パリだ。サルトルだ。ボーヴォワールだ。
南仏から飛んで
「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」を見た。
(カミュも登場。)
例えば手元にある 「私の巴里・パリジェンヌ」 朝吹登水子著 文化出版局 1977 の中の彼ら紹介、
ボーヴォワールが大学生時代にサルトルと邂逅し、新しい形式の“人生の伴侶”として今日に至ったことも有名である。つまり彼らは世間並みの法律上の結婚はせず、お互いの自立性と自由を尊重する、別居形式の新しい男女の結びつきを実行したのである。最初、二年契約だったこの二人の世界的作家の“結婚”と愛情は四五年余も続き、彼らが優れた知識人のカップルだけに、実に羨しい成功と思える。
範囲の知識だったところに この(テレビ)映画を見ると
朝吹解説の 「実に羨しい成功と思える。」部分は 非常に深い解釈の領域が必要だ!
ボーヴォワール基点の映画なので、哲学と愛において 自主・自由を手にするって こんなにも苦しい。その点が強く印象に残る作品なのです。
でも私たちは 特に彼女の
こんなにも長い間 共鳴し合えたこと
それだけで すでに素晴らしいことなのだ。
という言葉も知っている。(なんだかスローガン風書き方になってるが。)
友春はもしや
○ “ミツ”にとっての触媒
なのではあるまいか?
「触媒」ではデリカシーに欠ける表現だとすると、
他に何と言ったらいいのかうまく浮かばないが
とにかく
友春は大事な人なんだ、と急に思ったのです。
「ちりとてちん」時の 自分の感想を サルトルとボーヴォワール にも考えてしまっている。
ネルソン・オルグレンに心も体も寄り添うことができたのに 映画の演出のようにその席を立つことができなかったのは オルグレンに友春的存在感を得ることができなかったから、説。
(ただ最大の問題点は、「ちりとてちん」ストーリー展開予想、私は全く外してるからなあ。)