10人の「医師作家」が語る2013年の医療
死期の受容が市民権得る―石飛幸三氏に聞く◆Vol.1
「平穏死」の生みの親、「看取りの潮目変わった」
2013年1月8日 聞き手・まとめ:島田 昇
死期が間近に迫った高齢者に、胃ろう造設などの医療行為による延命処置を極力避け、自然に任せて看取る「平穏死」。2012年は“反延命治療”を明確に打ち出した書籍が注目を集めた(『 「延命治療大国、日本」へのアンチテーゼ』『 医療の傲慢、自費出版でも伝えたかった』を参照)が、『「平穏死」という選択』(幻冬舎ルネッサンス新書)の著者で、「平穏死」というキーワードの生みの親でもある石飛幸三氏は、2013年の医療界をどのように見ているのか――。「高齢者の看取りの現場で潮目が変わり始めている」と感じている石飛氏は、死期に抗わず、これを受け入れる「平穏死」が市民権を得る年になると願いを込める(2012年11月27日にインタビュー。計2回の連載)。
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『「平穏死」という選択』
石飛幸三氏に聞く
Vol.1◆死期の受容が市民権得る
Vol.2◆座敷牢の10年が「平穏死」へ導いた
石飛幸三氏は、願いも込めて「『市民権を得る平穏死』とでも言える1年になる」と語る。
――2012年に上梓した『「平穏死」という選択』が注目を集めましたが、「平穏死」というキーワードは2013年以降、どのような発展を遂げると考えますか。
今、まさに高齢者の看取りの現場で潮目が変わり始めていると感じている。特に、医師が随分と興味を持つようになってきた。
沖縄の本土復帰40週年記念があった2012年6月、「第114回沖縄県医師会医学会総会」で名誉ある特別講演をさせていただいた後、研修医の実習先として人気が高い沖縄県立中部病院の研修担当部長に「ぜひ、8月にうちの若い者たちにも話してもらえないか」と声をかけられた。嬉しかったね。なぜって、東京都済生会中央病院に勤務していた頃から、若い医師の教育や研修には力を入れていて、その頃から有名だった中部病院は、一つの目標でもあったから。目標としていた病院からお呼びがかかったんだ。これまでの歩みが認められたようで誇らしかったし、何よりも嬉しかった。
2013年6月には、慶応義塾大学医学部の2年生に向けた老年学の一部の講座を担当することも決まった。私も65歳までの先生になら教えてもらったことはあるけれど、喜寿を迎えた70代後半の年寄りに教えてもらった記憶なんてないからかね(笑)。
「平穏死」が世に広まるきっかけとなった『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社、2010年)を上梓してから約2年半。最初の50回くらいまでは講演した回数を数えていたけれど、それ以降は仕事に講演にと忙しいこともあり、数えるのが億劫になったが、少なくとも200回以上は講演したと記憶している。昨日(11月26日)も都内のある自治体の医師会で講演したんだが、参加した多くの医師たちが平穏死の重要さについて分かっていると、確信を新たにした。
こうした潮目の変化を見ていると、2013年は個人的な願いも込めて「市民権を得る平穏死」とでも言える一年になるのではないかと予想したい。
すでに多くの医師たちが
平穏死の重要さを分かっている
――そもそも、なぜ「平穏死」という造語を作られたのですか。
実は、「平穏死」は私が作った造語ではないんだ。
私が常勤している特別養護老人ホーム「芦花ホーム」で「平穏死」による看取りが定着し始めた2009年6月、この年の4月に着任したばかりの施設長である四元秀夫氏にこう言われた。「ここで始まっている看取りは、全国に普遍化すべきではないか」と。さらには、8カ月後の2010年2月に看取りのシンポジウムをやりたいとまで言ってくれた。うしくて舞い上がってしまった私はつい、「それでは、シンポジウムに合わせてそれまでに本を書いて出版します」などと言ってしまった(笑)。
ただ、私は本など書いたことがない。自分で言い出しておきながら、困まったよ(笑)。それでも、男同士の約束だ。約束は果たしたいと思い、1カ月程度で初稿を一気に書き上げ、ある裁判がきっかけで縁があった講談社に意気揚々と持ち込んだ。しかし、そこで名物編集者として知られる出樋(だすぜ)一親氏に言われたのが、「先生が有名な人だったら違うが、こういう類の話は山ほどある。我々も慈善事業をしてあげられるほどの余裕はない」ときたもんだ。よっぽど悔しかったのだろう。出樋氏に「3カ月後にもう一度書き直して持ってくるから見てくれないか」と食い下がったんだ。
食い下がったはいいものの、どうしたものかと悩んでいたある日、こちらも同じ裁判で知り合った信頼できる弁護士の黒田和夫氏と久々の再開をした。その際、ふと近況を話すと「私も法律家として、高齢者問題はこれからの日本にとって喫緊の課題だと思っていた。一緒にやりませんか」ということになってしまい、その場で刑法の個人レッスンを2時間受けた。この2時間こそが、「平穏死」という言葉を生み出す出発点となった。
お互い60歳を過ぎた2人で、私は医療の側から、黒田氏は法律の側から、粘り強く意見を出し合い、議論を重ねていった。「助ける方法があるのにそれを行わないことは、保護責任者遺棄致死罪に問われるのでは」と恐れる医療従事者たち、自分の意思を示すことができない認知症患者の増加と、当たり前に行われる胃ろうの造設、時代にそぐわなくなっている刑法上の問題点にどうアプローチすればいいのか――。こうした議論を重ねる中で黒田氏がふと口にしたのが、「平穏死」だった。
医療に法律の視点を加え、分かりやすいキーワードも備えた原稿を出樋氏に持って行ったら、すぐに言われたよ。「やりましょう」と。こうして無事に2010年2月9日に本が上梓され、その1週間後にはシンポジウムが開催。四元氏との男の約束を守ることができた。
振り返ってみると、「平穏死」という言葉は、現場で実践した私から始まり、きっかけを作った四元氏、法律家としての知識を惜しみなく注いでくれた黒田氏、世間に広まるだけの作品に導いてくれた出樋氏の4人の力が結集してきた言葉だったと改めて感じる。
きっかけを作ってくれた四元氏にできた本を見せたらすぐにこう言われたよ。「これはすごいことになる。看取りは変わっていくよ。まるで、点火後に四方へ勢いよく広がる“中国の花火”のようにね」と。2012年、出版界を通じて感じた世間からの反応、講演会などで直接耳にする医師からの反応を見ていると、四元氏が予見した通りの流れになっていると言えるのではないだろうか。この勢いは2013年、さらに加速するだろう。
平穏死は今“中国の花火”
勢いは2013年、さらに加速
座敷牢の10年が「平穏死」へ導いた―石飛幸三氏に聞く◆Vol.2
「本当の医療の追求」に無駄な経験なし
アップル創始者ジョブズ氏の「点と点をつなぐ」のスピーチになぞらえ、外科医から特養の常勤医に至った経緯を明かす石飛幸三氏。
――そもそもなぜ、特別養護老人ホームの常勤医になろうと思ったのですか。もともとは病院の外科医でキャリアを積み上げていて、副院長も務められました。
2005年に米スタンフォード大学の卒業式で、米アップル創始者のスティーブ・ジョブズ氏が「点と点をつなぐ」というスピーチをしたのだが、人生とはまさに、その通りだと思う。呉服屋の息子として生まれてから、特養の芦花ホームで看取りの医師になるまで、さまざまな人生の点があった。それらの点は、一見、今の自分を形成する要素として無駄だったと思えるものもあるように見えるが、とんでもない。実は何一つ無駄なことなどなく、一つひとつの点と点がつながりあったからこそ、今の自分がある。
点の中で最も大きな転機となったのは、東京都済生会中央病院で副院長を解任されてからの10年だった。
東京都済生会中央病院には、血管外科医としてドイツで修めた技術を日本のために生かそうと考えて合流したのだが、何を血迷ったか、労働闘争の嵐の中で、組合の立ち上げに入れ込んでしまった。目を覚まさせてくれたのは、芸術家の岡本太郎氏。縁合ってお願いした組合の立ち上げ記念講演で言われたよ。「『幸せなら手を叩こう』だなんてクソ食らえだ。そんなありもしない、手で掴めるようなものがあるだなんて考えるな。人生は苦難の連続でしかない。それをどう乗り越えたかの一点にしか、人生の喜びや幸せはないんだ」と。私を含め、闘争に燃えていた同士たちの目は一気に覚めたよ、「俺たちは何をやっていたんだ」と(笑)。
こうして「患者に対して本当の医療を提供したい」と心から願い、「日本のメイヨー・クリニックを目指そう」と、今まで以上に真剣に医療に取り組んだ場所が私にとっての東京都済生会中央病院だった。振り返ってみると、いい医療を提供できていたと思う。手前味噌で悪いが、特に外科はね(笑)。当時、慶応大学病院に匹敵する一つの牙城とさえ言える病院になっていたと思う。医師として、順風満帆な歩みを続けていた。
しかし、病院が株投資で多額の損失を出したことが発覚した1996年から、歯車が狂い出した。病院の経理運用を調査するため、当時、副院長だった私が調査委員長に命じられたので「絶対に立て直す」と心に決めて徹底的に内部調査を行った。ところが、その結果を経営会議で発表したら、「今日の発表は中止だ」と言われ、資料もすべて取り上げられた。さらには、院長に別室に呼ばれて「お前はもうここの人間ではない」と、解雇を言い渡された。
当然、不当な解雇と考えて始まった病院との裁判は、それからなぜか定年問題を争点にしたおかしな裁判になってしまい、3カ月で終わるかと思っていたが、10年もかかった。「俺はここの人間だ」「お前はここの人間ではない」という針のむしろみたいな職場環境で、副院長室を奪われ、屋根裏部屋の座敷牢みたいな部屋に追いやられ、日々、不条理と向き合い続けた。辛かったよ。でもこの座敷牢の10年がなければ、一皮むけることはなかっただろう。負け惜しみではなく、本気で順風満帆な外科医のままではなくて良かったと、心からそう思う。
順風満帆な外科医のままでは
“延命大国日本”の現実分からなかった
――なぜ、辛い10年間を良かったと思えるのですか。
「本当の医療とは何か」という問いに、じっくりと向き合えることができたからだ。
これも「点と点」の話で、おそらく最初の点となる人だが、当時の大東亜共栄圏の理想に燃えるも、体を壊して満州国から強制送還された若い教師がいた。彼は私の小学校高学年の時の担任で、非常に厳しく、教育熱心な人だった。「病気になるまで勉強してみろ」「飯の1回や2回食わなくてもいい」「どうせなら高い山に登れ」と、毎日こんな調子だった。厳しかったが、彼の教えがあったからこそ、いつだって本物になりたい、価値ある存在になりたいと望むようになった。自分に嘘が付けなくなった。
外科になって、最先端で一流の技術を身に付けてきたと思う。外科医として、恥じることのない仕事をしてきたつもりだ。ただ、例えば動脈硬化の手術をすると、治してはいるものの、「本当に治しているのか?」という疑問を拭い去ることはできなかった。動脈硬化は、老化の一種だ。老化の自然の摂理に、医療技術がどこまでかかわっていくべきなのか――。高齢患者に「命を粗末にするのか」と言わんばかりに手術を勧め、こなしていく一方で、「本当にこれでいいのか」「患者は手術を望んでいるのか」「そこに医師の傲慢はないか」と、医療の意味を考えざるをえなくなり、疑問は日に日に膨らみ、何をしても腑に落ちない思いだった。そんな折に、芦花ホームから声がかかった。
――芦花ホームではどのような経緯で「平穏死」を推進するに至ったのですか。
来てすぐに驚いた。スタッフのほとんどが入居者家族からのクレームを恐れて萎縮し、責任回避を第一に考えて病院に送り、胃ろうが増産される――。日本中に何十万人もいると言われている胃ろう造設者、“延命大国日本”の縮図が、そこにはあった。
座敷牢に10年もいたんでね、もはや怖いものなど何もない。これは一つ暴れてやろうと思ったよ。黙っていられなくなってね。スタッフたちに「やりがいはあるのか」「こんなことでいいのか」と、すぐには伝わらないが、それでもしつこく言い続けた。
人間、真剣になると不思議なことに、助け舟が出るんだ。この時はスタッフたちが一番恐れていた入居者家族の中から出た。「平穏死」の考え方が当たり前の三宅島出身の家族との看取りの経験、わたしは「侍」と呼んでいるんだが、その侍が姉さん女房の胃ろう造設を断って最後まで口から食べさせ続けて看取った経験。彼らを通じて、「平穏死」というものがあるということを、芦花ホームのスタッフ全員が知り、その重要性に気が付き、息を吹き返したようにやりがいを取り戻していった。
平穏死にたどり着いた理由は、一言で語ることはできない。さまざまな点と点があったからこその帰結だから。一つ言えることは、さまざまな点において本質を見誤らないようにすることだ。本質を見誤り、正直でなかったり、正しくなかったり、時代の流れに逆行するような考えに捕らわれると、例外なくおかしな方向に人生は流れていってしまう。たとえおかしな方向に流れてしまっても、次にくる点で本質を見誤らないようにすることだ。日本の医療や社会も過保護に高齢者を扱い過ぎるから、おかしな方向に流れていってしまう。
人生の「点」で本質見誤らなければ
点と点が結びつき正しい方向に向かう
――2013年から慶應義塾大学で教鞭を握るとのことですが、何か準備などされているのですか。
実は、今年から慶大医学部の1年生を何人か芦花ホームで預かる機会を得た。今後の日本の医療を担う若い医療者の卵たちだ。「よっしゃ!」と思い、恩師の真似事だが、言ってやったよ。「お前たちは若いから使い減りはしない。飯の1回や2回食わなくてもいい、全力で学んでいけ」ってね。病院では学べない、看取りの特養でしか知り得ない現場を知ってもらい、おむつの取り替えだろうがなんだろうがやってもらって、全力で患者と向き合わせた。そうすることでしか味わえない「医者になる」という実感と覚悟をしっかりと持ってもらいたかった。大変だったろうと思うけど、喜んで帰っていったよ。いい医者になると思うよ、彼らは(笑)。