夜の散歩と昼の散歩とではその気分、味わいが違う。何年もかけて地下深くから湧出したあの洞の水は夏でも冷たく、1分とその中に手を浸してはいられない。飲めばその味はまさに甘露かんろ。
他方、生ぬるくなったペットボトルの水は喉の渇きを癒してはくれても、それだけである。前者が夜、後者が昼の散歩、そのくらいの違いがあると感じている。
開田に出てこの時季、冬枯れの景色を眺めながら東の仙丈岳や、伊那の谷を挟んだ逆側の木曽駒の雪の様子を気にしながら歩くのも悪くはない。特に風のない、暖かな陽射しの中ならなお有難い。
一面に拡がる田畑は1年の役目を終えて、翌年が来るのををじっと待っている。その景色をペットボトルの生ぬるい水などと言ったのは訂正した方がいいかも知れない。
それでも、同じ場所からでも、味わう雰囲気はまた別だ。頭上に浮かぶ冬の星々や星座、薄暗い影絵のような仙丈岳を背後にして、うずくまる遠く小さな集落の灯り、その手前の無駄とも思える広大な闇。
それに、周囲の沈黙に加え、冬の夜気が伝わってきて、とにかくそのすがすがしさが昼とは格段に違う。
ここまでくれば、もう歩き出す前の迷いは消える。雑念だろうが妄念だろうがそれらを拒まず、いつもの決めた順路を歩くだけだ。
開田を抜けると、狭い畑中を走る車道を300メートル位歩かなければならないが、幸い滅多にしか車は通らず、夜間の交通量は少ない。車の灯りが近付けば、歩行者がいることをヘッドランプを点けて教える。
一昨夜は、牛飼い座の主星に引きずられた北斗七星の柄の部分が、東の空、雑木林の上に見え始めていた。
車道と別れて、暗い谷へ下りていく。闇の中から聞こえてくる沢の水音については、いくら強調してもし過ぎるとは思わない。暗闇に磨かれた流れの音は、なんともすがすがしく、気が引き締まる。
それから集落の端を遠慮しがちに通り抜け、人家の絶えた山裾を急ぎ足で登って峠に出でる。ようやくそこで、待っていてくれた夜景と出会う。
天竜川を中心にして経ヶ岳の山裾にまでも続く光、影のような山並み、前にも呟いたがこの眺めには過去が見え、現在が見え、未来も見えているような気がしてくる。
眠りに入りつつある集落ばかりか、山の中でも、人眼に付かないことだけを願って歩く。夜の散歩の最も気になるのはクマやキツネ、タヌキなどではなく人である。そのことを言いそびれたので、また明日にでも。
本日はこの辺で。