頭上の倒木はいずれ道路に落下する、次回はチェーンソーを持っていく
歩いていれば、人は1分間に6,70㍍は進む。遠くに見えている畑中の道も、考え事でもしていれば思いがけずに通り過ぎていることもある。散歩をしていると、よくそういうことがあって、以前には歳を取る早さに譬えたことがあった。まだまだ先だと思っていたら、いつの間にかその歳になっていた、と言う経験は誰にもあるだろう。
その一方、「座る」と、1分は結構長い。5分ならもっと長い。その間は鼻でする呼吸に集中することになっていて、一応その指導に従うべく努力している。すなわち、そんなことができるか否かはまた別の話だが、雑念、妄念はご法度ということになっている。
にもかかわらず座っていると、今夜は何を食べようかという愚にもつかぬことが、耳のそばで囁く。情けない話であるが、それが実情である。
こんなふうに歩いていれば時の経過の早さを、座っていればその遅さを意識する。これでは普段から混乱している頭の中が、よりひどくなるのではと案じながらも続けている。
それでも散歩はまだいい。暇をつぶすには炬燵の囚われ人だけではいられないからだし、散歩コースの見慣れた風景でも微妙に表情を変えてくれるから飽きない。小屋から眺める権兵衛山がそうだった。
それではなぜ座るのか、となるとこれは自分でもよく説明ができないでいる。最初は、時の過ぎていくのに少しでも抗おうとして始めたつもりだった。
今でもその気持ちはあるが、稀にだが結構集中できる時があって、スキーで納得のいく滑りができた時のように、その体験を再現させたいと思っているのではないかとこのごろは考えている。以前に「心のラジオ体操」と言ったりしたが、いまさら精神的な面ではあまり期待していない。
もう少し続けていけば、もっと上手い説明ができるようになるかも知れないが、さてそれも果たしてどうだか。
今朝は寒かった。7時半過ぎでも外の気温は零下4度、上ならさらに6度ばかり低いだろうから零下10度か。そのくらいにはなっていただろう。
一昨日上に行った時、いつものように取水場へ行ってみたら、放出している水が危うく氷の塊で塞がれそうになっていた。氷柱を割り、加減していた水量をさらに増やしてきた。
本日はこの辺で、明日は沈黙します。