高島港にある 「 岩崎弥太郎之像 」
三菱重工長崎造船所資料館 ( 旧鋳物工場併設木型場 )
三菱重工長崎造船所資料館内にある岩崎弥太郎之像
世界遺産となった高島にある日本最初の洋式竪坑 「 北渓井坑跡 」
高島炭坑は佐賀藩とグラバーが手を結ぶことで近代的操業に成功したが、
グラバー商会が倒産すると経営に行き詰まった。
その後、後藤象二郎の蓬莱社が払い下げを受け操業したが、
やはり資金繰りに苦しみ、窮地に陥る。
それを見かねた福沢諭吉と大隈重信が当時日の出の勢いの岩崎弥太郎に買取りを進言し、
岩崎弥太郎が高島炭坑を買い取り、その後、高島炭坑は見事に復活を遂げ、
1986 ( 昭和61 ) 年の閉山まで実に5500万トンもの出炭を記録した。
岩崎弥太郎は、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・
岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。
地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。
曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。
幼い頃から文才を発揮し、
14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。
21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾する。
1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。
父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放される。
その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、
この時期後藤象二郎らの知遇を得る。
吉田東洋が参政となると、
これに仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事する。
吉田東洋暗殺の犯人を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、
尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、
任務を放棄し無断で帰国した。
この時の大阪行きについては藩主の江戸参勤に同行中、
規律に反したとの理由で帰国を命じられたものともいう。
大阪に残った井上は岡田以蔵によって斬殺され、
弥太郎は一命を取り留めた形になったが、
長崎での藩費浪費の責任なども問われ、帰国後職を辞した。
慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、
長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。
坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、
藩命により隊の経理を担当した。
明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、大坂の土佐商会に移る。
翌年10月、土佐商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。
廃藩置県後の明治6年(1873年)に、
後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、
現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に
九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。
三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。
この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて
三菱のマークを作ったということは、つとに有名である。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、
維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、
各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に知った弥太郎は、
十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、
それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、
いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。
今でいうインサイダー取引である。
弥太郎の死後、三菱商会は
政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して
日本郵船となった。
このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。
単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、
財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、
三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。
三菱商船学校 ( のちに官立の東京商船学校を経て
現国立東京海洋大学海洋工学部 ) 創設者である。