「時間をつぶしながら午後を過ごし、夜を過ごし、週末を過ごす。そうして時間をつぶしながら歳月を重ねるうち、ついには時間がおれをつぶすだろう」
とても巧い表現ですが、これはスティーヴ・ホッケンスミスの「エリーの最後の一日」にある一節です。
「生きているのは、死ぬまでの退屈しのぎ」
こちらは山本夏彦の言葉です(記憶によっているので不正確かもしれません)。どちらも時間と退屈しのぎがテーマです(忙しくて退屈どころではないという方には申し訳ありませんが)。
一方、前々回に紹介した動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは
「私たちは人間の営みを、自由の探求とか、有徳の人生に向けた奮闘といった高尚な言葉で表現し勝ちだが、生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」と述べています。
「人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」という生命科学の見方にはある程度同意できるものの、やはりそれだけでは十分とは思えません。人間には退屈するという生来の性質があるからです。むろん他の動物が退屈しないとは言い切れません。猫でも子供のうちは好奇心が強く、じっとしているのが耐えられないようであり、これも退屈の現れと言えるでしょう。知能が高い霊長類などはもっと顕著かもしれません。しかし退屈を感じる強さでは恐らく人間に匹敵する動物はいないでしょう。
平均的な日本人は1日に4~5時間テレビを見るそうです。他にも、新聞、雑誌、文学、音楽、映画、パソコン(インターネット)、ケータイ、ゲーム、パチンコ、各種の賭博・・・、退屈しのぎの手段にはあらゆるものが用意されています。歴史解釈や神学の論争はあまりコストもかからず、何年やっても決着がつかない点で、優れた暇つぶしです。
これらは文化と呼んでも差し支えないものです。もし退屈を感じることがなく、生産や食事など生存のために必要な時間以外を何もせずボーっと過ごすことができたなら、これらの文化の大半は生まれなかったでしょう。
つまり退屈は文化の生みの親と言ってもよいでしょう。われわれに予め組み込まれたこの退屈という特性は科学や哲学、芸術、宗教の母体でもあります。退屈という特性があるからこそ、人間は様々な行動に駆り立てられるからです。しかし個人差の大きい領域であり、寸暇を惜しんで活動する人もいれば、何時間でも悠然と過ごせる人もいらっしゃいます。
一方、「小人閑居して不善をなす」といわれるように、退屈しのぎの方法によっては害をなすこともあります。株や賭博で人生を棒に振る人も少なくないわけで、退屈の意味は人によって様々で、両刃の剣ということができます。
退屈のおかげで文化が発達したと思われますが、我々が退屈しのぎに多大の対価を払っていることも確かです。衣食が足りたあと、退屈しのぎの相対的な価値は大きくなります。より高価な退屈しのぎへの方向は、経済成長を促すかもしれません。
多くの動物は満腹すると眠ります。これはエネルギーの節約になり生存上の意味があります。人間に備わった退屈という機能は逆にエネルギーを消費するわけで、これが進化の観点からどのような意味を持つのか、ちょっと興味ある問題です。
とても巧い表現ですが、これはスティーヴ・ホッケンスミスの「エリーの最後の一日」にある一節です。
「生きているのは、死ぬまでの退屈しのぎ」
こちらは山本夏彦の言葉です(記憶によっているので不正確かもしれません)。どちらも時間と退屈しのぎがテーマです(忙しくて退屈どころではないという方には申し訳ありませんが)。
一方、前々回に紹介した動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールは
「私たちは人間の営みを、自由の探求とか、有徳の人生に向けた奮闘といった高尚な言葉で表現し勝ちだが、生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」と述べています。
「人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」という生命科学の見方にはある程度同意できるものの、やはりそれだけでは十分とは思えません。人間には退屈するという生来の性質があるからです。むろん他の動物が退屈しないとは言い切れません。猫でも子供のうちは好奇心が強く、じっとしているのが耐えられないようであり、これも退屈の現れと言えるでしょう。知能が高い霊長類などはもっと顕著かもしれません。しかし退屈を感じる強さでは恐らく人間に匹敵する動物はいないでしょう。
平均的な日本人は1日に4~5時間テレビを見るそうです。他にも、新聞、雑誌、文学、音楽、映画、パソコン(インターネット)、ケータイ、ゲーム、パチンコ、各種の賭博・・・、退屈しのぎの手段にはあらゆるものが用意されています。歴史解釈や神学の論争はあまりコストもかからず、何年やっても決着がつかない点で、優れた暇つぶしです。
これらは文化と呼んでも差し支えないものです。もし退屈を感じることがなく、生産や食事など生存のために必要な時間以外を何もせずボーっと過ごすことができたなら、これらの文化の大半は生まれなかったでしょう。
つまり退屈は文化の生みの親と言ってもよいでしょう。われわれに予め組み込まれたこの退屈という特性は科学や哲学、芸術、宗教の母体でもあります。退屈という特性があるからこそ、人間は様々な行動に駆り立てられるからです。しかし個人差の大きい領域であり、寸暇を惜しんで活動する人もいれば、何時間でも悠然と過ごせる人もいらっしゃいます。
一方、「小人閑居して不善をなす」といわれるように、退屈しのぎの方法によっては害をなすこともあります。株や賭博で人生を棒に振る人も少なくないわけで、退屈の意味は人によって様々で、両刃の剣ということができます。
退屈のおかげで文化が発達したと思われますが、我々が退屈しのぎに多大の対価を払っていることも確かです。衣食が足りたあと、退屈しのぎの相対的な価値は大きくなります。より高価な退屈しのぎへの方向は、経済成長を促すかもしれません。
多くの動物は満腹すると眠ります。これはエネルギーの節約になり生存上の意味があります。人間に備わった退屈という機能は逆にエネルギーを消費するわけで、これが進化の観点からどのような意味を持つのか、ちょっと興味ある問題です。