分断より融合、威張るより謙虚に-岩田健太郎・神戸大学感染治療学分野教授に聞く◆Vol.2
物分かりの悪い患者を診る医師になる
2013年1月29日 聞き手・まとめ:島田 昇
2013年に向けた言葉として岩田健太郎氏は「Dilemmaに耐えよ!」と記した。
――ご自身のキャリア形成について教えてください。研修先を医局の外に求め、米国、中国と渡り歩き、亀田総合病院、現在の神戸大学に至っています。
僕は子どもの頃から、「分断」よりも「融合」を好む傾向がありました。例えば、理系と文系、男性と女性のような分け方ではなく、「分断するのではなく統合する」「違いを見るのではなくて同一性を見る」というところに、直感的に興味を持っていたのです。
大人になってからこの直感を整理すると、世の中に根本的な違いなどはなく、ただ、「視点が違う」と考えていたのだと思います。例えば、あるお店の料理が美味しいか普通かの評価は、食べた人の見方の問題で、絶対的な違いではない。数字は客観的な違いと受け取られがちですが、内閣支持率が65%あるとして、この数字が高いか低いかは、主観です。さらに内閣支持率が60%になったとして、これを「支持率が低くなった」「支持率に大した変化はない」と考えるのも主観のなせる技と言えるでしょう。西欧諸国の人たちから見れば、日本人と中国人と韓国人の違いなんて、「それほど大した差はない」「一緒みたいなものだ」と感じる人がほとんどでしょう。
私は島根県松江市に3つある進学校の1つに通っていたのですが、あの頃はまさに受験戦争と呼べるほど偏差値至上主義で、「今回の模試の平均点は市内の他校より良かった」「今回は他校より悪かった」とやっているのを見て、僕ははっきり言って「くだらないな、バカじゃないかこの人たちは」とずっと思っていました。「人口10万人程度の田舎町で平均点を競い合って何になるのか」と。その頃から細かいことを気にすることが卑しいことであるかのように思っていました。そういう細かな違いを執拗に気にする人は、怒りや劣等感、劣等感の裏返しの優越感などを内包させていることが多い。この種の卑しさはさまざまな場所にあふれていて、医療界でもありとあらゆる場面にあって、出身大学の偏差値、開業医と勤務医、博士号の有無など、そういうどうでもいいことで「ああだこうだ」と言っているんです。
理系とか文系とか、そういう区別がおかしいなと思っていて、ここからは僕自身がバカだったというか「若気の至り」なのですけれど、当時、自然科学も社会科学も両方勉強できるのは医学部だと思い、それで医師の道を志しました。医師という職業に憧れは全くなく、ただ学問がしたいとの理由だけで、当初は基礎医学者になりたいとずっと思っていました。臨床医になるつもりなど、全くありませんでした。それでも医学部に入ってエイズの患者さんと出会って、そのサークルに入るなどしているうちに「ヒューマンなものも大事だ」と感じる萌芽を得たりしましたが、それでも基礎医学者になろうと思い、基礎医学者になるためにできるだけ短時間で臨床医学を学ぶことを考えて、それならばできるだけ厳しく教えてくれるところということで、沖縄県立中部病院を研修先に選びました。おそらく、中部病院史上、最も動機が不純な研修医だったのではないでしょうか(笑)。
今思えば当然ですが、中部病院は思った以上に研修がしんどくて大変でした。とうとう「これ以上は耐えられない」と思っていた時に、米国の臨床留学プログラムがあることを知って渡米することに決めました。「米国の最新医学を学ぶ」だったり、「日本の医学はこのままでは駄目だ」だったりと、ポジティブかネガティブかいずれかの強烈なモチベーションに後押しされて渡米する若い医師がほとんどの中で、「とりあえず、ここにいたくないから米国だろうがどこでもいいから逃げ出したい」という気持ちで米国留学を決めた医師もまた、少ないのではないでしょうか。本当に若気の至りでした。
米国をグローバルスタンダードと見てどっぷりと米国に浸かり、米国に対してものすごい大きな愛情か、その裏返しの大きな憎悪を抱く研修医がほとんどの中で、私は「米国は世界の異端児だ」と斜めに見て、米国の医療に接してきました。今でも世界の異端児だと思っていますよ、米国は。それでも5年、「米国とその他の国」というような区別をすることなく、米国の医療のいいところも悪いところも理解しながら感染症を学んできました。学生の時から、「世界のどこにいっても通用する人間になりたい」との思いが強かったため、感染症は先進国でも途上国でも、都会でも田舎でも役に立つ分野で、老いも若きも男も女も感染症になります。内科系、外科系、メジャー、マイナー、関係ありません。そういう「横の広がり」があるんです、感染症には。また、小さいところではウイルス学、分子生物学みたいなのから、大きなところでは公衆衛生、哲学、倫理学、政治にまで感染症は関与する。そういう「縦の広がり」もあります。感染症屋はある意味、ジェネラリスト以上にジェネラルな視点が必要です。こういうのが、まさに私が興味を持つ融合に合致する分野だったのです。
米国は世界の異端児
良し悪しを理解しながら学んだ
――日本に戻ってからはどうでしたか。
当初、日本の医療は楽しそうではなく、「帰りたくないな」という思いが強かった。現場の医師からは不平不満しか聞こえてこないし、労働環境もよくなく、つらい上に楽しくなさそうという印象だった。そんな中でたまたま亀田総合病院からお声がけいただいたのですが、亀田は例外で、楽しそうないい病院の雰囲気があったので帰国することに決めました。
――指導医としての哲学、感染症への情熱などをお聞きすると、医学生時代の医師や医療に対する考え方とかなり落差があると思います。何か考え方が変わるきっかけなどがあったのですか。
行き詰まったのです、「これじゃあ駄目だ」と。基礎医学者になろうと思っていたけれど、ズルズルと臨床をやっていて、米国で臨床をやっていると、「自分は米国の最先端で臨床をやっている」、「自分はこれだけ立派なんだ」というゆがんだ自負心が湧いていた時期があったのです。しかし、時の経過と経験の積み重ねとともに、そういうものが全く役に立たないという気づきに至りました。よく考えれば、米国にいることで医師として特別なことができるわけではないのです。それはただのおごりだったため、行き詰まったのです。そのときは人間関係もうまくいかなくなりました。
米国では肩肘張って生き馬の目を射抜く覚悟でやっていて、さまざまな議論に参加して、米国人の真似事で一生懸命になって議論の中で主義主張をしたものです。それが米国的であると信じて。でも、そんなもの、全くアメリカ的でも何でもない。米国人だろうが日本人だろうが、本当に頭のいい奴は、そういう僕らみたいな凡人がゴチャゴチャ議論していると、後ろで黙って議論に加わらず聞いていて、一番大事なところを最後にズバっと言って去っていく感じなのですよ。
行き詰って、患者を救うとはどういうことなのかも分からなくなった。例えば、生存率が5年上がったとして、それが何になるのか。患者はもっといろんなことに悩んでいて、お金に困っている患者に医者がお金を貸すわけにもいかないし、孤独に悩む患者の友だちになってあげることもできない。同じようにパートナーを失った人、仕事を失った人など、医療なんて、人の悩みのほんの一部でしかない。ですから、実は医者ができることはほんの少しのことで、そういう己の無力さを認識し、謙虚にならないといけないと思ったのです。
――謙虚になったことで、きちんとした哲学が芽生えたと。
「きちんとした哲学」というのもよく分かりませんが、医師って、威張りすぎなのです。自分たちのお陰で世間が成り立っていると考えがちですが、24時間、医療や病気のことばかり考えている人というのは少ないですし、もしそういう人がいるとしたら、それはそれで不健全ですよ。そういう「病気のことばかり考えている」患者さんはどことなく不幸な顔をしています。そういう患者さんが、少しでも医療や病気のことを考えなくてもいいようにすることが僕らの本来の仕事であるのに、「もっと患者は勉強して賢い患者になれ」などと言っている。つまり、もっと一日のうちに病気のことを考えろと脅迫しているわけです。しかし、医師は自分たちが「脅迫している」だなんて考えない。まじめな医師ほどそうは考えない。でも、僕らは知らず知らず、自分たち医師を中心に何でも考えがちになっているのです。医療の世界は広大なるグレーゾーンの世界です。押しても駄目だし、引いても駄目だし、こうしたジレンマは本当に難しいとは思うのですが、やはり、自分たちの論理だけで考えてはいけないと思います。細々と謙虚にやっていくことが大事です。
人の幸福を支援するのが医師
優先すべきは正しさではない
多くの真面目な医者は、正しさを振りかざし、例えば、タバコは体に良くないと言って、まるで喫煙者を人生の落伍者のように追い込んでいく。正しさを振りかざすことで人を不幸にしてしまっている。これでは、その正しさは本末転倒になってしまう。人間の幸福のためにちょっとでもお手伝いをすることが僕らの本来の仕事なのに。「他人の幸福」よりも、「自分たちの正しさ」を優先してしまうのです。物分かりのいい患者なんて、誰が診ても同じですからね。何もかも医師の論理で考えることなく、脅迫することなしに、「物分かりの悪い患者」に対して、自分の頭で考えて、どう診ていくのかを悩み、解決策を導き出すこと――。それこそが、医師の仕事だと僕は思いたいのです。
物分かりの悪い患者を診る医師になる
2013年1月29日 聞き手・まとめ:島田 昇
2013年に向けた言葉として岩田健太郎氏は「Dilemmaに耐えよ!」と記した。
――ご自身のキャリア形成について教えてください。研修先を医局の外に求め、米国、中国と渡り歩き、亀田総合病院、現在の神戸大学に至っています。
僕は子どもの頃から、「分断」よりも「融合」を好む傾向がありました。例えば、理系と文系、男性と女性のような分け方ではなく、「分断するのではなく統合する」「違いを見るのではなくて同一性を見る」というところに、直感的に興味を持っていたのです。
大人になってからこの直感を整理すると、世の中に根本的な違いなどはなく、ただ、「視点が違う」と考えていたのだと思います。例えば、あるお店の料理が美味しいか普通かの評価は、食べた人の見方の問題で、絶対的な違いではない。数字は客観的な違いと受け取られがちですが、内閣支持率が65%あるとして、この数字が高いか低いかは、主観です。さらに内閣支持率が60%になったとして、これを「支持率が低くなった」「支持率に大した変化はない」と考えるのも主観のなせる技と言えるでしょう。西欧諸国の人たちから見れば、日本人と中国人と韓国人の違いなんて、「それほど大した差はない」「一緒みたいなものだ」と感じる人がほとんどでしょう。
私は島根県松江市に3つある進学校の1つに通っていたのですが、あの頃はまさに受験戦争と呼べるほど偏差値至上主義で、「今回の模試の平均点は市内の他校より良かった」「今回は他校より悪かった」とやっているのを見て、僕ははっきり言って「くだらないな、バカじゃないかこの人たちは」とずっと思っていました。「人口10万人程度の田舎町で平均点を競い合って何になるのか」と。その頃から細かいことを気にすることが卑しいことであるかのように思っていました。そういう細かな違いを執拗に気にする人は、怒りや劣等感、劣等感の裏返しの優越感などを内包させていることが多い。この種の卑しさはさまざまな場所にあふれていて、医療界でもありとあらゆる場面にあって、出身大学の偏差値、開業医と勤務医、博士号の有無など、そういうどうでもいいことで「ああだこうだ」と言っているんです。
理系とか文系とか、そういう区別がおかしいなと思っていて、ここからは僕自身がバカだったというか「若気の至り」なのですけれど、当時、自然科学も社会科学も両方勉強できるのは医学部だと思い、それで医師の道を志しました。医師という職業に憧れは全くなく、ただ学問がしたいとの理由だけで、当初は基礎医学者になりたいとずっと思っていました。臨床医になるつもりなど、全くありませんでした。それでも医学部に入ってエイズの患者さんと出会って、そのサークルに入るなどしているうちに「ヒューマンなものも大事だ」と感じる萌芽を得たりしましたが、それでも基礎医学者になろうと思い、基礎医学者になるためにできるだけ短時間で臨床医学を学ぶことを考えて、それならばできるだけ厳しく教えてくれるところということで、沖縄県立中部病院を研修先に選びました。おそらく、中部病院史上、最も動機が不純な研修医だったのではないでしょうか(笑)。
今思えば当然ですが、中部病院は思った以上に研修がしんどくて大変でした。とうとう「これ以上は耐えられない」と思っていた時に、米国の臨床留学プログラムがあることを知って渡米することに決めました。「米国の最新医学を学ぶ」だったり、「日本の医学はこのままでは駄目だ」だったりと、ポジティブかネガティブかいずれかの強烈なモチベーションに後押しされて渡米する若い医師がほとんどの中で、「とりあえず、ここにいたくないから米国だろうがどこでもいいから逃げ出したい」という気持ちで米国留学を決めた医師もまた、少ないのではないでしょうか。本当に若気の至りでした。
米国をグローバルスタンダードと見てどっぷりと米国に浸かり、米国に対してものすごい大きな愛情か、その裏返しの大きな憎悪を抱く研修医がほとんどの中で、私は「米国は世界の異端児だ」と斜めに見て、米国の医療に接してきました。今でも世界の異端児だと思っていますよ、米国は。それでも5年、「米国とその他の国」というような区別をすることなく、米国の医療のいいところも悪いところも理解しながら感染症を学んできました。学生の時から、「世界のどこにいっても通用する人間になりたい」との思いが強かったため、感染症は先進国でも途上国でも、都会でも田舎でも役に立つ分野で、老いも若きも男も女も感染症になります。内科系、外科系、メジャー、マイナー、関係ありません。そういう「横の広がり」があるんです、感染症には。また、小さいところではウイルス学、分子生物学みたいなのから、大きなところでは公衆衛生、哲学、倫理学、政治にまで感染症は関与する。そういう「縦の広がり」もあります。感染症屋はある意味、ジェネラリスト以上にジェネラルな視点が必要です。こういうのが、まさに私が興味を持つ融合に合致する分野だったのです。
米国は世界の異端児
良し悪しを理解しながら学んだ
――日本に戻ってからはどうでしたか。
当初、日本の医療は楽しそうではなく、「帰りたくないな」という思いが強かった。現場の医師からは不平不満しか聞こえてこないし、労働環境もよくなく、つらい上に楽しくなさそうという印象だった。そんな中でたまたま亀田総合病院からお声がけいただいたのですが、亀田は例外で、楽しそうないい病院の雰囲気があったので帰国することに決めました。
――指導医としての哲学、感染症への情熱などをお聞きすると、医学生時代の医師や医療に対する考え方とかなり落差があると思います。何か考え方が変わるきっかけなどがあったのですか。
行き詰まったのです、「これじゃあ駄目だ」と。基礎医学者になろうと思っていたけれど、ズルズルと臨床をやっていて、米国で臨床をやっていると、「自分は米国の最先端で臨床をやっている」、「自分はこれだけ立派なんだ」というゆがんだ自負心が湧いていた時期があったのです。しかし、時の経過と経験の積み重ねとともに、そういうものが全く役に立たないという気づきに至りました。よく考えれば、米国にいることで医師として特別なことができるわけではないのです。それはただのおごりだったため、行き詰まったのです。そのときは人間関係もうまくいかなくなりました。
米国では肩肘張って生き馬の目を射抜く覚悟でやっていて、さまざまな議論に参加して、米国人の真似事で一生懸命になって議論の中で主義主張をしたものです。それが米国的であると信じて。でも、そんなもの、全くアメリカ的でも何でもない。米国人だろうが日本人だろうが、本当に頭のいい奴は、そういう僕らみたいな凡人がゴチャゴチャ議論していると、後ろで黙って議論に加わらず聞いていて、一番大事なところを最後にズバっと言って去っていく感じなのですよ。
行き詰って、患者を救うとはどういうことなのかも分からなくなった。例えば、生存率が5年上がったとして、それが何になるのか。患者はもっといろんなことに悩んでいて、お金に困っている患者に医者がお金を貸すわけにもいかないし、孤独に悩む患者の友だちになってあげることもできない。同じようにパートナーを失った人、仕事を失った人など、医療なんて、人の悩みのほんの一部でしかない。ですから、実は医者ができることはほんの少しのことで、そういう己の無力さを認識し、謙虚にならないといけないと思ったのです。
――謙虚になったことで、きちんとした哲学が芽生えたと。
「きちんとした哲学」というのもよく分かりませんが、医師って、威張りすぎなのです。自分たちのお陰で世間が成り立っていると考えがちですが、24時間、医療や病気のことばかり考えている人というのは少ないですし、もしそういう人がいるとしたら、それはそれで不健全ですよ。そういう「病気のことばかり考えている」患者さんはどことなく不幸な顔をしています。そういう患者さんが、少しでも医療や病気のことを考えなくてもいいようにすることが僕らの本来の仕事であるのに、「もっと患者は勉強して賢い患者になれ」などと言っている。つまり、もっと一日のうちに病気のことを考えろと脅迫しているわけです。しかし、医師は自分たちが「脅迫している」だなんて考えない。まじめな医師ほどそうは考えない。でも、僕らは知らず知らず、自分たち医師を中心に何でも考えがちになっているのです。医療の世界は広大なるグレーゾーンの世界です。押しても駄目だし、引いても駄目だし、こうしたジレンマは本当に難しいとは思うのですが、やはり、自分たちの論理だけで考えてはいけないと思います。細々と謙虚にやっていくことが大事です。
人の幸福を支援するのが医師
優先すべきは正しさではない
多くの真面目な医者は、正しさを振りかざし、例えば、タバコは体に良くないと言って、まるで喫煙者を人生の落伍者のように追い込んでいく。正しさを振りかざすことで人を不幸にしてしまっている。これでは、その正しさは本末転倒になってしまう。人間の幸福のためにちょっとでもお手伝いをすることが僕らの本来の仕事なのに。「他人の幸福」よりも、「自分たちの正しさ」を優先してしまうのです。物分かりのいい患者なんて、誰が診ても同じですからね。何もかも医師の論理で考えることなく、脅迫することなしに、「物分かりの悪い患者」に対して、自分の頭で考えて、どう診ていくのかを悩み、解決策を導き出すこと――。それこそが、医師の仕事だと僕は思いたいのです。