名詞の目的は差別化

2009-11-11 11:53:56 | タナカ君的偏見
 民主党・小沢幹事長の高野山での発言「キリスト教もイスラム教も排他的だ。」とやらがWeb上でも新聞紙上でも取り上げられている。 こんな発言なんて高野山につながる皆さん向けのゴマ摺り発言の意味が半分以上と捉えて、ほって置けばよい事だと思うのだけれど、マスコミの皆さんは 「あの地位に居る者の発言としては不穏当だ」とか 「西洋諸国からどう見られるか?」だとか騒いでいる。 僕なんか、この世の全ての事は、排他的、差別的になるように出来ているものだと思っていますから、「当然の理を口にしただけだろ」で済ませます。

 と、まあ こんな風に書き始めてみたけれど、お尻をどう拭って文章を終わらせようかと思いつつ、もう少し続けてみます。 大分前から言葉の差別(差別用語)が問題にされて、色々と公式文書や新聞・TVの報道などでは制限が加えられたりしていますが、 本来、言葉(特に名詞)なんて正に差別(識別・分類)のために用意されているものですが。 そういった中で「いざり」「ちんば」「びっこ」「めくら」「おし」「つんぼ」「ぼけ老人」の類をイケナイ言葉として「肢体不自由」だの「めくら」対極にある目が見える人の事を「晴眼者」なんて呼んでみたり、「ボケ」を「アルツハイマー」なんて気取って見たり。1~3文字で表現出来たものを、長い文字列に変更しただけで、一体なんで他人に優し世の中になるんだ? 罵り、あるいは蔑みの場面でそれらの言葉が使用される事も確かですけれど、あらたな表現を追加したとて当事者が蔑みに対象になるような生活を送っていたら、いつまでも蔑まれるだけでしょう。 「五体不満足」の著者 乙武 洋匡氏に対しては馬鹿にするどころか尊敬しています。 そして五体満足であったはずの前アメリカ大統領ブッシュ政権に対しては「アメリカ国民の怒りをアルカイダやイラクに向け、戦争に突入していった」軍事的強さへの奢り丸出しの行為に「馬鹿だなアイツ、チンパンジー顔は脳みその反映か?」等と心の中で思っていました。

 とりとめなくなって、どうまとめたものか... はい、僕は「右下肢短縮 5cm」の身体障害者 所謂ビッコです。
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