。政府のお墨付きがないと、広告主様の不正は報道出来ないのが日本のマスコミ様なのです。週刊誌などでは、とっくに先行して、その不正を報じていましたから、新聞やTVといった大マスコミ様の報道姿勢が如何なるものか、よく分ると思います。
今回の簡保生命の不正だって、金融庁が指導を始めてようやくでした。雑誌メディアは、とうの昔に報じていましたけどね。新聞やTVといった大企業の記者様の、不正に対する姿勢が如何なるものか、よく分かろうと云うものです。
でも、これだけじゃない。
従来の国家事業が民営化された場合、かならず行われるのが、かつての国有資産の安値による民間への払い下げです。これは、別に今の日本政府に限らず、明治政府の頃から散々やらかしてきたことです。
でも明治時代の新聞のほうが、今よりもよほど気骨があったように思います。少なくても報じていましたからね。それに比べて、今の新聞TVは情けない。
郵貯が民営化した時、格安で簡保の宿の払い下げを受けた某企業のことを、少なくとも雑誌は報じていました。でも新聞やTVは最後まで無視していましたね。どうも格下(っと新聞TVは思っている)の雑誌風情が取り上げた問題なんて、相手にしたくないらしい。
よく覚えて置いて欲しい。国営事業が民営化の名の下で、民間に払い下げされた時は、どこかで必ず不正が横行します。税金を投じて設けられた国家事業の成果を、政府と密接な関係を持つ事業者が格安で払い下げを受ける。
これは、日本に限らず世界各地でよく行われてきた問題なのです。インターネットが普及した現在でも、この政府と民間の癒着は、大企業が絡むほどに報道が手控えられる。
呆れたことに、報じても政権のダメージにならない森友や加計問題ならば、大喜びで報じるのが日本のマスコミ様です。本当に保護されるべきであった。弱い立場の庶民が騙され、損を強要されるような不正には関心が薄いのが日本のマスコミ様。
最後に一言、この問題は野党も真剣に追及すべき問題です。安倍政権の打倒にはならないでしょうけど、弱い立場の庶民の立場で戦うことをアピールできたはず。それが出来ないから、いつまでたっても万年少数野党の地位に甘んじているのだと自覚して欲しいものです。
試合を観た事はない。でも、こいつは怖くて強いはずだと思ったのが、スカル・マフィーというプロレスラーであった。
主に1960年代に活躍したプロレスラーであり、私がまだ小学生の頃に一度来日しているはずだ。でも、低学年だったので、その試合は観てはいない。ただ、ポスターを看て怖い奴がいるなァと感じたことは覚えている。
あの頃、私のお気に入りの本は、「プロレスラー選手図鑑」であった。多分、なにかのおまけで付いてきた小冊子である。
そこでのマフィーの紹介ページに戦慄した。曰く、幼少時に猩紅熱を患い、全身の体毛を失ったとのこと。
そう、彼はリングネームを海坊主といい、全身体毛がまったくない、つるっつるの身体であった。でも、浮ゥったのはそこではない。その表情が怖かった。子供心に、この人からはある種の狂気を嗅ぎ取った。
幼少時に体毛を全て失った彼が、どのような少年時代を送ったのかは想像に難くない。だからであろう、彼は学生時代にボディビルと拳闘に打ち込み、頑健な身体を練り上げた。
そして、プロレス専門誌に掲載されるスカル・マフィーの試合の記事は、まさに狂気を感じさせるものであった。実は彼は39歳の若さで亡くなっている。だから、来日も数少なく、その試合ぶりがTVなどで紹介されることもなかった。
だが、新日本の山本小鉄が、是非とも招聘したかったと述べているほか、ジャイアント馬場も招聘には拘っていたらしい。総じて玄人筋からの評価が高いレスラーであった。
先日、ようやくユーチューブでその試合を視ることが出来た。全くの偶然なのだが、アメリカでの試合ではなく欧州での試合であった。
私は狂乱の悪役レスラーだと思い込んでいたのだが、レスリングのテクニックを重んじるヨーロッパの試合であったせいか、その試合は実にテクニカルなものであったのに驚いた。
しかも、その試合の組み立てに感心した。序盤の探り合い、中盤の攻防、相手の得意技を受けた上で、自分の必勝パターンへ持ち込む流れのスムーズさは、狂乱とは程遠い質の高いレスリングであった。
もう一本、今度はアメリカでのタッグマッチを視てみた。こちらは、まさに狂乱の海坊主に相応しい暴れっぷりであり、試合はベビーフェイス(善玉)役の相手を反則攻撃でぶちのめして、相手に逆襲されて動揺しての反則負けである。
まさに悪役レスラーとして見事な試合ぶりであった。正統派のレスリングも出来るが、悪役もこなせる実に多彩なレスラーであったことが分かった。
これは、彼がかなりの知性派であることを意味している。単なる暴れん坊に出来るプロレスではないからだ。
しかし、彼の死因はどうも薬物摂取であるようだ。親しかったレスラーの証言では、彼は無毛であることに拘り、少しでも毛が生えると、神経質に剃り落していたようで、そのさまに病的な拘りを感じたと述べていた。
やはり、どこかに狂気めいた資質を持っていたのだろう。実際、残された写真などからは、彼の表情にある種の狂気を感じ取れるのも事実だ。私は子供の頃、彼の試合をみたこともない癖に、このレスラーを恐れたほどだ。すごい表現力だと思う。
この人の試合、是非とも視たかったものだと少し後悔しています。
長々と三回にわたりアメリカの20世紀後半における戦史を書いてきたのは、日本の平和を愛する人たちのためです。
日本では戦争を真っ当に評価することを避けることが平和教育だと勘違いしている人が多すぎます。戦争こそ人類を動かしてきた原動力であり、戦争に対して正面から向き合うことなくして、本当の平和は得られないと思うが故に、長々と書いてきた次第です。
20世紀が革命と戦争の時代ならば、21世紀はいかなる時代になるか。
私は水と食料と資源を巡る戦乱の時代になる可能性が高いとみています。私とて平和を愛する、あるいは貪る呑気な一市民ですけど、それゆえに戦争という現実から目をそらしてはいけないと思うのです。
日本という国は、水だけは世界的にも豊富に持つ。しかし、食料の過半を輸入に頼っているし、資源の多くを輸入し、それを加工して付加価値を付けて輸出して莫大な貿易黒字を貯め込んできた。
だが、高齢化と少子化により21世紀には大きく人口を減らすことは確実だ。日本人が減った間隙を埋めるように、外国人の流入が増えてきているのはご承知のとおり。
これが日本にとっては更なる課題となる。いつの時代、どこの国であっても大規模な人口移動は必ず戦乱を引き起こす。
もっとも日本は島国であり、そうそう大規模な人口流入は考えられない。しかし、過去とは異なり、日本人自体の人口減少が、人口流入を必要とする。それは既に起こっている現象であり、この流れを断ち切ることは難しい。
異なる生活文化を持つ外国人との共生の秘訣は、言葉である。日常的な会話が出来るだけでも、社会不安は相当に緩和される。これも既に一部の地方自治体では既に直面している課題であり、試行錯誤が実施されている。
だが更なる問題は、定住化し、日本国籍を取得してくる外国人の増加である。彼らには故国があり、そこには親族たちが残っている。彼ら新・日本人たちは故国の問題に無関心ではいられない。
これまで日本は、孤立した島国の常として、日本と交渉のある外国との直接的なトラブルにのみ関わってきた。だが、新たに日本に定着した外国人たちの増加が、日本に変化をもたらすはずだ。
これはアメリカをみれば分かる。新大陸で孤立した大国であるアメリカは、本来国外の問題にはあまり関係を持たなかった。19世紀以前のアメリカは大国ではあっても、国際的な紛争については、直接の利害関係がない場合は冷淡であった。
しかし、移民が増え、定住し二世、三世が新アメリカ人として増えてきた20世紀になると、飛躍的に国際紛争に係るケースが増加した。かつてはユダヤ人コミュニティの政治力だけが突出していたが、20世紀以降になるとイタリア、スペインといったカトリック系のアメリカ人が増えた。
だからこそ、スペイン動乱にアメリカからの義勇兵が参加することになった。これは自然な流れである。同じことが、日本にも起こる可能性は否定できないと思う。
例えば現在の日本で、急速に増えている定住化しているシナ人が故国での紛争に物的のみならず人的な支援をする可能性は高い。北京政府としてみれば、日本からの支援が国内の紛争を加速している訳で、黙っている訳にはいかなくなる。
そうなると、シナと日本との間での武力紛争だって十分あり得る。紛争当事者の一方を支援することは、もう一方にとっては立派な利敵行為なのだから当然であろう。
では、シナ人を日本から追い出せなんて考えも出てくるだろうが、日本に定住しているシナ人は、日本人と国際結婚しているケースが多く、合法的な存在であるだけに容易には追い出せない。それどころか、彼らは日本の社会システムの維持に必要な人材となっていることが多い。
高齢化と少子化により人口が減ってきている日本人だけでは、社会システムを維持できなくなっている現実が事態を難しくしてしまうことは目に見えている。ロボットの活用とかAIの活用だけで解決できる問題ではない。
江戸時代のように鎖国できる状況ではないのです。日本は世界と密接に結び合って21世紀を生きていかねばならない。必然、世界で起こる紛争に、全く関わることなしでやっていくことは難しいでしょう。
皮肉なことに、国際平和を求めて作られた国連こそが、戦争に係るケースが増えている。国連を世界平和の象徴としてきた日本は、国連決議に基づき戦争に係ることが増えていることは、既に皆さんご存じの現実です。そして国連が万能でないことも分かっている。
もう次なる戦争は迫ってきている。だからこそ、その被害を少しでも和らげる準備が必要なのです。高性能な武器を買い揃えるだけが国防ではありません。情報力を伸ばし、情報分析力を高める事も立派な戦争準備です。
最低でも大学で「軍事学」を必修科目に入れておくべきだと私は強く願っています。特に官僚を生み出すシステムである国公立大学でこそ必要な知識です。でも、現実には妄想平和主義に染まった教授や講師がはびこっている。
私としては、これこそが日本にとって最大の平和の敵だと考えています。皮肉なものですよ、平和を願ってやまない人たちこそが、戦争という現実に役立たないなんてね。