入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

       Ume氏の入笠 「冬」 番外編(12)

2014年12月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 もう少しだけ昔のこと。
 山の遭難の原因は大概「装備の不備」ということで片付けられた時代があった。戦後の高度成長が始まった時代でも、まだ登山者の着る物、装備は貧しかった。
 八方尾根で高校生が遭難事故を起こしたときも、そう言われた。なにしろエアーマットの代用に、彼らは炭俵を使用していたのだ。このころでも、エアーマットはすでに出回っていたが、高校生の身では十分なことができなかったのだろう。不憫に思ったことを覚えている。
 高校山岳部と言えば、母校の部室にあったカーキ色の寝袋は、進駐軍の放出品であった。「鳥小屋」と呼んでいたが、それを使うと身体中、鳥の羽にまみれ、狭いテント内にも舞い上がった。何でも朝鮮戦争当時、米兵の遺体を戦地から日本へ搬送する際に使った代物だと聞いた。
 
 昭和40年前後の国産品は、いまひとつ信用されなかったが、その代表がラジュースであった。例えば南極観測隊の装備は、国産品を使用するということが基本方針だったにもかかわらず、ラジュースだけは外国産を持っていったと、何かの本で読んだ。使用した燃料にも原因があったと思うが、国産品は予熱と火力のコントロールが特に困難で、テントを燃やしたという話も聞いた。遭難者の残した手記に、故障したラジュースに手を焼いた様子が記されていたこともあった。ガスコンロの登場は、その点大きかった。
 今では「ダウンジャケット」などと呼ばれる羽毛服も、フリースと同じく、どこやらのメーカーが安価な製品を売るまでは、国産品はまず目にしなかったと思う。外国品は本物のグース・ダウンを使っていたから高価だったが、品質は格段に良かった。国内の登山では「贅沢だ」と言われ、羽毛服の使用が禁止されていた大学山岳部もあったと聞く。ようやく手に入れたフランス製の羽毛服の胸元を、酔っぱらって燃やしてしまったこともあったが、ガムテープをベタベタと貼って意気がっていた。

 いつしか山は、中高年が台頭してきた。交通の便もよくなったし、装備や衣類も進歩したから仕事を離れた定年後でも、また山へ帰ってくることができるのかも知れない。そうだとすれば、山を賑わせている人たちは、昔も今も同じ人たちだということになるが、さてどうだろう。少しは当たっているかも知れない。「装備の不備」は言われなくなったが、「体力不足」がそれに代わった。
 他方、各地の岩場からクライマーの姿が消えた。「岩を染めてたヒーローたち」は、今はどうしているのだろうか。

 本当は厳寒の山の夜の「自然に呼ばれたとき」の大変さを書くつもりだったが、Ume氏の美しい写真とはあまりにミスマッチかと・・・、またいつか。

 山小屋「農協ハウス」の冬季営業に関しましては、11月17日のブログをご覧ください。12月5日、9日のブログも参考にしてください。年末年始の計画については、何卒お早目に。16、17、18日とブログを休みます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする