社会貢献度と所得の関係・・・人間のコスト・パーフォーマンス
「貧しい社会とか豊かな社会とかでなく、経済的格差が大きい社会で凶悪犯罪率が高いことが判明している」と社会学者の竹内洋氏は述べています(11/12朝日新聞「格差社会と危険社会」)。
経済格差が大きくなれば理不尽さが蔓延し、また社会や政府への信頼がなくなり、社会規範を守ろうという気持が薄くなる、というわけですが、経済格差について付け加えたいと思うことがあります。
才覚や努力によって社会に多大の貢献をした人が高額の所得を得ることに対し、理不尽さを感じる人はあまりないと思います。理不尽さを強く感じるのは社会に貢献することなく、巨額の所得を得ることに対してです。詐欺や窃盗は社会に迷惑をかけて所得を得ますが、まあこれは論外とします。
少し古いですが、「働かざるもの食うべからず」という言葉は、所得と社会貢献(=働くことにより社会に価値を提供すること)が比例関係にあるべきだ、という考えが基本にあると思います。これは社会の秩序を保つ上でも有用な考え方で、この考えが底にあればこそ社会への貢献なしに高額の所得を得ることに対して理不尽さを感じるのでしょう。
米投資銀行が半ば詐欺のような商売と批判されながら消滅した際、経営者の超高額退職金が話題になりました。ペロシ下院議長に強く批判された彼らの、所得と社会貢献度の比は記録的な値になったことでしょう。彼らの所得は社会から見るとコストです。
コスト・パーフォーマンス(C/P)は費用対便益などと訳されますが、商品が値段のわりに機能が優れている場合などに、コスト・パーフォーマンスが高いといいます。上記の人たちに社会が払ったコストは超高額で、社会から見ると彼らは大変C/Pの低い人たちとも言えます。
一方で、作曲家としての生涯を貧困のうちに終えながら、残された曲が何百年ものあいだ世界中の人々を楽しませる例のように、所得に対する社会貢献度が大きい、すなわち社会から見ればコスト・パーフォーマンスが極端に高い人が芸術、科学の分野には数多く見られます。
社会貢献度と所得は比例関係にあるのが望ましいのですが、現実の社会はなかなかそうはいきません。社会の仕組みとしては、厳格すぎても息苦しく、ある程度の棚ボタが許されるようないい加減さが必要という面もあります。
不完全な比例関係を補正するものとして税の所得再分配機能があります。しかしこの10年ほど、所得税の累進度は緩和され、キャピタルゲイン(利子や配当などの資産所得)課税も軽減されたように、その再分配機能が低下した面も見られます。政治は社会貢献度と所得の比例関係を軽視する方向に傾き、メディアもそれに対して反対しませんでした。
この傾向は新自由主義と直接の関係はありませんが、新自由主義の影響下で起きた金融資本主義への傾斜、拝金思想の高まりの中で生じたものと思われます。社会貢献度と所得の比例関係を満足することは困難ですが、それが価値観の基本にあるということを政治もメディアも忘れかけたのがこの10年ほどの現象だと思います。「貯蓄から投資へ」という、働かずして、つまり社会貢献せずに金を得る方法が国レベルで奨励されたのもその延長線上のことであったのでしょう。
村上ファンドの村上世彰氏が「カネを儲けてなにが悪い?」と開き直ったとき、記者たちは沈黙しましたが、社会に価値を提供せずに金を得る行為は合法的であっても、所詮タダ乗りであり、胸を張れることとは思えません。村上氏は「貯蓄から投資へ」という国の方針には忠実でした。しかし低C/P人間のランキングでは上位にランクインできるかもしれません。(参考拙文:カネを儲けてなにが悪い?)
「貧しい社会とか豊かな社会とかでなく、経済的格差が大きい社会で凶悪犯罪率が高いことが判明している」と社会学者の竹内洋氏は述べています(11/12朝日新聞「格差社会と危険社会」)。
経済格差が大きくなれば理不尽さが蔓延し、また社会や政府への信頼がなくなり、社会規範を守ろうという気持が薄くなる、というわけですが、経済格差について付け加えたいと思うことがあります。
才覚や努力によって社会に多大の貢献をした人が高額の所得を得ることに対し、理不尽さを感じる人はあまりないと思います。理不尽さを強く感じるのは社会に貢献することなく、巨額の所得を得ることに対してです。詐欺や窃盗は社会に迷惑をかけて所得を得ますが、まあこれは論外とします。
少し古いですが、「働かざるもの食うべからず」という言葉は、所得と社会貢献(=働くことにより社会に価値を提供すること)が比例関係にあるべきだ、という考えが基本にあると思います。これは社会の秩序を保つ上でも有用な考え方で、この考えが底にあればこそ社会への貢献なしに高額の所得を得ることに対して理不尽さを感じるのでしょう。
米投資銀行が半ば詐欺のような商売と批判されながら消滅した際、経営者の超高額退職金が話題になりました。ペロシ下院議長に強く批判された彼らの、所得と社会貢献度の比は記録的な値になったことでしょう。彼らの所得は社会から見るとコストです。
コスト・パーフォーマンス(C/P)は費用対便益などと訳されますが、商品が値段のわりに機能が優れている場合などに、コスト・パーフォーマンスが高いといいます。上記の人たちに社会が払ったコストは超高額で、社会から見ると彼らは大変C/Pの低い人たちとも言えます。
一方で、作曲家としての生涯を貧困のうちに終えながら、残された曲が何百年ものあいだ世界中の人々を楽しませる例のように、所得に対する社会貢献度が大きい、すなわち社会から見ればコスト・パーフォーマンスが極端に高い人が芸術、科学の分野には数多く見られます。
社会貢献度と所得は比例関係にあるのが望ましいのですが、現実の社会はなかなかそうはいきません。社会の仕組みとしては、厳格すぎても息苦しく、ある程度の棚ボタが許されるようないい加減さが必要という面もあります。
不完全な比例関係を補正するものとして税の所得再分配機能があります。しかしこの10年ほど、所得税の累進度は緩和され、キャピタルゲイン(利子や配当などの資産所得)課税も軽減されたように、その再分配機能が低下した面も見られます。政治は社会貢献度と所得の比例関係を軽視する方向に傾き、メディアもそれに対して反対しませんでした。
この傾向は新自由主義と直接の関係はありませんが、新自由主義の影響下で起きた金融資本主義への傾斜、拝金思想の高まりの中で生じたものと思われます。社会貢献度と所得の比例関係を満足することは困難ですが、それが価値観の基本にあるということを政治もメディアも忘れかけたのがこの10年ほどの現象だと思います。「貯蓄から投資へ」という、働かずして、つまり社会貢献せずに金を得る方法が国レベルで奨励されたのもその延長線上のことであったのでしょう。
村上ファンドの村上世彰氏が「カネを儲けてなにが悪い?」と開き直ったとき、記者たちは沈黙しましたが、社会に価値を提供せずに金を得る行為は合法的であっても、所詮タダ乗りであり、胸を張れることとは思えません。村上氏は「貯蓄から投資へ」という国の方針には忠実でした。しかし低C/P人間のランキングでは上位にランクインできるかもしれません。(参考拙文:カネを儲けてなにが悪い?)