《見てから読むか》(ちょっと違う本だけれど)
「ロバート・オッペンハイマー ——愚者としての科学者」 藤永茂著 ちくま学芸文庫 2021/08/10
(単行本は、朝日新聞社 1996.3 朝日選書, 549 で出ているようです。)
の方にやってきた。
この本の「序 1 オッペンハイマーを知っているか?」の部分が「じんぶん堂」というところに載っている。
中でも、次の2つの部分をここに写し書きたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(著者・藤永さん。)
私は一九五九年の秋に渡米して、シカゴ大学物理学教室のR・S・マリケン教授の下で分子計算の仕事を始めた。
(通勤時、たまたま同方向に向かう人の車に同乗させてもらった藤永さん。同大経済学部の教授らしいその人と、次のような会話が続いた。)
アメリカが広島、長崎に原爆を投下したことについての私の意見を求めてきた。私が口ごもっていると、彼は言った。「あなたたち日本の知識人は日本のファシズム独裁軍事政権が倒される日の到来を強く待ち望んでいたに違いない。我々の二発の原爆はそのファシズム政権を見事に打倒した。だからあなた方の心の中にはアメリカの原爆によって解放されたという気持があると私は思うのだが、どうだろう」。私は語る言葉を持たなかった。幸いにも車は大学に着き、私は逃げるようにして車を辞した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私がこれからロバート・オッペンハイマーを描くことを試みるのは、オッペンハイマーを知る労もとらずに、オッペンハイマーの名と、彼が口にしたとされるいくつかのキャッチフレーズを勝手な方向に乱用する人たちの退路を断ちたいと思うからである。オッペンハイマーのステレオタイプをつくりあげた評伝の類は数々あるが、それに対しては、最近亡くなった物理学者ユージン・ウィグナーの言葉を引用しておく。「彼の名は今ではかなり知れわたっているが、彼について一般に思われていることのほとんどは誤っている」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて。オッペンハイマーさん、ハーヴァードに1922年9月に入りますが
T・S・エリオット「荒地」の発表も1922年。西脇順三郎訳手にしてみましたが、なかなかなかなかです><(ムズカシイ)。
さてさて。この「ロバート・オッペンハイマー ——愚者としての科学者」という本の方についても、
読み進みながらも、要・理系知識のところだらけ。
そこをなんとか飛び越えつつ「面白い」と行を追っているのですから よきこと なのだとしたい。
例えば
「Newton」2025年2月号 量子力学100年 の中に
量子力学の登場によって、それまでの物理学は「古典」になりました。(p.12)
とあった表現を
「ロバート・オッペンハイマー ——愚者としての科学者」 の中では
量子力学の突然の出現は、当時の物理学者を、老若を問わず、同じ出発点に立たせた。(p.084)
という表現に見ました。
横書き(理系雑誌だからね)が縦書き(文庫本だからね)になって、やってくる。
その繰り返しの中に
お、なんだか少し分かる部分が(ちんぷんかんぷんからの少量脱出!)増えた気がする
の弾み。
対照実験(?)みたいに 大栗博司「探究する精神」 引っ張り出してきて、
分かる人名増えたな♡と喜んだり。
の思いも1/3くらいのページあたりまで。残りはついていけなくなった。
「ロバート・オッペンハイマー ——愚者としての科学者」 藤永茂著 ちくま学芸文庫 2021/08/10
(単行本は、朝日新聞社 1996.3 朝日選書, 549 で出ているようです。)
の方にやってきた。
この本の「序 1 オッペンハイマーを知っているか?」の部分が「じんぶん堂」というところに載っている。
中でも、次の2つの部分をここに写し書きたい。
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(著者・藤永さん。)
私は一九五九年の秋に渡米して、シカゴ大学物理学教室のR・S・マリケン教授の下で分子計算の仕事を始めた。
(通勤時、たまたま同方向に向かう人の車に同乗させてもらった藤永さん。同大経済学部の教授らしいその人と、次のような会話が続いた。)
アメリカが広島、長崎に原爆を投下したことについての私の意見を求めてきた。私が口ごもっていると、彼は言った。「あなたたち日本の知識人は日本のファシズム独裁軍事政権が倒される日の到来を強く待ち望んでいたに違いない。我々の二発の原爆はそのファシズム政権を見事に打倒した。だからあなた方の心の中にはアメリカの原爆によって解放されたという気持があると私は思うのだが、どうだろう」。私は語る言葉を持たなかった。幸いにも車は大学に着き、私は逃げるようにして車を辞した。
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私がこれからロバート・オッペンハイマーを描くことを試みるのは、オッペンハイマーを知る労もとらずに、オッペンハイマーの名と、彼が口にしたとされるいくつかのキャッチフレーズを勝手な方向に乱用する人たちの退路を断ちたいと思うからである。オッペンハイマーのステレオタイプをつくりあげた評伝の類は数々あるが、それに対しては、最近亡くなった物理学者ユージン・ウィグナーの言葉を引用しておく。「彼の名は今ではかなり知れわたっているが、彼について一般に思われていることのほとんどは誤っている」。
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さて。オッペンハイマーさん、ハーヴァードに1922年9月に入りますが
T・S・エリオット「荒地」の発表も1922年。西脇順三郎訳手にしてみましたが、なかなかなかなかです><(ムズカシイ)。
さてさて。この「ロバート・オッペンハイマー ——愚者としての科学者」という本の方についても、
読み進みながらも、要・理系知識のところだらけ。
そこをなんとか飛び越えつつ「面白い」と行を追っているのですから よきこと なのだとしたい。
例えば
「Newton」2025年2月号 量子力学100年 の中に
量子力学の登場によって、それまでの物理学は「古典」になりました。(p.12)
とあった表現を
「ロバート・オッペンハイマー ——愚者としての科学者」 の中では
量子力学の突然の出現は、当時の物理学者を、老若を問わず、同じ出発点に立たせた。(p.084)
という表現に見ました。
横書き(理系雑誌だからね)が縦書き(文庫本だからね)になって、やってくる。
その繰り返しの中に
お、なんだか少し分かる部分が(ちんぷんかんぷんからの少量脱出!)増えた気がする
の弾み。
対照実験(?)みたいに 大栗博司「探究する精神」 引っ張り出してきて、
分かる人名増えたな♡と喜んだり。
の思いも1/3くらいのページあたりまで。残りはついていけなくなった。