好きな食材ではあるが、買うのに躊躇うのが蕪である。
私がよく使うスーパーでは、五蕪を一束にして販売している。野菜売り場の前で私はしばし佇んでしまいます。五個は多過ぎるよ・・・
普段、蕪は味噌汁の具に使うか、浅漬けにすることが多い。次がポトフの具で、私の献立は終わってしまう。だから5個の蕪は多過ぎると、いつも困っていた。
そんな私だが、最近お気に入りの三國シェフの動画に「蕪のポタージュ」がアップされていた。早速真似してみる。蕪の茎と葉の部分を切って、丁寧に切り刻む。蕪もザックザックと細切れにして、これを水から煮込んでいく。
その合間に、先ほどの切り刻んだ茎と葉をオリーブオイルで炒める。緑色が鮮やかに残ってるあたりで少し塩コショウを振って火を止める。一方、蕪本体は沸騰したら一度弱火にして塩を振って味見。それから砂糖抜きのアーモンドミルクを入れて煮立てる。ここでまた塩を振って味見。
それから痛めた茎と葉を入れて煮立てて完成。塩を丁寧に分けて味付けをしていたのが印象的。
さて真似したいと思ったが、ちょっと困った。アーモンドミルクなんて我が家では使わない。コメント欄に牛乳で代用したとのものがあったので、牛乳でやってみる。
使う食材は蕪だけの優しいスープになりました。ただ、味が微妙・・・アーモンドミルクを使ってないためか、不味くはないが味に深みがない。いや、多分塩が足りないのかもしれない。このあたりが、私が料理が下手な証拠だと思う。まったく塩の使い方は難しい。
そこで少しアレンジしてみた。三國シェフはフレンチの料理人なので当然にオリーブオイルを使って茎と葉を炒めている。でも私に拘りはない。敢えてゴマ油を使って炒めてみた。もちろん牛乳仕立てである。ホンの少しだけ塩は増やす。
出来上がった蕪のスープは満足のいくものでした。さすがにこれをポタージュとは云わないけれど、これはこれで美味しいスープとなりました。
余は満足じゃ。
私は下着は消耗品だと考えている。
だから安い下着を一年か二年で買い替えてしまう。以前はコリア製やシナ製が多かったが、最近はインドネシア製やミャンマー製が目立ってきた。
ミャンマーはここ数年、東南アジアの成長株である。軍事政権から民政へと移管して以降、外資の導入が図られ、経済は大きく進展している。
おそらくはこの経済発展こそが、今回のミャンマーにおける軍事クーデターの根幹にあると思われる。
軍事政権を毛嫌いする人は多いみたいだが、社会の混乱を収束する政治的手法として一番優れた方法だと考える。ただ、武力による統制は、経済活動を委縮させるため、余程公共事業をうまく回さないと景気は後退する。
そして概ね軍人は経済概念が薄い。いわゆる武士の商法ではないが、商売を分かっていないが故に社会に不満が鬱屈する。だから賢明な独裁者は、社会を安定させる一方で、民政移管のタイミングを計り、民主的な政権に移行させる。実例はシンガメ[ルや台湾、韓国だろう。
ミャンマーはどうかというと、経済の発展が急激すぎた。元々軍事政権下で経済を握っていたのは共産シナの強い影響下にある華僑たちだ。選挙による民政移管以降、外資が入ってきて経済は活況化したが、経済の根幹を支配するのは華僑であることに変りはない。
ミャンマーの軍事政権と北京政府は一見、親密な関係に見えるが実はそうではない。シナの南部からミャンマー国内を通るイラワジ川(現エーヤワディ川)の通行権こそがシナの狙いであり、それを分かっているミャンマー軍は断固として拒否している。
シナにとっては、インド洋への直接の航路が拓ければ、アメリカの支配する太平洋をスルーして、中東の国々へアクセスできるだけに、イラワジ川の通行権は悲願です。でも、それはミャンマーにとっては致命的な結果となるのは明白だ。
しかし、軍事政権を嫌う西側の制裁措置故に、シナ以外に支援してくれる国はないため、国内の華僑の活動を容認せざるを得ない。民政移管以後、外資が大量に入ってきたが、経済を牛耳るのが華僑であり、とりわけ電気、ガス、水道などの社会的インフラ事業を独占されている。
今回のクーデターは、行き過ぎた経済の自由化に歯止めをかけるのが目的ではないかと私は推測しています。軍事政権に反発する西側社会とは裏腹に、理解ある姿勢を示している北京政府ですが、内心は歯ぎしりしている可能性は高いです。
経済を自由化すれば、大が小をのみ込むのが通例であり、膨大な資金力、人脈を駆使して経済を握る中華資本に対する警戒感が、今回のクーデターの背景にあると思います。
私見ですが、ミャンマーはまだまだ政情不安。多数派のビルマ族と他の少数民族との軋轢は休火山のマグマのようなもの。イスラム系の少数民族ロヒンギャへの稚拙な対応などをみると、まだまだ選挙による民主的な政権では国内の軋轢をコントロールするのは難しいと思います。
民主主義は万能薬ではありません。安易に西側のマスコミの論調に同調しない方が良いと私は考えています。
これ、Rockだよね。
私が初めてRockと云われる楽曲を聴いたのは、多分ビートルズだと思う。今、聴けばポピュラーミュージックの観は否めないけれど、あの頃は世の中の穏やかな常識に反発するロックンロールそのものだった。
一通り聴き終えると、私はより過激にハードロックやプログレロックにはまっていったが、その一方でカーペンターズやS&Gなどの穏やかな音楽も好んでいた。極論に走り勝ちながら、どこかでバランスを取ろうとする性質は、既にこの頃からあったみたい。
大学生になると、流行の曲をチェックする一方で、JAZZにも強く惹かれていった。でも心の奥底でRockに対する関心は消えることはなかった。さすがにこの頃になると、売らんが為のRockと、社会への反骨心を秘めたRockとの違いが鼻につくようになった。
でも、一番嫌いだったのは、本気でRockを志向しているかのようで、実はみかけだけのロックンローラー。分かり易い一例を挙げれば、昨年亡くなった泉谷某だ。騒ぐだけで中身のないRockだと思っていた。
その一方、本物というか、こりゃ凄いと思ったのはブルーハーツ。甲本ヒロトのボーカルを聴いた時は本当にびっくりした。でも映像で視た時の驚きはそれ以上だった。
コロナ禍のせいで家にこもることが多いおかげで、最近話題の「うっせぇわ」by Adoをユーチューブで視た時の驚きは、まさにブルーハーツ以来のもの。アニメ・ヴァージョンが人気だが、ピアノ・ヴァージョンも良い。後者にぼんやり写っているのがAdoさんらしい。
巷では椎名林檎の再来だとか、エヴォ・ラフィン似だとか騒がしいが、私にとってはRockそのものだ。昨年のYOASOBIのイクラちゃんといい、最近は女性ボーカルが豊作だ。
ただ、多分小さい子供は真似するだろうなぁ~~「うっせぇわ」の連呼に苛立つママさん、きっと増えると思うぞ。子供って、こうゆうの好きだしね。
[[youtube:Qp3b-RXtz4w]]
B級ホラーは、グログロ、ゲチョゲチョ。
観ていて気持ちの良いものではないが、ホラー映画の定番なので致し方ない。家にこもってツマラナイので、レンタルしたのだが、掛値なしにB級だと断言できる内容。
ただなぁ~、もちろんグログロのモンスターは気持ち悪い。でも、ちょっとだけモンスターに同情してしまった。だって、奥さんあんまりだ。怪物に変貌してもなお、奥さんを守ろうとしたモンスター。
別にモンスターと殉死しろとは云わないけれど、モンスターに変貌する前から、この奥さん旦那に対する嫌悪感が強すぎて、そこが妙に気になった。そりゃ、長年夫婦やっていれば、いろいろあるのだろうけど、それってホラー映画に必要か?
B級ホラーに余計な人間ドラマは不要です。それを痛感した作品でもありますが、グログロ、ゲチョゲチョのSFホラーを楽しみたければ、けっこうな良作だとも思います。
お好きな方は是非どうぞ・・・って、多分マニアはとっくに観ていると思いますけどね。
奴隷制度の歴史は長い。
おそらく農耕生活に入る前、狩猟採取生活が主体であった頃からあったと思われる。つまり人類の歴史の大半において存在したのが奴隷だ。
私の想像では、現生人類が他の直立猿人との生存競争の過程で既にあったと思われる。これは遺伝子工学の進歩により判明したのだが、クロマニヨン人と呼ばれる現生人類と旧人類とされるネアンデルタールとの間には複数の近縁種の直立猿人がいたようだ。彼らとの生存競争の結果、行き残り勝者となったのが我々現生人類である。
その過程で、戦いに敗れた側と我々クロマニヨンとの間でかなりの混血があったようだ。これは先史時代のみならず、比較的近世に近い時代でも、征服者であり侵略者である側が、敗者の側を獲得物とすることは珍しくなかったことからも分る。
ただ文明の進化が、次第に奴隷を持つことを不合理なものとしていった。奴隷にさせられる仕事は、農作業や土木作業など簡単なものに限定されてしまう。複雑な作業には、文字の読み書きの能力が求められ、その取得には教育といった知的鍛錬が必要なため、奴隷には不向きであったからだ。
決定的だったのは産業革命で、工場労働者に求められる仕事は、奴隷がこなすにはいささか複雑に過ぎた。もちろんプランテーションなどで奴隷を活用することは、なかなか止められなかったが、農作業にさえ機械化の波が入ってくると、もはや奴隷は使い辛いものとなる。
そして知的訓練を受けた奴隷は、必然的に奴隷所有者に対して抵抗をし始める。さりとて産業の高度化は、知的訓練を受けた人材を必要とする。奴隷は活かさぬよう、殺さぬように遇し、希望を与えず絶望に馴れさせることが肝要だ。しかし、産業の進化が、それを許さなくなった。
奴隷制度が終結したことに、人権思想が強く働いたことを否定はしない。しかし、高度産業という新たな仕事に就かせるための労働力を必要としていた経済界からの要求が大きく働いたことも事実である。
その典型例が19世紀のアメリカである。この時代のアメリカは産業革命が少し遅れて始まったが、工業の発展は本家ヨーロッパを凌ぐほどであった。この工業の新たな進展に必要なのは、知的訓練を受けた労働者であり、奴隷は不要であった。
ただし、それは工業が発達したアメリカ北部であって、綿花やサトウキビ等のプランテーション農業が産業の主体であったアメリカ南部では、奴隷労働力こそが求められる。
この時代のアメリカは、各州政府の連合体がアメリカ政府であって、その権限はあまり強くない。それゆえ奴隷制度を必要とする南部諸州と、知的訓練を受けた労働者を必要とする北部の各州とでは意見が合わなかった。
南部の黒人奴隷にとって皮肉だったのは、アメリカが自由と平等を標榜する国家であったことだ。より正確には信教の自由を求めるピューリタンが理想の国を築こうと大西洋を渡り、新大陸で立ち上げたのがアメリカであった。
あくまでキリスト教内部の問題が主であり、決して人権思想に基づく自由と平等の国ではなかった。本来はキリスト教における新教派であるプロテスタントが築き上げた自由の入植地であったのだが、やがてなし崩し的にカトリック教徒も自由(商売の自由だと思う)を求めて渡ってきた。
もう既に宗教戦争の時代は終わっていたので、カトリックも受け入れざるを得なくなり、その過程で自由と平等が堂々と看板に書き記されることになった。それを暗い瞳で見ていたのが、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちであった。
私には白人キリスト教徒の傲慢さが感じられて不快なのだが、このツケは最終的には南北戦争により払わされることになる。ただ、日本では間違って教えられているが、南北戦争はあくまで工業中心の北部の州政府と、農業中心の南部の諸州との権力争いである。
リンカーン大統領は、戦争に勝つための方便として黒人解放を言い出したのであって、本心ではあまり関心はなかった。その証拠に、解放された黒人たちの第二の人生設計には無関心であった。それゆえ、せっかく解放されたが生きていく術が分からず「寛大な旦那様、再びワシらをやとってください」と元の奴隷所有者の元に戻る黒人たちは少なくなかった。
そんなアメリカで、最も不幸だったのは、ある程度知的訓練を受けて教養があった南部の黒人奴隷であろう。リンゴ(知恵)を齧ったが故に裸体でいることを恥じて、最終的にはエデンの園を追放されたアダムとイブのように、教養を得たが故に奴隷の屈辱に苦しめられた。
表題の書の主人公がまさにその典型であった。長い間、本物の奴隷が書いた本だとは分からず、歴史の闇に埋もれていた作品であり、近年に至りようやくその真価が知られるようになった。
奴隷が受ける屈辱と、そこから抜け出すための地獄の日々を綴った本書が、まさか黒人奴隷その人により書かれているなんて、誰も思わなかった。私はこのあたりにも、黒人奴隷に対する蔑視を感じてしまう。この時代、読み書きの出来る黒人は少なかったのは事実だろうけど、それは奴隷社会を維持するための檻だと思う。
それと著者の本意ではないだろうけど、黒人が黒人を搾取する事実が率直に書かれていることも印象に深い。奴隷制度が如何に人々の心を傷つけるかの証左であろう。
ここで最後に嫌な予測をしておく。化石燃料多消費型の文明で暮らす私たちだが、そう遠くない未来において氷河期が到来した場合、文明の多くが崩壊するでしょう。
そうなれば野生の生き方が復活する可能性は高い。そこで奴隷制度は復活する可能性があると考えています。知的教養を必要としない野生の時代になれば、再び奴隷を求める人間の本性は、そうやすやす根絶されないと考えるが故です。