飯田典之さん:医道まい進、31年の生涯 中1でがん、闘病しながら夢到達
◇偲ぶ会で同期「太陽みたいな人だった」
家族によると、飯田さんは幼少期から勉強が得意で、ラグビーやスキーなどスポーツも万能だった。体に異変が生じたのは中学1年の秋。39度台の熱が1週間ほど下がらず、大学病院の検査で腹部に2キロの巨大な腫瘍が見つかった。手術を受け、入院しながら約1年にわたる厳しい抗がん剤治療に耐えた。
命も危ぶまれると告知された時、母美佳さん(61)は「訳が分からずショックだった」という。本人に不安が伝わらないよう努めて前を向いたが、同じ頃に妹紘子さん(29)はストレス性胃腸炎で入院。中学入学の時期が重なった紘子さんは、「一人でいろんなことをため込んでいた」と振り返る。家族もまた、必死に闘っていた。
高校で飯田さんは兵庫県内有数の進学校に入学。体力が落ち、体育の授業や学校行事についていくのに苦労した。母親はくたくたになった息子の脚をマッサージしながら励ました。
闘病生活の支えは、趣味のギターだった。ギタリストの押尾コータローさんの大ファンで、その技法にあこがれ、爪が擦り減るほど押尾さんの楽曲を練習した。
2008年7月、高校1年だった飯田さんは毎日新聞社主催の小児がん征圧キャンペーン「生きる」のチャリティーコンサートを鑑賞した。押尾さんも出演しており、ステージの最後に両手の親指を突き上げて「頑張れよ」とサインを送ってくれた。
コンサート時の取材に、飯田さんは小児科医になるという夢を明かした。家族には「(自分の)顔を見た患者さんがうれしくて、免疫力が上がるような医者になりたい」と話したという。
鳥取大医学部に現役で合格。3年時に再び腹部に腫瘍が見つかり、小腸の一部を切除した。その後は再発と手術の連続だった。卒業後、駒込病院で医師の基礎を身に付ける初期研修(2年間)や、泌尿器科専門医になるため必要な研修(4年間)を受けた。
飯田さんは同院で勤務しながら数回にわたり手術を受けたが、術後は1~2週間で復帰して医療現場に立ち続けた。腎泌尿器外科の古賀文隆部長は「社交的な愛されキャラで、職場のみんなに慕われた。チームの一員として有機的に機能してくれていた」と語る。
古賀さんは、患者から「飯田先生も最近手術を受けたのに、もうあんなに元気になって」と言われたことがある。「自分の経験を医療にうまく生かしている。患者さんは安心するし、心強いですよ」。患者にも慕われながら医師として成長していった。
治療にかかる費用面などを考慮し、飯田さんは研修後の勤め先に埼玉県内の民間クリニックを選んだ。しかし、腫瘍が肺に転移したことから、8月に駒込病院へ入院。生きることを最後まで諦めなかったが、病魔を押し返すことはできなかった。
9月4日に自ら希望し、入院先から都内の自宅に戻った。5日夕、付き添っていた美佳さんが「あと1カ月は持つよね。頑張って」と声をかけると、飯田さんはソファに体をぐったりと預けたまま腕を伸ばし、Vサインに薬指を加えた3本指を立てた。息を引き取ったのは、ちょうど3日後の朝だった。
25日夜、文京区内で家族主催の「偲(しの)ぶ会」が営まれ、医療関係者らが献花して遺影に手を合わせた。会場でBGMに流したのは、あこがれの押尾さんの楽曲だった。研修医時代に同期だった医師、菅澤駿一さん(33)は「大変だったと思うけれど、常に明るく、ネガティブなことは一切言わない。太陽みたいな人だった」と別れを惜しんだ。
「生きることにこんなに苦労するなんて」。大学生の頃に飯田さんがこぼした言葉を、美佳さんは忘れない。「いつも前向きに、太く短い人生を全力で駆け抜けていった。私たちの誇りです。最後まで、よく頑張ったね」【千脇康平】