ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

海のトリトン

2023-01-24 11:20:57 | テレビ
このアニメのオープニングソングを歌える人は多いと思う。

でも、このアニメのエンディングを覚えている人は少ないと思う。

原作は手塚治虫であり、当初は虫プロでアニメ(当時はTV漫画と呼んでいた)を製作する予定であった。しかし、経営的に苦しかった虫プロでは完成させることが出来なかった。そこでマネージャーだった西崎義展が放送局に独自に売り込み、富野由悠季の初監督作品としてアニメは放送された。

原作を読んだ富野は「ツマラン」と評して、独自のシナリオを書いてしまった。アニメ創設期には、このような乱暴なことはしばしば行われていた。しかも富野のシナリオは手塚の原作とはかけ離れた物であったため、漫画の単行本の帯には「TV版とは違います」と書かれる始末。

またアニメの作成も虫プロではなく、東映動画からスタッフを連れてきて作画しているので、画風まで微妙に違う。おかげで原作とTVアニメは似て非なるものとなっている。

あの頃、漫画やアニメは子供のものとの認識が普通であった。子供が楽しめることが第一とされ、それに相応しい作品が当然であった。しかし富野氏はそれに納得していなかったと思う。たとえ子供向けの作品だとしても、現実の厳しさ、残酷さを加味したよりリアルな作品を望んでいたのではないかと思う。

だからアニメのトリトンは、当初はポセイドン族に追われる悲劇の主人公であったのだが、最後はポセイドン族を全滅させる残酷な悪役を担う羽目に陥っている。絶対的な善と悪といった概念で納めず、立場により善悪は変るといった、より現実的なシナリオを富野氏は提示したのだと思う。

それが間違いだとは云わない。実際、子供向けの童話などでは、必ずしもハッピーエンドとは言えない物語が沢山ある。その代表がアンデルセンの童話だ。悲劇的な童話が多いが、それは将来残酷な現実に出くわす子供たちへの心のワクチンの役割を果たしている。

だが富野氏が提示した「海のトリトン」には悲劇としての残酷さ、割り切れぬ現実の難しさはあるが、アンデルセンの童話にある哀しい美しさがない。だから心に残らない。

富野氏の意図は分かるが、初監督作品である「海のトリトン」のエンディングは美しくなく、哀しくもない。その意味で私の評価は低い。率直に言って、手塚治虫の原作の方がまだ子供向けとしては上だと思うのです。

いささか厳し過ぎる評だと自覚はしています。ただ、幼い子供の心には残らないとしても、十代以上の若者には強く印象に残ったのも確かです。私の知る限り、視聴者が主体となってファンクラブが出来た最初のアニメが「海のトリトン」なのですから。
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キング・カズ

2023-01-23 09:16:37 | スポーツ
中学の修学旅行は奈良・京都であった。

行きの新幹線で私はトラブルに巻き込まれ、そのせいで碌な思い出のない修学旅行であった。でも一つだけ忘れられない思い出が大徳寺であった。

このお寺の和尚さんは有名らしく、そのありがたい講話を拝聴することになった。その多くは忘れたが、とても有名な話があった。それは今でも覚えているし、ご存じの方も多いと思う。

曰く、冬の寒風吹き荒れる中、手袋を忘れたために両手は凍るように冷たい。右方向から吹き付けるため、右手のほうがより凍えている。そんな時は、右手で左手を擦ると良いと。

普通ならまだ多少は凍えていない左手で、右手を温めるのが普通だろう。でも、敢えて凍える右手で左手を温めることで、左右共に暖かくなるのだと。

この話は私の脳裏に深く刻まれた。納得のいく話であったため、大徳寺を出る時に売店で思わず土産として、その和尚さんの本を買ってしまった。今にして思うと、商売の巧い和尚だが別に後悔はしていない。

日本サッカー界のレジェンドであり、世界最年長のプロサッカー選手である三浦和良が、大徳寺の和尚の話を知っているかどうかは知らない。でも、私はカズが似たようなことをしているのを知っている。

三浦カズは毎年、ある障碍者施設を慰問している。手足に障害のある子供たちと一緒にサッカーをしているという。自由にボールを扱えない子供たちは、プロ選手であるカズのボールを奪おうと必死で駆け回る。でも、なかなかボールは取れない。意外にもカズは簡単にボールを取らせない。むしろ子供たち同様に必死でプレーしているかに思える。

ある記者が、その慰問を終えてカッコイイ高級車に乗り込み帰ろうとするカズに訊ねた「これはパフォーマンスですか」と。

するとカズは「僕が彼らに何かをしてあげてるって?逆に僕が何かをもらっているようには見えなかったかい?」と答えて、さっそうと帰っていった。質問した記者は故意に意地悪な質問をしたのだが、彼にも答えは分かっていた。

記者の撮った写真は最初こそカズの姿ばかりだが、途中から泥にまみれて必死でボールを追いかける子供たちばかりを撮っていた。長年の選手生活で身体はボロボロのはずのカズは、ここで手足の不自由な子供たちから元気と勇気をもらっていることが分る。

人は苦しくなると、心の視野が狭くなる。私もそうだ。近年、私の身体はボロボロだ。内臓に腫瘍がみつかったり、ポリープ除去手術を繰り返したり、はたまた心臓のトラブルで緊急入院して機械を体内に埋め込んだりと忙しない。

繰り返す病気と手術は身体を痛めつけ、体力を奪い、気力を萎えさせる。

だからこそ私は思い出さねばならない。私なんかよりも、もっと苦しんでいる人たちは沢山いる。絶望の底で屈辱に塗れて這い回る惨めさを味わっている人たちは確実にいる。

医者でもない私に出来ることは限られている。いや、ほとんど何も出来ずにいる。でも忘れずにいることを知らせることは出来る。社会から忘れ去られる苦しさを私は知っている。

キング・カズのように恰好良くは出来ないけれど、それでも自分に出来ることはやろうと思います。
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軍事費の増額 その二

2023-01-20 11:48:10 | 社会・政治・一般
一年前に始まったロシアのウクライナ侵攻は、軍事史に新たな一ページを刻む羽目になっている。

20世紀の米ソの対決、すなわち冷戦時代の軍事戦略が通用しない現実が、世界中の軍隊から驚きの目をもって迎えられている。

現代戦では制空権を握った側に勝利はもたらされる。ヴェトナムでもイラクでも制空権を巡って東西両陣営の戦闘機が死闘を繰り広げた。

しかし、今回のウクライナ侵攻戦では様相が異なる。正直ウクライナ空軍は旧ワルシャワ機構軍の残滓に過ぎない。ミグやスホーイなどの最新型戦闘機を擁するロシア空軍が圧倒的であり、あっさり制空権を握ると思われた。

ところがふたを開けてみると、未だにロシアは制空権を握れない。原因はポーランド上空を飛んでいるアメリカの空中警戒機による早期警戒網と、個人兵が携行する対空ミサイルにあるとされる。

レーダーなどの電子兵装についてロシアの技術水準はアメリカに遠く及ばない。中立であるポーランド上空のアメリカ機には手が出せない。アメリカ側からもたらされるロシア空軍機の情報は素早くウクライナ地上軍に送られて、個人が携行できるような小型の対空ミサイルで迎撃されてしまう。

西側よりも多少安いとはいえ、一機当たり数十億ドルするロシア空軍の戦闘機が、一発数千ドルの小型ミサイルに迎撃されてしまうのだから、ロシアとしてはやってられない。

ただウクライナ側でも完全に制空権を握れている訳ではなく、ロシアから飛来する対地攻撃用ミサイルにより市街地が多大な被害を受けている。またロシア自慢の陸軍も予想以上に活躍できていない。

ロシアの戦車は対戦車との戦いならば決して弱くない。しかし、空中から襲ってくるドローン兵器への対応は不十分であることが分かってしまった。これまた一台当たり億ドル単位である戦車が、一機当たり数万ドルのドローン兵器に撃破されるのだから、たまったものではない。

このような不均衡な戦いを非対称戦と呼ぶ。

アメリカは既に1990年代にはこのような未来の戦場を予測していた。だからこそF22ラプターを当初の3割程度の調達に留めたり、巨大原子力空母の建造ベースを弱めたりしてきた。

その代わりに同盟国との共同製作、供用使用を前提にしたF35を使い出したり、プロペラ攻撃機を新たに開発したりと、非対称戦に備えてきた。このアメリカの動きに不信感をもっていた国々は多いが、今回のウクライナ戦争でアメリカの先見の明に改めて気づかされた。

20世紀に於いては、正しいとされた戦術が、技術の変化に伴い21世紀では適切であるとはいえなくなっている。現在、世界各国の軍事関係者は、この変化にどう対応するのか水面下で熾烈な論争が起きている。

日本における軍事費の倍増とは、この変化に応じたものなのだろうか。

そうでないことは容易に予測できると思う。相も変らぬ正面装備重視の旧態たる軍事予算である。防衛省が愚かだからではない。軍事音痴の日本国民から選ばれた政治家たちが未だに旧態にすがりついていることが愚かさの原因である。

日本が仮想敵国としている国々の多くは、高齢化が進み、子供が減少して社会全体が停滞し、縮小していくことが予測されている。それなのに、20世紀の戦術思想に凝り固まっていて良いのだろうか。

アメリカとの関係もあり、軍事費を一般的な先進国レベルまで上げなければならないのは致し方ない。なれば、その軍事費の中味を精査し、21世紀の日本に相応しいものへと変える決断が必要だ。

実は防衛省内部でも既に議論していることでもある。実際、旧態化した歩兵戦車を従来の国産兵器から、フィンランド製を輸入もしくはライセンス生産することは既に決まっている。実戦経験もない日本の兵器は、値段ばかりが高く、実用性に乏しい。だから比較的重要度の低い歩兵戦車を、安くて高性能な外国製品へと代替することに私は賛成だ。

ただし、この変更は従来歩兵戦車を製作してきたコマツが撤退したことが契機である。最近失敗兵器が目立つ三菱も名乗り出たがフィンランドのパトリアAMVには性能面で遠く及ばなかったが故の結果である。

21世紀の日本に必要な軍隊にはなにが必要か。その議論を十分にしないまま、ただ予算を倍にするなんて本末転倒であろう。まあ軍事産業に天下る予定のエリート官僚様や、軍事予算のおこぼれを狙う政治業者にはどうでも良いのでしょうけどね。
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軍事費の増額 その一

2023-01-19 13:49:53 | 社会・政治・一般
空虚な議論にうんざりする。

なにがって軍事費の増額と、そのための増税に関する議論である。まず目的があっての手段であり、なんの目的で軍事費を増大し、その財源としていかなる財政的な裏付けをするのかが問われるべき。

目的についていえば、もうアメリカの前々大統領であるオバマ大統領の頃から言われていた、日本軍の軍事費負担の増大が根幹にある。アメリカ製のハイテク兵器は高額であり、なによりアメリカ政府自体が自国の軍事費の増大に困っている。

だからこそアメリカは孤高の最新兵器(F22ラプター)を諦め、多国間で開発費を負担できるF35ライトニングⅡを主力戦闘機とした。そして日本に対しても軽空母の建造を奨め、アメリカの国防戦略の一端を担わせる始末である。

つまり世界第三位の経済大国の財力でをもってして、アメリカの軍事戦略を補完させるつもりだ。敗戦国である日本は如何に平和憲法を掲げようと、このアメリカの意向には逆らえない。

長年にわたり本来日本が担うべき軍事費負担をアメリカに代替わりしてもらっていたツケを、今になって払わされている訳だ。ピンとこない方も多いと思うけど、原油などの資源を中近東から輸入することが日本経済の大動脈であり、その地域における日本の民間船の安全をアメリカ任せにしていたことを思い出して欲しい。

まして共産シナの軍事的躍進により、東シナ海や南シナ海の安全な航行が今まで以上に脅かされる現実を鑑みれば、この地域における日本の軍事的存在感を強調させる軽空母や潜水艦隊の存在は有意義だ。

だが、これらの戦力維持には多額の予算が必要となる。特に軽空母ともなると、船本体の維持管理だけでなく、搭載する艦載機(F35B)の維持費も高額だ。また潜水艦は水上艦よりも割高であり、搭乗員も高度な訓練が必要となる。

また日本の軍隊は、戦前から一般兵の福利厚生が不十分で、慢性的な人手不足に悩んでいる。これからの少子化を想えば、今まで以上に待遇を良くしないと、立派な兵器はあっても、それを運用するための人員が足りない事態になりかねない。

軍事費の増額とは、単に武器を増やせば良い、武器の性能を上げれば良いといった単純なものではない。だからこそ、如何なる目的を達成するため、その手段としての軍事費を活用するのかが大切となる。

言い換えれば、日本の平和を守るため、現状と未来への展望を加味して適切な軍事力を持つことが重要だ。これが骨子となるのだが、その根幹たる骨子の議論なくして適切な軍事計画が立てられようか。

過去における日本の軍事計画は、一見整理整合されているが、実はかなりちぐはぐなことをやらかしている。アメリカの方針変更に振り回されるのは仕方ないが、官僚の計画倒れの御立派な予算と、利権として食い込みだけの政治屋の跳梁跋扈。そして軍事知識の欠落した平和至上主義者の横やりと、それに便乗する良い子ぶりっ子のマスコミ。

あまりの稚拙さに、あたしゃ頭が痛くなる。でも我慢して続けます(続くんかい!)
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お年玉

2023-01-18 12:48:47 | 経済・金融・税制
まず最初に書いておくと、お年玉は非課税である。

ただしお年玉名目で配られるような賞与は課税対象となる。年末年始は暇つぶしにネット上をうろうろしていたなかで、気になる報道があった。それが著名な芸能プロダクションであるジャニーズ事務所が年初に配ったとされる「お年玉」への課税報道であった。

正直言って私はこの記事は不親切であり、不勉強であり、不愉快だと思っている。

別にジャニーズ事務所とは関係ないし、そこに所属しているタレントにも興味はない。私が不快に感じたのは、マスコミの報道に杜撰さである。税務当局に媚び売るような姿勢が気にくわない。

これはジャニーズ事務所だけでなく、芸能界など興行の世界では仕事始めの年初に所謂お年玉を配ることは慣習として良くある話である。歌舞伎から新劇、落語会などでも、興行主から一定金額が配られる。

その相手は劇場の切符売り、掃除人、売り子、経理や事務部門のスタッフの他、出入りの業者にもお年玉は配られる。一人数万円前後が多く、飲み代には少し足りないが、餅代には十分な金額だと聞かされたことがある。

私は二十年以上、この手のお年玉配りを見てきたが、税務当局に課税漏れだと指摘されたことはない。まァ興行の世界の実情を知らない人だと、賞与だとか、源泉所得税の徴収漏れを口にする調査官はいるにはいた。

しかし、業界の慣例として、その中身を丁寧に説明するとほとんどの国税調査官は納得してくれた。つまり課税されたことはない。今回のジャニーズ事務所のお年玉は、名称だけお年玉であり、実質は賞与であったらしい。だからこそ課税されたに過ぎない。

マスコミ関係者が忙しいことは知っているけれど、国税局などの記者クラブで配布された資料を丸投げして報道する安易さには、ほとほと腹が立つ。この記事を書くにあたり、芸能関係者に裏付け取材をするなどした記者はどれだけいたのだろうか。

役人の配布した資料を横流しするだけならば、そんな報道はしない方がましだと思いますね。
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