昨日呟きかけたように、そのことはかなり気にしている。最近は日中でも、この辺りでは昔のように歩いている人を見かけない。用事は電話で済ませ、必要ならば車で行けばいい。ましてこの寒い冬、それも夜、集落の中でさえ外を出歩く人はまず見かけなくなった。
子供のころは夜間に用事を言いつけられれば懐中電灯ではなく提灯を持たされ、街灯のない暗い道で人の気配を感ずると「お使いでございます」とか「こんばんわ」とか、まずこっちから声を発しろと教えられた。そう、「オツカイデゴザンス」と言われても、今なら分かるが、まるで意味も分からず符丁のように聞いていた。
夜や墓地を怖れたり、幽霊、妖怪の類の怪奇譚は、背景に夜の治安維持を兼ねた先人の知恵も含まれていたような気がする。
ついでながら、もう、夜の墓参りなどとっくに止めた。もし誰かが石塔の横に人影を目にでもしたら腰を抜かすほど驚くだろうし、そんなことになれば、以後は世間から相手にされなくなる。
村の中でもそうなのだから、それが人家のない山の道となると時間にもよるが、もし人と出会えば自分のことはさて置いて、まず相手を不審者と思う。だからと言って、こちらから何か問うのも憚られる。
何分にも、誰にも会わない前提で、と言うかそのために、夜の散歩しているのだ。もし出会えば「こんばんは」ぐらいは言うつもりだが、瀬澤川の谷の中とか、場所によってはそれでも相手は驚き、不気味に思うだろう。
こうなれば、運動とかの目的を持って歩いているのだと分からせる服装を考えなければならないが、この時季は難しい。散歩であって、走ったりするわけではないから、運動着では風邪を引く可能性もある。
止めればいい。それが一番である。望んでまで奇人、変人扱いされるつもりはないし、不慮の事故を避けるためにもそうすべきだ。せめて散歩は日の落ちる前に帰って、後は寝るまで大人しくしていよう。
それにしても、夜の闇や里山の散歩は、捕らえられて狭い檻の中で暮らす野生動物が、いつまでもサバンナを忘れられずにいるように、この身も、そこまで野生化が進行していたという証なのだろうか。
「羈鳥(きちょう)は旧林を恋ひ、池魚は古淵を思ふ」。
本日はこの辺で。