最近、ある老舗へ寄った時の話です。優に70歳を超したと思われる店主夫妻と同年輩の客が賑やかに談笑していました。話題は放射性物質に汚染された食物で、ひとりが「捨てるとはもったいないことや。あんなもんは老人に食わせりゃええ。わしらは喜んで食うわ。食うても放射能で死ぬ前に他のことで死ぬわ。ワッハッハ」と言うと、他の人も「そうや、そうや」と笑っていました。その後、話題はマスコミ批判に。
この老人達はマスコミを信用していないことがわかりましたが、それは戦前から長い間マスコミを観察をしてきたからなのでしょう。その結果、食物の汚染問題をあまり深刻に捉えず、風評とは無縁のように見えました。
100ミリシーベルトの被曝によって何十年か後、自然のがん発生率約30%が30.55%になるとされていることを考えると、「放射能で死ぬ前に他のことで死ぬ」はもっともなことです。また見方によっては若い人たちのために自分達が犠牲になるのをいとわないという精神の表れとも考えられます。どちらにしても健全なことと思われます。
もうひとつの話は4月13日の朝日夕刊に載ったチェルノブイリに関する記事です。旧ソ連では原発事故の後、汚染された肉をソーセージの材料にして旧ソ連各地に送り、濃度を薄くしてみんなで食べる政策を実施したとあります。また、豚や牛は出荷前の2~3ヶ月間は汚染のない餌を与え放射線量を低くして出荷し、汚染牛乳は加工で水分と一緒に放射性物質が取り除かれるのでバターやチーズ用にしたと。
現在の日本ではちょっと考えられないやり方です。しかし健康に影響の出ない十分なレベルまで濃度を薄くするのであれば、否定する理由はありません。
また放射線の影響を強く受けるとされる幼児の許容基準は厳しく決められていますが、高齢者は実質的な影響が少ないから許容基準を緩くしようなんて発想はまず出てきません。
放射線に限らず、ダイオキシン、環境ホルモンなど健康に影響のあるものに関しては、「この程度の量では問題ない」といった楽観的な意見は、それが正しいものであったとしてもなかなか言えない雰囲気があります。言ったとしてもしばしばそれは御用学者の意見だと片付けられてしまいます。
山本七平は著書「空気の研究」の中で、戦艦大和の自殺的な特攻出撃が客観的な情勢分析によってではなく、会議の空気によって決まったことを挙げ、「空気とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である」と書きました。空気に逆らうことは大変難しく、空気は合理的な思考より優先されるというわけです。
放射性物質に関しても、ある種の「空気」が社会、とくにマスコミに漂っているような気がします。
この老人達はマスコミを信用していないことがわかりましたが、それは戦前から長い間マスコミを観察をしてきたからなのでしょう。その結果、食物の汚染問題をあまり深刻に捉えず、風評とは無縁のように見えました。
100ミリシーベルトの被曝によって何十年か後、自然のがん発生率約30%が30.55%になるとされていることを考えると、「放射能で死ぬ前に他のことで死ぬ」はもっともなことです。また見方によっては若い人たちのために自分達が犠牲になるのをいとわないという精神の表れとも考えられます。どちらにしても健全なことと思われます。
もうひとつの話は4月13日の朝日夕刊に載ったチェルノブイリに関する記事です。旧ソ連では原発事故の後、汚染された肉をソーセージの材料にして旧ソ連各地に送り、濃度を薄くしてみんなで食べる政策を実施したとあります。また、豚や牛は出荷前の2~3ヶ月間は汚染のない餌を与え放射線量を低くして出荷し、汚染牛乳は加工で水分と一緒に放射性物質が取り除かれるのでバターやチーズ用にしたと。
現在の日本ではちょっと考えられないやり方です。しかし健康に影響の出ない十分なレベルまで濃度を薄くするのであれば、否定する理由はありません。
また放射線の影響を強く受けるとされる幼児の許容基準は厳しく決められていますが、高齢者は実質的な影響が少ないから許容基準を緩くしようなんて発想はまず出てきません。
放射線に限らず、ダイオキシン、環境ホルモンなど健康に影響のあるものに関しては、「この程度の量では問題ない」といった楽観的な意見は、それが正しいものであったとしてもなかなか言えない雰囲気があります。言ったとしてもしばしばそれは御用学者の意見だと片付けられてしまいます。
山本七平は著書「空気の研究」の中で、戦艦大和の自殺的な特攻出撃が客観的な情勢分析によってではなく、会議の空気によって決まったことを挙げ、「空気とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である」と書きました。空気に逆らうことは大変難しく、空気は合理的な思考より優先されるというわけです。
放射性物質に関しても、ある種の「空気」が社会、とくにマスコミに漂っているような気がします。