12月30日朝日新聞朝刊には「再考 裁判員制度」いう見出しで早大法科大学院教授の四宮啓弁護士の文が掲載されています。文末に(聞き手・市川美亜子)とあるので両者で作成したものでしょう。なお四宮氏は、29日夜9時にNHKで放映された模擬裁判の解説も務められていました。四宮氏はどうやらこの分野の第一人者と見られているようです。
この第一人者による文章の趣旨は裁判員制度反対論に対する反論、つまり擁護論であります。主な論点を以下にまとめます。
①国民が裁判に参加することは日本の民主主義の空洞を埋める意味がある。
②時間や金のかかる閉鎖的な司法を使いやすいものするため、国民にも中に入ってもらう。
③裁判員制度は違憲でなく、奉仕の強制でもない。
そして次の項では、注目すべき主張が述べられます。
④模擬裁判で量刑がばらつき、公平な裁判ではないという声があるが、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ。それがプロの裁判官の相場とずれているなら、相場が見直されるべきで国民が議論した末の結論こそ「真実」だという考え方を日本社会は身につけていくだろう。
順序が逆ですが驚きの④から反論します。
量刑のばらつきが問題になっているとき、それが正しいのだから、プロの相場が見直されるべきだ、とされるのは理解できません。裁判員制度によって量刑が全体として重くなる、あるいは軽くなる方向が出たのなら、相場をそれに合わせることはできます。だが量刑がばらついたときに、どうあわせたらよいのでしょう。プロの裁判もばらばらになれとおっしゃるのでしょうか。
また「裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ」と述べられていますが、どのような根拠があるのでしょうか。この考えは裁判員制度の重要な基本であり、明確な根拠が示されるべきです。その考えが正しければプロだけの上級審は要らなくなります。現実を理解しない暴論であり、形式論というより原理主義というべきでしょう。
ばらつきがあるという指摘に反論もせず、適正な刑罰だと主張もわかりません。ばらつきは裁判員の質の差が大きいために当然生じたのであって、それでも公平性が保たれるという認識も理解できません。この考えは、同一事件を想定しての模擬裁判の結果に無罪~懲役14年の開きがあるのを「当然、想定していた」との最高裁の見解とも一致します。
また、「今まで法律のプロだけがコップの中で議論していたシビリアンコントロール(文民統制)の要素が盛り込まれる点を考えてほしい」とありますが、シビリアンコントロールという言葉は一般に軍の指揮権を文民が持つことを意味し、誤用と思われます。以前にも指摘しましたが、記事の信用にも関係することであり、記者・校正者の学力向上を望みたいところです。
次に、①の裁判員制度が民主主義の空洞を埋める、というご主張に移ります。
これは司法制度改革審議会の意見書の、裁判員制度の第一の目的は国民が国民主権に基づく統治構造に参加するという理念の実現である、という記述と符合します。大変ご立派なお題目ですが、裁判員の数に対する思慮が欠けているのではないでしょうか。裁判員に選ばれるのは2006年の資料によれば年間約5500人に1人です。
5500人に1人だけ選挙権を与え、国民主権の民主主義をやっていますと胸を張るのとたいして変わりません。国民という抽象的な実体はないのです。形だけ整えばよいという考えであり、現実性・有効性を無視した考えです。まして裁判員経験者はその経験を口外してはならないとされているので、参加意識の波及効果もごく限定されます。
自然科学の世界では、必要な数の数千分の一を満足しただけで、これでOKなどと言うと、奴は頭がおかしい、と言われかねません。法の世界には数量の概念がないようです。総選挙のとき、最高裁判所裁判官国民審査が実施されますが、この仕組みの有効性を信じる方はあまりいないのではないでしょうか。これも形式論の産物でしょう。
②の司法を使いやすいものするため、と言われるますが、なぜ裁判員制度がそのような意味をもつのか、理解に苦しみます。素人裁判員への説明のために余分な時間を取られる裁判員制度は安くて早い裁判の実現に逆効果ではないでしょうか。裁判員の時間的制約のために早く結審せざるを得ないという圧力のために時間が短くなるのなら、拙速でしかありません。早くすることは裁判員制度と関係なく実現できることです。
③の本制度がもつ憲法上の疑義については素人の出る幕ではないので触れまませんが、素人ながら、見解が分かれる法の解釈など、いつまでやっても仕方がないという気がします。憲法9条の解釈など数十年やったって結論がでません。
裁判員制度の導入の意義は、約5500人に1人の参加で国民主権が実現できるということと、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ、という考えが中心のようです。前者は形式的な空論に近く、後者は「適正な刑罰」の根拠がないばかりか、むしろ裁判の公平性を損ねる危険が大きくなります。
さらに根拠も示さず(ないからだと思しいまが)素人が6人加われば「適正な刑罰」が決まると決めつける思考方法自体に危険なものを感じます。これは論理の世界ではありません。無作為抽選による一様でない6人がどんな影響をもたらすか、実験もせずに予測できるのでしょうか。予測の方法と根拠を提示していただきたいものです。
調査によって違いがありますが、国民の7~8割がなりたくないと思っているこの裁判員制度を進めるべきでしょうか。大勢の専門家がよってたかって作り上げた「ゆとり教育」のような大失敗にならなければよいのですが。
この第一人者による文章の趣旨は裁判員制度反対論に対する反論、つまり擁護論であります。主な論点を以下にまとめます。
①国民が裁判に参加することは日本の民主主義の空洞を埋める意味がある。
②時間や金のかかる閉鎖的な司法を使いやすいものするため、国民にも中に入ってもらう。
③裁判員制度は違憲でなく、奉仕の強制でもない。
そして次の項では、注目すべき主張が述べられます。
④模擬裁判で量刑がばらつき、公平な裁判ではないという声があるが、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ。それがプロの裁判官の相場とずれているなら、相場が見直されるべきで国民が議論した末の結論こそ「真実」だという考え方を日本社会は身につけていくだろう。
順序が逆ですが驚きの④から反論します。
量刑のばらつきが問題になっているとき、それが正しいのだから、プロの相場が見直されるべきだ、とされるのは理解できません。裁判員制度によって量刑が全体として重くなる、あるいは軽くなる方向が出たのなら、相場をそれに合わせることはできます。だが量刑がばらついたときに、どうあわせたらよいのでしょう。プロの裁判もばらばらになれとおっしゃるのでしょうか。
また「裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ」と述べられていますが、どのような根拠があるのでしょうか。この考えは裁判員制度の重要な基本であり、明確な根拠が示されるべきです。その考えが正しければプロだけの上級審は要らなくなります。現実を理解しない暴論であり、形式論というより原理主義というべきでしょう。
ばらつきがあるという指摘に反論もせず、適正な刑罰だと主張もわかりません。ばらつきは裁判員の質の差が大きいために当然生じたのであって、それでも公平性が保たれるという認識も理解できません。この考えは、同一事件を想定しての模擬裁判の結果に無罪~懲役14年の開きがあるのを「当然、想定していた」との最高裁の見解とも一致します。
また、「今まで法律のプロだけがコップの中で議論していたシビリアンコントロール(文民統制)の要素が盛り込まれる点を考えてほしい」とありますが、シビリアンコントロールという言葉は一般に軍の指揮権を文民が持つことを意味し、誤用と思われます。以前にも指摘しましたが、記事の信用にも関係することであり、記者・校正者の学力向上を望みたいところです。
次に、①の裁判員制度が民主主義の空洞を埋める、というご主張に移ります。
これは司法制度改革審議会の意見書の、裁判員制度の第一の目的は国民が国民主権に基づく統治構造に参加するという理念の実現である、という記述と符合します。大変ご立派なお題目ですが、裁判員の数に対する思慮が欠けているのではないでしょうか。裁判員に選ばれるのは2006年の資料によれば年間約5500人に1人です。
5500人に1人だけ選挙権を与え、国民主権の民主主義をやっていますと胸を張るのとたいして変わりません。国民という抽象的な実体はないのです。形だけ整えばよいという考えであり、現実性・有効性を無視した考えです。まして裁判員経験者はその経験を口外してはならないとされているので、参加意識の波及効果もごく限定されます。
自然科学の世界では、必要な数の数千分の一を満足しただけで、これでOKなどと言うと、奴は頭がおかしい、と言われかねません。法の世界には数量の概念がないようです。総選挙のとき、最高裁判所裁判官国民審査が実施されますが、この仕組みの有効性を信じる方はあまりいないのではないでしょうか。これも形式論の産物でしょう。
②の司法を使いやすいものするため、と言われるますが、なぜ裁判員制度がそのような意味をもつのか、理解に苦しみます。素人裁判員への説明のために余分な時間を取られる裁判員制度は安くて早い裁判の実現に逆効果ではないでしょうか。裁判員の時間的制約のために早く結審せざるを得ないという圧力のために時間が短くなるのなら、拙速でしかありません。早くすることは裁判員制度と関係なく実現できることです。
③の本制度がもつ憲法上の疑義については素人の出る幕ではないので触れまませんが、素人ながら、見解が分かれる法の解釈など、いつまでやっても仕方がないという気がします。憲法9条の解釈など数十年やったって結論がでません。
裁判員制度の導入の意義は、約5500人に1人の参加で国民主権が実現できるということと、裁判官と裁判員が当事者の意見を聴いて十分に議論した結果は、適正な刑罰だ、という考えが中心のようです。前者は形式的な空論に近く、後者は「適正な刑罰」の根拠がないばかりか、むしろ裁判の公平性を損ねる危険が大きくなります。
さらに根拠も示さず(ないからだと思しいまが)素人が6人加われば「適正な刑罰」が決まると決めつける思考方法自体に危険なものを感じます。これは論理の世界ではありません。無作為抽選による一様でない6人がどんな影響をもたらすか、実験もせずに予測できるのでしょうか。予測の方法と根拠を提示していただきたいものです。
調査によって違いがありますが、国民の7~8割がなりたくないと思っているこの裁判員制度を進めるべきでしょうか。大勢の専門家がよってたかって作り上げた「ゆとり教育」のような大失敗にならなければよいのですが。