人間は運転免許、 認知症などの判定局面でその能力を判定するテストを受ける事がある。 認知症判定テストでは当日の日付が質問項目に並んでいたりするのだが、 それって認知症の判定と言うよりも、 「被験者が日常生活で日付を意識する生活を続けているか?」 の生活習慣を調査するための設問でしか無いんじゃないかと感じている。 その事は先日のマニュアル車運転でクラッチを切り忘れてエンストさせた事で、 より強く感じる様になった。
日常的に使っている情報・知識・能力は日々アップデートされるけれど、 日付なんて、のは何かの申請書類に記入する必要が無い限り使わない。 僕のリタイア後の生活では日付を記入する必要のある作業は極端に減りました。 年金への返信ハガキ、 確定申告書類、運転免許更新申請書類、 それらは日常的とはとても言えない。 年に10回あるだろうか? だから、 今の僕は「えーと、今日は何日だっけ?」 と思い出すのに手間取り、それを知るのに配達された新聞に印刷された日付を見る人間になっている。
しかし曜日については即座に答える事が出来ます。 それは曜日に依って囲碁の対局場所が「公民館」であったり、「地域センター」であったり周期的に変化するからです。 それで日常的に曜日を意識する生活が続いているので、 曜日は問題なく答える事が出来るのです。
漢字を書くのを忘れて行くのだって、 それを使わなくなるからに違いない。 使わなくなる理由は人様々でしょうけれどね。
さて最近時々伝えられる高齢者が運転する車が暴走して発生する人身事故や物損事故。 あんなのだって、 日常的に車を運転している人と、 たまに車を使う人とでは運転能力に随分と差が出るでしょうね。 認知症が始まった人と正常な人との運転能力の差よりも大きいのではないか? と勝手に想ってしまう。 だから高齢者講習の際に認知症のテストを加えるよりも、 「運転能力の確認に力を入れたらどうだろう?」 とおもいます。
その運転能力の判定方法ですが、 教習所の構内を巡らせて、 「一時停止」の標識の場所できちんと停止するなんてチマチマした規則を守ったか? なんて事よりも、 行き先を指定してその場所から到着を確認出来る何かを持って帰らせる。 そんな方法はどうでしょう? 子供の頃にやった、 暗い神社の境内や墓石の並ぶお寺での肝試し、 そんな雰囲気ですかね。
そんなテストを受ける事に逡巡する態度を示した人や目的を達せられなかった人には免許の更新を保留するのだ。 テストを受ける費用を支払えば、何度でもトライ可能である制度にして置くべきと考えますが
日常的に使っている情報・知識・能力は日々アップデートされるけれど、 日付なんて、のは何かの申請書類に記入する必要が無い限り使わない。 僕のリタイア後の生活では日付を記入する必要のある作業は極端に減りました。 年金への返信ハガキ、 確定申告書類、運転免許更新申請書類、 それらは日常的とはとても言えない。 年に10回あるだろうか? だから、 今の僕は「えーと、今日は何日だっけ?」 と思い出すのに手間取り、それを知るのに配達された新聞に印刷された日付を見る人間になっている。
しかし曜日については即座に答える事が出来ます。 それは曜日に依って囲碁の対局場所が「公民館」であったり、「地域センター」であったり周期的に変化するからです。 それで日常的に曜日を意識する生活が続いているので、 曜日は問題なく答える事が出来るのです。
漢字を書くのを忘れて行くのだって、 それを使わなくなるからに違いない。 使わなくなる理由は人様々でしょうけれどね。
さて最近時々伝えられる高齢者が運転する車が暴走して発生する人身事故や物損事故。 あんなのだって、 日常的に車を運転している人と、 たまに車を使う人とでは運転能力に随分と差が出るでしょうね。 認知症が始まった人と正常な人との運転能力の差よりも大きいのではないか? と勝手に想ってしまう。 だから高齢者講習の際に認知症のテストを加えるよりも、 「運転能力の確認に力を入れたらどうだろう?」 とおもいます。
その運転能力の判定方法ですが、 教習所の構内を巡らせて、 「一時停止」の標識の場所できちんと停止するなんてチマチマした規則を守ったか? なんて事よりも、 行き先を指定してその場所から到着を確認出来る何かを持って帰らせる。 そんな方法はどうでしょう? 子供の頃にやった、 暗い神社の境内や墓石の並ぶお寺での肝試し、 そんな雰囲気ですかね。
そんなテストを受ける事に逡巡する態度を示した人や目的を達せられなかった人には免許の更新を保留するのだ。 テストを受ける費用を支払えば、何度でもトライ可能である制度にして置くべきと考えますが