やはり私は考える・・・・・のです
胃に穴をあけて(胃瘻)
無理やり栄養を入れて
施設に入れ
長生きをさせ
精神性のない生き方をさせ
死までの数年で○千万使わせる。
【胃瘻(いろう)とは、主に経口摂取困難な患者に対し、人為的に皮膚と胃に瘻孔作成しチューブ留置し水分・栄養を流入させるための処置。病気により感染症を起こしている場合や、痩せすぎ等の場合には手術に留意が必要。】
それでいいのだろうか?
私はいやだ
生きた屍のようになって
ベットの上で横たわっているのは嫌だ
確かに
お風呂も入れてもらえ
おむつも替えてもらえる
人間的に介護してもらえる
でも嫌だ
いまさらおむつはしたくない
いまさらさらしものになるのはいやだ
胃瘻(いろう)までして生きたくはない
外国の死文化では胃瘻(いろう)までして生きさせるところはないときく
母が死したのは平成9年で、当時は食べれなくなったら胃瘻(いろう)というのは自然死から離れていない感覚があり
母には胃瘻(いろう)をしてもらった
歩けるのに、食べれない・・・・・・
つまり飲み込めなくなったのだ。
「もっと食べなきゃ、だめじゃない」
というのに
なかなか口を開けないのだ
母は腕~手の左半身不自由であったが、右手で一人で食事ができていた。
それが、なかなか食べなく、時間が来ても食事は多く残っている。
母の主治医先生は外科医で
看護職である私が四苦八苦して食べさせている
それでも夕食が食べれなくなって1週間も経つと
先生は胃瘻(いろう)しようと言ってくださった。
「あー 助かった」と思った。
家族が3度3度食べさせてやるわけにはいかないし、
病棟ナースの方も、長時間かかって食事介助はできないし
迷惑をかけたくなかったし。
おかげで母はやや元気になって
施設に入所。
「ぼけ」てはいなかったけど
私に対しては意思表示はほとんどなく
施設のリズムを黙ってこなしていた。
でも、
ゆっくりと
点滴のように
乳液様の栄養が胃に入って行く時は
非常に苦痛様の表情をして
硬く目をつむり
びくりとも動かず緊張して横になっていた。
それを見て私は母はこれでいいのだろうか
そんなにも胃に食物(流動食)を入れるのが嫌だろうか
と思った。
でも
母はまもなく逝った。
胃瘻(いろう)はしたけれど
心不全があったからか
歩行器で歩けていたけど
朝方逝った
死の数日前面会に行った時
施設のみんながなにやらテーブルに向かって楽しんでいるのを
歩行器につかまって
たったまま微笑みながら見ていた
母はみんなと手作業はしていない
手が不自由だからできないから
そんな時はベットに帰って腰かけたりしていたから
そんなふうにたったままみんなを見ていることはなかったから
「おや?おかしいな?」と私は思い
足を見るとかなり腫れていた。
おやおや腫れるほど長く立っていたのか?と思いながら
ベットに帰させた。
母の死はそれから1週間も経っていなかった。
朝4時から6時の間の見回りの間にこと切れていたとのこと。
だから、病院に運ばれることなく
人工呼吸器もつけられることなく他界した。
急死に近いかな~
きっと、心臓が生き切ったと思った
もともと心臓が弱かったから
急死できたかな?とも思ったり
それにしても、いつもと違うぞと思ってから、やっぱり~とも思ったけれど
それでも急死であって朝6時に電話があって時はびっくり仰天だった。
足の腫れ方が尋常ではなかったから
死は近かったにはちがいない
母は頑張り屋であったから「しんどい」ということは一度もなかった
施設にいることは自宅にいるよりも哀しかったに違いないとは思うけれど
父は母の介護はできないし、より高年齢だから
生活のために私は働かなくてはいけないし
施設にお願いするよりほかなかった。
母は69歳で脳梗塞になり
半身不自由になったが、ほとんど麻痺がわからないほどにリハビリで回復する
そして、12年間、私と孫と同居して、家事もしながら孫を見てくれた。
ありがたかった、母がいたから私は働けた。
私には42歳で産んだ子がいたので、
平成9年はまだ12歳であり、まだまだ、働かねばならなかった。
母が逝った歳は82歳、私は54歳。
母は急死であったが、老衰に近いほど生き切ったと思う。
そこで、胃瘻(いろう)は必要だったかと、考える。
母はベットに横たわってはいなかった。
でも、自宅で生活は無理だったのか?
考える66婆は自分はどうしようかと迷うから。
母の足の腫れは心臓症状だったかもしれない。