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4,5年前までは、この天竜川の堤防が冬ごもりの間の散歩コースであり、良い気分転換にもなった。もうやらないというわけではないが、春の陽気を感じられるころまでは多分、その気にはならないだろうと思っている。
確かに、旧会津藩士は移封された僻遠の地の過酷な暮らしの中でも、向学心を失わなかった人たちがいた。教育水準は高かった、と。それもあって世に出た人たちもいたわけだが、戊辰戦争における会津藩士の戦いぶり、振る舞いが敵方の新政府軍にもよく伝わっていたからではないだろうか。戦いに敗れ、斗南藩士となっても、明治政府の要人たちの耳に彼らのことは達していたと考えられる。限られた幸運な人たちだけにしても、新しい時代への足掛かりをつかむことができたのは、かつての敵、会津武士への評価が高かったからに違いない。山川浩やその弟、かつて会津城を激しく攻めた旧敵である大山巌に嫁した妹・捨松などは、その典型と言える。
しかし、下北半島の不毛の地、斗南藩へ移っていった1万数千人の人たちはどうなったのか。同地での2年そこらの暮らしの中で、多くの人が亡くなり、出稼ぎや離散などで何千人もの人がいなくなった。明治4年の廃藩置県が行われた年には斗南に留まっていた人たちは1万人にまで減り、その中の6千人が病人と老人だったと、昨日紹介した本にある。
政治家や軍人として、あるいは教育者として栄達の道を歩んだ人たちがいた一方で、多くの人たちは苦難に喘ぎながら終わっただろう。「一将功成って云々」の感がしないでもないが、それは会津若松城の戦いで非業の死を遂げた多くの老若男女たちも、当然加えてである。
寒い季節は、どうしてか古い昔のことを思い出す。個人的なことも、また遠い時代のことも。「囲炉裏の端で縄なう」わけではないが、話がつい長引いたかも知れない。斗南の過酷な暮らしの中でもきっと、父親は子供らに過ぎた昔のことを夜話にして語り聞かせたはずだ。その話にじっと耳を傾ける子供らの様子が目に浮かぶ。
年を取ればとるほど寒さは身に沁みるが、しかし、冬の季節が早く終わって、明るい日の射す春が来てほしいとは、まだ思わない。むしろ、活動をしないでいるこの冬ごもりの季節が、ゆっくりと過ぎていって欲しい。「過ぎし昔の思い出」が懐かしく甦ってくるからだ。
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