<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いかにも楽しそうである。

2021年08月27日 14時57分54秒 | Weblog
土蜂がせっせせっせと行き交いしている。それを観察している。(それほど暇を持て余している、ことになりそう)

竹籬がある。竹を縦横に組んで糸瓜の棚を作っている。その横向き(水平)の竹に切り口がある。そこに穴が開いている。

土蜂はその穴の中を出たり入ったりしている。何かを運んで来ているようだ。巣作りをしているのかもしれない。

もう夏が終わろうとしているというのに。いまから巣作りは遅くないだろうか。

オスとメスだろうか。何度も何度も何かを運んで来ている。竹の丸い穴から出たり入ったりしている。その熱心さが、いかにも楽しそうである。

楽しそうに見える。彼らがそう言っているわけではないが、勝手な想像をたくましくして。

小さな蜂が手に入れている楽しみというもの。それを人間のお爺さんが盗み見て、拍手を送っている。これはこれで小さな夏の終わりの風景になっている。
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それって凄い価値があることなのに。

2021年08月27日 14時48分04秒 | Weblog
いつもいつも、もっともっともっとを希求している。

もっとが手に入らないと不満になる。つまらないつまらないを言っておかねばならなくなる。

「もっと」の10段階のところで立ち止まって、9段階のところを振り向いたら、「よくぞここまで高く登ってこられたものよ」満足げにとにこりとできるのに、そうはしないで次の11段階のところまで行き着けなかったという後悔をして塞いでいる。

哀れ哀れ。

「ああ、ここまで登ってこられた」「よかったよかった」のはずなのに。いつも不満を先に立てて暮らしている。


「昨日までをおれは元気で暮らせた」ということに感謝をすればいいのに、それをしない。それって凄い価値があることなのに。
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照りつけたり、陰ったりしています。

2021年08月27日 14時34分57秒 | Weblog
もうすぐ午後3時。風が少しあるらしくて、糸瓜の葉っぱがわずかに揺れています。

朝から、カンカン照りに照りつけたり、陰ったりしています。気温は変わらず、32℃。

で、出渋っています。音楽を聴きながら、冷房の中でごろごろして怠け者をしています。

家の中は誰もいません。役立たずのお爺さんが一人で留守番しています。いつもこうですけど。

窓の向こうに白い雲が浮かんでいます。じっとして浮かんでいます。大きい雲やら小さい雲やらがいます。
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「おれがここにいるんだぞ」と胸を張れるときはいいなあ。

2021年08月27日 11時40分14秒 | Weblog
「おれがここにいるんだぞ」って面構えをしてずんずん鎌首をもたげている。蛇じゃない。糸瓜の蔓だ。蔓というよりは茎だ。まるまると太っている。支えがなくとも直立している。元気がいい。蔓の周りに青い大きな葉っぱが連なっている。態度がでかい。

「おれがここにいるんだぞ」って顔をしていられるのはいいな。そういう生き方暮らし方はいいな。朗らかだな。見ていて気持ちがいい。

その逆はいただけない。しょんぼりしているなんぞは、いただけない。見て見辛い。自信がなさそうにしていると、声を掛けてやりたくなる。「おい、どうしたんだよう」と言いたくなる。でもそういうときも、ある。誰にもある。

行き来をしている。最高と最低をゆるやかに行き来している。

こそこそ隠れるようにして、「おれはどこにもいない」になっている場合もある。

最高に辿り着いている人が、最低に落ちているしょんぼりさんに声を掛けてあげる。助けてあげる。そうであれば2で割ってお互いが1になる。お互いに順送りなんだから。

糸瓜の話がいつのまにか人間にすり替わってしまった。こじれてしまったようだ。

「おれがここにいるぞ」と「おれはどこにもいようがない」。自信タップリ派と自信なげ派。世間にもこの2つの派を見かけることがある。


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一寸の虫にも五分の魂。魂はかなりの大きさだ。

2021年08月27日 11時28分36秒 | Weblog
「一寸の虫にも五分の魂」なる句がある。魂って、すると、ずいぶん大きいんだなあ。非物質のはずなのに。

ま、透明だけどそこにそうやって空間を保持しているという具合に考えておけばいいのかな。

一寸の虫たりとも、お命様、徒(あだ)疎(おろそ)かにすべからず、ということか。

それを肯定しよう。

糸瓜の花が咲いている。ここへひっきりなしに虫たちが飛来してくる。花の蜜を吸いに来ているのだろう。

糸瓜は虫媒花。虫の助けを得て、結実の運びとなる。だから、大いに役目がある。おろそかにはできない。

では、役目があれば存在の価値があるのか。価値を得れば、そこに棲む魂どのが安らぎを得るのか。五分の魂がよろこぶのか。

糸瓜の蔓がたくましく伸びている。そこへ花が幾つも幾つもついている。そこへ虫たちが来て遊んでいる。楽しそうである。


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恐い夢を見て、恐がって魘されて、北風のように唸っていました。

2021年08月27日 07時17分19秒 | Weblog
おはようございます。今日はもう8月27日になっています。金曜日です。

夜中に雨が降っていました。高い雨音が聞こえていました。


夢を沢山見ていました。恐い夢を見て魘(うな)されていました。恐い夢を見るときっと目を覚まします。

するとその後、目をつぶるのが嫌になります。また見させられるんじゃないかと思って。

必死で隠していた自分の弱点が、夢の中では暴露されます。そうするともうおろおろびくびくしているばかりです。

恐い夢を見させられるくらいなら、起きていた方がマシです。こんなにお爺さんになってもまだ安らげません。
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ここで行き止まりか。「善を行い悪を為すこと勿れ」の戒めの前に立ち止まる。

2021年08月26日 13時13分37秒 | Weblog
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

七仏通戒の偈。

しょあくまくさ。しゅぜんぶぎょう。じじょうごい。ぜしょぶっきょう。
もろもろの悪をなすことなかれ。もろもろの善を奉行して、自ら其の意を浄くせよ。是ぞこれ仏の教えなり。
お釈迦様まで含めた過去の七仏が教え継いだ仏教の戒めは、「自浄其意」に尽きているらしい。「汝のこころを浄くせよ」と。その具体的行動が悪をなさず善を行うこと。いささか倫理的だな。
なんだ、善も悪もないところの領域が宗教だとおもっていたのに、違っていたのか。

深い意味があるのだろうが、結論が「自浄其意」だったのか。「こころを浄くして生きなさい」と。

なるほど善をすることは難しい。悪に染まらないことも難しい。神様仏様にあれこれをお願いするより先に、まずは己を正しく生きて己に羞じない(自浄其意)ようにするべし、ということか。
このお爺さんはこの「七仏通戒偈」を示されて、ぐうの音も出せなかった。

善を為さず悪をのみ行う者、このお爺さんは宗教には入っていけないことになりそうである。ここで行き止まりか。


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お昼はカツ丼を作ってもらった。玉葱は我が家の赤玉葱で。

2021年08月26日 13時03分52秒 | Weblog
お昼は赤玉葱入りカツ丼を作ってもらった。海藻入りのおすましスープもいっしょに。

お爺さんは青紫蘇を畑から摘んで来て、洗って、包丁で微塵切りにして、刻んで、これをカツ丼の上にばら撒いた。

青い色が目を楽しませた。青紫蘇の香りが鼻を楽しませた。

カツは数切れだけだったが、年寄りにはこれでよい。ああ、おいしかった。満足。

何にもしないでおいて、喰うものだけは一人前を食った。いいご身分である。
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何をしていたら「よし、合格」になるんだろうね。

2021年08月26日 12時13分33秒 | Weblog
何をしてたらいいんだろうね。「よし」「合格」になるんだろうね。


仏教では自利と利他を言う。どちらも大切だ。

自利は内に向かう。利他は外に向かう。

自己を磨いておかねば、他者を導くことは不可能だ。


利他の実践ができるには自利の智慧が完成していなければならない。

自利は自己の仏道修行。利他は他者へのハタラキカケ。他者のためになることをする布施行。

早い話、お医者さんの資格を得ていなければ、病気の人を診療診察はできない。

禅寺の石造りの山門には「上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げげしゅじょう)」という文字が刻まれている。

まずは仏道の山路を歩き締めて菩提の山頂を目指さねばならない。これが上求菩提。菩提は仏智見。悟り。

山頂で終わりではない。ここから下りて来なければならない。衆生救済のために下山して来なければならない。これが下化衆生。「化」は「教化すること」

大乗仏教は下化衆生の実践を重んじた。一人で悟りを味わってにたりにたりしているだけでは不十分とした。山門を下りて人々の中に分け入った。


このお爺さんは人生の最後までだらしなかった。ぶらんぶらんとして過ごした。なっちゃおらん、かった。お粗末だった。
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ああ、暇だなあ。することがないなあ。

2021年08月26日 12時05分49秒 | Weblog
ああ、暇だなあ。することがないなあ。

することがないって、贅沢だよなあ。

働きに行かなくて、ぐずぐずのろのろして、「ああ暇だなあ」なんて言っていられるお爺さん。

これってほんとは、お天道様に顔向けができないことだよね。

働いておられるみなさんに申し訳がないことだよね。

「ああ、暇だなあ」なんて言わないで、畑に出て働けばいいのにね。それをやらない。すっかり怠け癖がついている。
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