昔々、息子と一緒に、観に行ったのは、40年前だったかな?
テレビで歌っているアスカさん、思わず懐かしくてパチリしてしまった。
歌はますます素晴らしかった。
昔々、息子と一緒に、観に行ったのは、40年前だったかな?
テレビで歌っているアスカさん、思わず懐かしくてパチリしてしまった。
歌はますます素晴らしかった。
シンガー・ソングライター、谷村新司さんが10月8日に死去した。74歳。大阪府出身。葬儀は15日に近親者のみで営まれた。 【写真】「谷村新司スタッフ公式X」に投稿された谷村新司さんの遺影と祭壇
今年3月に急性腸炎で手術を行い、療養を続けていた。 小林旭が「渡り鳥シリーズ」でギターを弾く姿を見て「自分もモテたい」とギターを練習し、バンド活動を開始。
1971年に堀内孝雄と「アリス」を結成した。翌72年、「走っておいで恋人よ」でレコードデビュー。同年5月、矢沢透を加えて活動。当初は不遇の時期を過ごしたが、「セイ!ヤング」のDJで人気者になった。その後「冬の稲妻」「チャンピオン」などが次々とヒット。さらにソロでも活躍し、山口百恵さんに楽曲提供した「いい日旅立ち」も歌い継がれる名曲に。自身が歌った「昴」も日本国内のみならず、中国、アジアで愛された。
「アリス」は1981年に活動を停止したが、09年に再始動。今年4月「アリス」の全国ツアーの来年への延期、6月には公式サイトで年内治療に専念することが発表されていた。
8月の日本テレビ「24時間テレビ」で「サライ」を出演者が歌唱する場面では、病床からのメッセージが紹介された。
盟友の死に堀内孝雄は「来年のツアーに向けて回復に向かっていると伺っていただけに、とても残念です。チンペイさんが、あの時誘ってくれなかったら、今の僕はありません。ずっと一緒に音楽活動ができたことが幸せでした」とコメント。
矢沢透は「悲しいというより悔しいんです。谷村はもう僕たちのみんなの心の中にしか住む場所がないのです。思い出せば必ず胸にやってきます、どうか谷村を忘れないで下さい」と悲痛な思いを語った。
事務所の発表は以下の通り。 ご報告とご挨拶 平素よりご厚情をいただき心より感謝申し上げます
今年の3月に腸炎での手術を行い療養を続けておりました谷村新司ですが10月8日に息を引き取り永眠いたしました。 本人も回復に向けて頑張っておりましたので本当に残念に思います。 葬儀は近親者のみにて10月15日に執り行い とても穏やかな顔で旅立ちました事をご報告申し上げます。 昨年は活動50年を迎えて アリスの記念ライブ「ALICE GREAT 50(FIFTY)」を有明アリーナで開催し アリスメンバーの堀内孝雄・矢沢透と共にここからリスタートして10年続けようと目標を立てて本人も楽しみにしておりましたが残念ながらその夢は叶わず 満75年の生涯を終える事となりました 。後日には 皆で集まって故人を偲ぶ場を設けたいと思っております。 日本語の精神文化を大事に歌詞を紡いできた谷村でしたが代表曲でもある「昴―すばる―」は沢山の方々とのご縁の道を継いでくれました 。生前「歌と音楽は目に見えないからこそ海も空も超えていく」と沢山の国にも出掛けていきました。 歌を創作し 歌い 伝える旅を続けてきた人生でしたが この度来世への戒名を頂戴し 「天昴院音薰法楽日新居士」(てんぼういんおんくんほうらくにっしんこじ)と名付けられました。 まさしく天にある星となって私達を照らし続けてくれる事だろうと思います 。歌と音楽にピリオドはなく皆さまの心にいつまでも残る事を願って心よりの感謝を深く申し上げたいと存じます。 これまでに沢山の「愛」をいただき 本当に有難うございました。
谷村さん、本当にありがとうございました。「あなたのいる」わが家からの夕焼け空。
友に誘われて、小泉八雲記念館に、音楽を聞きに行く。
バイオリンとハーブのデュオ
初めて、こんな近めで、聞く。
バイオリンが低音で、ハーブと心地よく響く。
よく知る曲は、涙が出るほどになった。
歌手の八代亜紀さんが免疫の異常によって発症するとされる「こう原病」の診断を受け、治療に専念するため年内の活動を休止すると発表しました。
これは、八代亜紀さんが12日、自身のホームページで発表しました。
所属事務所によりますと、八代さんは先月下旬、皮膚炎の症状が出たことから医療機関を受診し、今月、こう原病と診断されたということです。
八代さんは、今月9日に埼玉県で開かれたステージに出演しましたが、その後入院し、治療に専念するため年内の活動をすべて休止したということです。
活動再開は年明け以降を目指すということです。
「こう原病」は、全身の皮膚や内臓などさまざまな場所に炎症が起きる病気の総称で、免疫の異常によって発症するとされています。
主な症状としては発熱や関節の痛みなどとされ、難病に指定されている病気もあります。
八代さんは自身のホームページで「少しの間、大好きな歌と絵から離れなきゃいけないのは寂しいけれど、必ず元気になって戻ってきますので待っててね。また皆様とお会い出来る日を楽しみに頑張ります!」などとコメントしています。
八代さんは、熊本県八代市出身の73歳。
1971年にデビューし、「舟唄」や「雨の慕情」などのヒット曲で知られています。
「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日、都内の病院で死去した。71歳。東京都出身。葬儀は家族葬で執り行った。1980年代に3人組バンド「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)で世界的ヒット曲を生み出し、88年には米映画「ラストエンペラー」で米アカデミー賞作曲賞を日本人として初めて受賞した。晩年はがんとの闘いが続いたが、最後まで音楽作りに情熱を注いだ。
YMOで共に活躍したドラマーの高橋幸宏さん(享年70)が1月に死去してから3カ月。坂本さんが静かに旅立った。
葬儀は家族葬で営まれ、娘で歌手の坂本美雨(42)ら子供たちも見送った。お別れの会は本人の遺志により行わない。死因は明らかにされていないが、20年6月に直腸がんと診断された。両肺などにも転移し、ステージ4と公表していた。
特にここ半年は凄絶な闘病だった。亡くなる1、2日前には家族や医師に「つらい。もう、逝かせてくれ」と頼み込むほど。関係者は「弱音を吐かなかった彼がそんなことを言うとは…。よほど苦しかったのだろう」と思いやった。
14年に中咽頭がんと診断され、治療の末に寛解。だが、直腸がんと診断された20年6月には、治療しなければ「余命半年」と告げられた。手術では、最初にがんが発生した原発巣と肝臓2カ所、転移したリンパの腫瘍、さらに大腸を30センチも切除。両肺に転移したがんを摘出するなど、1年で6回の手術を受けた。その後は通院して投薬治療を続けてきた。
そんな状況下で全身全霊で取り組んだのが、昨年12月11日に全世界配信したピアノコンサートだった。同9月中旬に事前収録し、数日かけてコンサートに仕立てた。「最後になるかもしれない」と死を意識しながら、繊細な音色を奏でた。痩せた印象だったが、力強いまなざしで鍵盤と向き合った。「アレンジも選曲も時間をかけて慎重にやった」という13曲、約60分の演奏。「大きな達成感を得ていた」(関係者)というこの映像が、世界に届けた人生最後の演奏となった。
3歳でピアノを始め、東京芸大大学院を経て、78年に高橋さん、細野晴臣(75)とYMOを結成。79年にシンセサイザーを使った斬新な音楽が海外で受け、世界ツアーを2度成功させた。
個人でも「世界のサカモト」と呼ばれ、抜群の知名度を誇った。俳優としても活躍し、83年公開の映画「戦場のメリークリスマス」では、英ロック歌手のデビッド・ボウイさん(16年死去、享年69)と共演。男性同士のキスシーンも熱演し、話題となった。また、劇中音楽を手がけ、出演もした87年公開の米映画「ラストエンペラー」では、88年の米アカデミー賞作曲賞を日本人として初受賞した。
理知的でニックネームは「教授」。興味こそ原動力で、既成の価値観にとらわれず、やりたいと思ったことに全力で取り組んだ。
所属事務所は2日に発表した訃報を伝える文書に、坂本さんが好んだラテン語の一節を添えた。
「Ars longa, vita brevis」(芸術は長く、人生は短し)
「人の命は短いが、優れた芸術作品は死後も後世に残る」ということわざだ。
坂本さんの公式サイトでは英語でも訃報を伝え、英BBCや米CNNなどの海外メディアが速報。世界中から追悼コメントが相次いだ。「世界のサカモト」ならではのエピローグとなった。
≪「ラストエンペラー」でアカデミー作曲賞≫
坂本 龍一(さかもと・りゅういち)1952年(昭27)1月17日生まれ、東京都出身。3歳でピアノを始め、小2でバッハの音楽に傾倒する。78年11月にYMOとしてデビューし、83年に“散開”。88年、映画「ラストエンペラー」のサウンドトラックでアカデミー賞作曲賞だけでなく、ゴールデングローブ賞作曲賞、翌89年にグラミー賞最優秀オリジナル映画音楽賞も受賞。父は「伝説の編集者」と呼ばれた坂本一亀(かずき)さん。
美空ひばりさんを左に置くならは、右は、ちあきなおみさんと、芸能関係の人が言っていた。
今、ちあきさんの番組、テレビを見て、沢山の歌を聞いて、ほんとに思った。
上手と簡単には言えないと思った。
ジャンルを越えた魅惑な歌声というタイトルそのもの。
心打たれる。
初回放送日: 2022年12月28日
デビュー50周年を迎えたシンガーソングライター・谷村新司。人と直接会うことが難しくなったコロナ禍の中でも、絶えず歌や言葉を届けようと試みる日々を見つめる。 数々の名曲を世に送り出してきた谷村新司。コロナ禍の中で、3年ぶりに、長年ライフワークとしてきた「ココロの学校」を再開した。津々浦々の小さな町へ出向き、子どもたちと一緒にステージに上がり、歌い、話し、音楽の楽しさを伝えていくもの。人間関係が疎遠化していくコロナ禍の中、谷村は子どもたちに、そして私たちに何を伝えるのか?試行錯誤しながら言葉や歌を紡ぎ続ける日々に密着する。
細川たかしさんの愛弟子でまだ19歳の若さの彩青さんをゲストに招き、師匠譲りの軽妙なトークに加え、三味線や尺八の生演奏、生歌を披露いただきました。
徳光さんも気になる”彩青”というお名前は本名。生まれた2002年には、日韓ワールドカップが開催され、その年は多くの日本人がサムライブルーに彩られ、サッカーの日本代表のように世界に羽ばたいてほしいという思いが込められています。
軽妙で高いトーンの彩青さんしゃべり方は、徳光さんも「師匠にしゃべり方もそっくりだね」とトークでも細川たかしさんを彷彿とさせていました。
今回は、三味線、尺八を持参いただき生演奏。
すがすがしい声
とても、癒されます。