冬ごもりの日々にあっても、悲喜こごもものことがここまでも聞こえてくる。大企業の元経営者が保釈中に国外逃亡したとか、はたまた政治家の醜聞などは、それこそ冬ごもりの穴熊のように、外を吹きすさぶ風の音に混ぜて聞けばいい。しかしこんな夜中に布団から抜け出し、すぐには暖かくならない冷え切った部屋で、極めて抽象的にこんなことを独り言ちることは相応しいだろうか。
いろいろなことを言ってみても、親であれ、配偶者であれ、子であれ、身内の不幸に対して、当事者になれない者は沈黙するしかないと思う。月並な慰めの言辞を弄してみても、その瞬間に真実の気持は歪み、変質するようで、不愛想を決めているしかない。それが当事者でない者のできる、せめてもの誠意だと思っている。ただそれを自分ではそう思っても、必ずしも相手には伝わらないかも知れないが、それは仕方のないことだ。確かに、ありきたりの言葉でもいいから、穏やかに、気持ちを込めて、小春日和のようなやさしい暖かさを伝えられたらと思うことだって幾度もあった。それも、切実にだ。
高校生のころ、最寄りの駅までいつも一緒に歩いたMの父親が亡くなった時、口の中に膨れ上がった弔意をいくら努力してもついぞ音にすることができなかった。また、ある葬儀の席で、故人とは親しかったからその気持ちは痛いほど分かったが、弔辞というよりか悲しみを絶叫するばかりで、いたたまれずに席を外したこともあった。かと思えばよそよそしい美辞麗句を並べてベタベタにほめそやす場面も見た。結婚式で、新郎新婦の学歴紹介には決まって「優秀な成績で云々」が付いて回るが、あれは愛嬌だから聞いていられる。しかし葬儀では、白ける。
同じように通過儀礼だと思っていれば済む場合もあるが、思いが深く、強ければ、なかなかそうもいかない。純粋に、できるだけ透明な気持で当事者の悲しみと対峙していたいと思うし、そうするしか他に方法がない。
原爆で生命を落とした幼い妹をおんぶ紐らしきで背負って、焼け跡にたたずむ少年の写真、感情の一切を見せないあの乾ききった無表情な顔に、その悲しみの深さが凝縮している。できれば彼を範として、倣いたい。できるだろうか。
来週から、ここらも雪の予報が出ている。そうなればもう、車で上に行くことはできなくなるかも知れない。
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