「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

熊本県上天草市 「 牟田港牛瀬灯標 」

2012-04-15 20:44:58 | 熊本の灯台



























牟田港牛瀬灯標は、熊本県上天草市牟田港の北東方約400mにる岩場に立つ灯標で、
塔形で黒地に赤横一本塗りのコンクリートで造られており、
初点が昭和51年12月8日である。
そんな灯標の頂部までの高さは8.46mで、
平均水面から灯火までの高さが11.68mとなっている。
頭標は、黒色球形頭標2個(縦掲)付で、灯質は群閃白光で毎5秒に2閃光の割合で点灯している。
現用灯器は、LD管制器Ⅱ型で現用レンズは300になっている。


※  牟田港牛瀬灯標へのアクセスは、
   国道266号線を松島から左に入って阿村方面に進み、
   東海岸沿いを10分ばかり走ると左側に見える。

( 熊本県上天草市姫戸町牟田 )


大分県中津市 「 植野橋 」 

2012-04-15 20:30:51 | 大分の石橋
































架橋  /  明治34年3月
石工  /  不明
長さ  /  4.7m  幅   /  6.2m
単径間桁橋


植野橋は国道10号線の旧道で現在は市道に架かる石橋である。
植野地区の西側に流れる犬丸川の支流の小さな川を通る主要道路であった当時は、
小倉~大分間を結ぶ国道35号線と呼ばれていた。
そんな道路に架かる石橋は日出町の赤松橋と、この橋だけである。

 橋の裏から見ると長い切石が15本並べられてあり、
それ以外にコンクリートで2本が補強されていた。
その桁石の上に板石を12枚載せている。
また親柱にはひらがなで 「 うゑのばし 」 と書かれたものと、
漢字で架橋年の 「 明治三廿四年 」と書かれたものとがある。


植野橋へのアクセス
植野橋へは、大分県の中津市内から旧・国道10号線を宇佐方面に進み、
犬丸川の橋を渡ってすぐに左折して300mほど行った所に架かっている現役の橋である。
駐車は、橋の近くに路上駐車した。

( 大分県中津市植野 )


長崎県長崎市  ・  国指定史跡 「 小菅修船場 」

2012-04-14 20:45:52 | 近代化産業遺産・土木遺産























































所在地  /  長崎県長崎市小菅町 
竣 工  /  1868年  ( 明治元年 )
国指定史跡  /  Aランク近代土木遺産




小さなソロバンドッグに秘められた “ 近代化のエッセンス ” を漂わせる小菅修船場は、
長崎の湾に入り込む小さな谷を利用した石の斜路と簡素で美しい煉瓦の建物である。
天草石の岩壁や巻揚げ用レール。
それに巻揚げ機械も現存している日本で最初の洋式スリップ・ドッグである。

日本最古の西欧式ドック、小菅修船場は、1867(慶応3)年1月、
薩摩藩の主導によって建設が始まっている。
計画を進めたのは大河ドラマ「篤姫」で有名になった薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)、
実務にあたったのが藩士の五代才助(友厚)であった。
そしてもう1人、グラバー邸で知られる英国商人、トーマス・グラバーが
計画・建設両面で大きくからんでいる。


商人名で申請
幕末の長崎港には外国船に限らず日本各藩の船も頻繁に出入りするようになっていた。
ところが長崎には船舶の修理、整備をする施設がない。
琉球唐物(からもの)(沖縄経由で輸入する中国の物産)を長崎に持ち込んでいた薩摩藩が、
そこに目をつけたのである。
しかしなぜ、薩摩藩が藩外の長崎に修船場を建設できたのだろうか。
幕末の長崎に詳しい長崎県文化振興課の本間貞夫参事は以下の諸点を挙げている。


一、薩摩藩が長崎に経済面で影響力を持っていたこと。
二、小菅が天領であったこと。
三、幕府が修船場を必要な施設と認めたこと。
四、そして何より、長崎の御用商人2人の名を借りて、建設の申請を行ったこと。


申請者が薩摩藩では、幕府の許可はあり得ない。
それを見越して申請者名を偽ったのだが、
受理した長崎奉行も事情は承知の上、だったのかもしれない。
建設地の小菅浦は現在の長崎港入り口に近く、狭い入り江が陸に食い込む形で延びている。
船を引き込み、引き揚げるには絶好の地形だった。
英国から技術者を招き、建設を開始する。
陸上から海中に174メートルのレールを敷き、
船架(船を載せる台)によって船を引き揚げる「スリップドック」が造られていく。
資金の分担は薩摩藩が25%、グラバーと彼の経営するグラバー商会が75%。
利益が出れば出資の割合で分けることに決まる。
ところが完成したのは1868年末、時代は明治になっていた。


このころグラバーは窮地に陥っていた。
日本の内乱が長引くと見て武器を大量に買い込んでいたのだが、
思惑が外れ、売り先を失ったのだ。
資金繰りに悩むグラバーは五代のツテによって修船場を12万ドルで明治政府に売り渡す。
今日の価格なら12億円程度、と考えられている。


ソロバンドック
修船場は明治政府の管理下に入り、
対岸の長崎製鉄所(官営の鉄製品製造所)に付属する工場となった。
以来、船舶の修理、新船の建造にと活況を示し、
細長い船架の形から 「 ソロバンドック 」 の愛称で呼ばれるようになる。
この名は長く地元で親しまれ 「 小菅修船場 」 では話が通じないほどである。


長崎製鉄所は1887年、払い下げによって三菱社の所有となり、
現在の三菱重工業長崎造船所に育っていく。
しかし小菅修船場は船舶の大型化によって業務を縮小せざるを得なかった。
第2次大戦中は軍用舟艇(小型船)の製造によって一時的に盛況期を迎えるものの、
戦後の1953(昭和28)年に閉鎖した。


いま修船場は三菱重工長崎造船所史料館の管理となり、
建設当初の姿をかなり残して保存されている。
ただ、船架は小型船用に改造され、ソロバン型よりかなり短くなった。
見学者は 「 なぜソロバンドックなのか 」 と、首をひねるそうである。


さて修船場建設の中心人物はその後どうなったか。
小松は志半ばの1870年、34歳で病没する。
一方、五代は明治政府の役人になって大阪・造幣寮の創立に尽力、
グラバーがそこに硬貨鋳造機を売り込む。
さらに実業家に転じた五代が造幣寮に硬貨の地金を納入して巨利を稼ぎ、
大阪財界の大立者に――。
修船場後日談は、こんな形で続くのである。





熊本県上天草市  ・  思わず見入ってしまう天草の 「 巨大猫 」

2012-04-14 20:22:59 | 日記 ・ イベント





















三角から一号橋を渡り、大矢野に向かっていると、
右手にピラミッドのような釣鐘島が見える。
そのあたりで 「 あれっ? 」 っと、一瞬目を疑いたくなるような光景が飛び込んで来る。
それを確認しようとUターンしてよく見ると、
思わず 「 うぉ~スゲェ~ 」って云うコトバが口を突いて出てしまう。
そのくらい大きくて、ユーモラスな 「 猫 」 であった。

ちなみにここは、 「 招き猫美術館 」 になっているらしいです。




桜の流曲 ( メロディ )

2012-04-13 17:30:54 | ニコニコ動画








 『 桜の流曲 ( メロディ ) 』



なつかしい温もりも
あたたかな笑顔も
あなたとの絆だと思っている

春風に揺れる花びらが
あたかも宴を祝うよう
薄桃色の花びらが
ひと吹きごとに舞い踊る










福岡県豊前市 ・ 近代土木遺産 「 黒土郵便局 」

2012-04-13 17:15:58 | 近代化産業遺産・土木遺産


















































今日、午前中に予約していた整体に行った帰りに
豊前市久路土にある 「 黒土郵便局 」 に立ち寄った。
以前から気になっていた建築物だったが、
わざわざ寄るのも面倒な気がして、今日まで延びてしまった。
それでもこうして画像を見ると 「 来て良かった 」 と思う。
ただ、動画の編集を失敗して消してしまったし、
今日は時間に余裕がなかったので、詳細について聞き取りが出来なかった。



第一尚氏王統 「 尚 巴志 ( しょうはし ) 」

2012-04-13 00:01:47 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







琉球の南山・中山・北山の三山統一を成し遂げ、
第一尚氏王統に就いた尚巴志。
写真がないので、アニメキャラのイメージだけでも感じてもらいたい。






「 テンペスト 」 第一尚氏ふたたび王位へ・・・

2012-04-12 22:36:17 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )





















NHKのBSプレミアムで放送されていた 「 テンペスト 」 が
総合番組で再放送される。

第一尚氏の出は、伊平屋島である。
伊平屋の島主・屋蔵大主 ( やぐらうふぬし ) が伊是名島を統治していたころ、
その子の佐銘川大主 ( さめがわうふぬし ) を伊是名島へ派遣し、
伊是名グスクを築かせた。

佐銘川大主は伊是名グスク城主として人々の信望も厚かったという。
ところが、ある凶年のとき食糧難にあえぐ島民のため、
万が一のために備蓄してあった城内の米を供出する。
ところが、その好意が仇となる。
配給された米だけで満足しない島民たちは、城内に保管されている米を強奪し、
佐銘川大主を殺害することを謀る。
このような陰謀を隣に住む老人より聞き入った大主は、
わずかばかりの食料を小舟に積んで島を脱出して国頭の浜に着き、
しばらく国頭の地に滞在していたが、ある晩、夢の中に老人があらわれて、
「 東海岸から南の方に行くと、屏風のような切り立った岩の下に北向きの浜がある。
そこに移住すると、きっと大業を成すことが出来るだろう 」 と告げた。

夢のお告げに従った大主は、国頭の地を後にして五日目に馬天の浜にたどり着いた。
そこに住み着いた大主は、縁あって大城按司眞武(大城グスク城主)の娘と結ばれ
一男一女をもうけた。
男の子は、後になって苗代の地に居住したので苗代大親(なわしろうふや)と呼ばれるようになり、
女の子は馬天ノロとなった。
苗代大親は、大城按司より東四間切のうち佐敷間切を与えられ、
佐敷按司 ( 第一尚氏の祖・尚 思紹 ) と称されるようになる。

佐敷按司となった苗代大親は、ここで美里の子 ( みさとのし ) の娘を妻としてめとり、
三男一女をもうけた。
その長男が、琉球王国三山統一を成した尚 巴志 ( しょうはし ) である。
尚 巴志が生まれたのは1372年だといわれている。
ちなみに尚 巴志は、初代の琉球国王である。

尚 思紹から続いた第一尚氏は7代目尚 徳で63年続いた王統が終わり、
第一尚氏から第二尚氏になり、尚 円 (金丸) から19代409年続いた第二尚氏王統も、
琉球処分で幕を閉じた。

このドラマは琉球処分前、第一尚氏の血をふたたび王位へと願う孫寧温と、
それにたどり着くまでの嵐のような琉球王府内を描いたのが 「 テンペスト 」 である。







福岡県福智町金田  ・  バツグンに旨い! 「 梅香園の中華丼 」

2012-04-11 10:57:52 | グルメ





















いきなりだが、福智町金田にある 「 梅香園 」 の中華丼は旨い!
本場、中国の方が料理をしているので美味しい。
この前は、中華丼だったが、今度は麺類を食べてみたいと思っている。

場所は福智町金田の敷島の信号機のある交差点の角にある。
ちなみにバツグンに美味しい中華丼は580円である。





沖縄県南城市玉城  「 尚 泰久王の墓と位牌 」

2012-04-11 10:30:21 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


















長男、安次富金橋の位牌と一緒にある尚 泰久の位牌





尚 泰久王 ( しょうたいきゅう ) は尚 巴志 ( しょうはし ) 王の七男で、
即位する前は沖縄市にある越来 ( ごえく ) グスクに居住し、越来王子と称されていた。
尚 巴志王の五男の尚 金福 ( しょうきんぷく ) 王の死去で、
尚 金福王の長男、尚 志魯 ( しょうしろ )と尚巴志の六男、尚 布里 ( しょうふり ) が王位を争い、
志魯は戦死し、布里は逓走した。
そのため、越来王子だった尚 泰久が王位を継ぐこととなった。

こうした身内の争乱と阿麻和利、護佐丸の乱などがあった所為か?
尚 泰久王は強く泰平を願っていた。
そのため、多くの寺を創建し、既存寺にも釣鐘二十三個を寄進した。
琉球王国歴代の王の中で最も多く寺を建立した王である。

尚泰久の墓は当初、首里池端の天山陵にあったが、
金丸のクーデターが起きて、家臣らが第一尚氏の各王の遺骨を持って、
読谷村伊良皆の森の中に隠した。
ここから尚泰久王の遺骨は、乳母の郷里である伊波村に移された。
そして明治41年ごろ、尚泰久王の長男、安次富金橋 ( あしとみかなはし ) の子孫の屋良家が、
安次富の墓の隣に移葬したという。




福岡県福智町  ・  平成筑豊鉄道 「 金田駅 」

2012-04-11 10:08:45 | 汽車・電車・駅・廃線路
































平成筑豊鉄道株式会社は 「 金田駅 」 にある。
本社が、直方でもなく、伊田でもなく、
行橋でもないというところが意外であった。

第3セクターで苦しい経営が続いているが、
地域住民には、なくてはならぬ路線だけに頑張ってもらいたい。
「 がんばれ!へいちく 」





熊本県天草市 「 佐伊津港三号防波堤灯台 」

2012-04-11 09:47:28 | 熊本の灯台











































佐伊津港三号防波堤灯台の初点は昭和42年11月20日で、塔形の赤色灯台である。
地上から頂部までの高さは8.32mで、平均水面から灯火までの高さが12.18mとなっている。
灯質は単閃赤光で毎3秒に1閃光となっている。
現用灯器は、LED灯器 ( Ⅰ型赤 ) である。

※ 佐伊津港三号防波堤灯台へのアクセスは、
   佐伊津港三号防波堤灯台は天草上島の本渡港から鬼池港に向かう途中にあり、
   港は国道324号線沿いにあるため分かりやすい灯台である。
   灯台へは港の左側から歩いて行くことが出来る。

( 熊本県天草市佐伊津 )



沖縄県伊是名島の『 桜の思い出 』

2012-04-10 15:44:07 | 沖縄






毎年この時季になると、決まってNHK北九州放送局で放送される企画がある。
それは、北九州放送局が視聴者の方にそれぞれの桜の思い出を募集して、
その中からいくつかの 「 桜の思い出 」 を映像をまじえて朗読する番組であるが、
そのほとんどが、 「 お涙ちょうだいの 」 亡くなられた方との桜にまつわる思い出である。

100人居れば、桜に対する100の思い出があり、
人それぞれの桜がある筈である。
ボクの桜の思い出は、亡くなられた方の思い出ではなく、
これからを生きる希望に満ちた思い出である。
それは沖縄県伊是名島での出発 ( たびだち ) の 「 もうひとつの桜 」 である。



 『 もうひとつの桜 』
                                           


 あれは五年前の三月の終りのことである。
沖縄県北部にある伊是名島にグスクの探訪に行った帰りのフェリーで、
沖縄本島へ向う人たちのなかに、見送り人と紙テープをつなぎ
手を振る女性の姿があった。

 お互いの想い出にひたる時間はアッという間に過ぎ、
岸壁から “ 先生 先生 ” を連呼する子どもたちの声をかき消すように
汽笛が鳴り、接岸していた船が少しずつ離れて行くと、
手に持っていた紙テープが切れて風になびき、
それに乗るようにフェリー待合所のスピーカーから森山直太朗の 『 さくら 』 が流れた。
その歌に今までこらえていたものが一気に解けたのか?
教師と思われる女性は “ ワーッ ” と泣き出してしまった。
その光景をデッキで見ていた僕も、思わずもらい泣きしてしまった。

 伊平屋・伊是名・渡嘉敷・座間味など、沖縄の小さな離島には小中学校しかなく、
中学校を卒業すると、ほとんどの生徒は進学や就職のため、
生まれ島を離れて行かなければならない。
それは、小さな島からの新たなる出発 ( たびだち ) である。
  
  「 人生は、桜の花びらのように白く淡くひるがえりながら、
    咲いては散り、散っては咲いて、出逢いと別れを繰り返す。 」
 
 二月に沖縄を賑わした緋寒桜も終りを告げ、
「 もう見ることもない 」 と思っていたが、
感動で心が震えるような 『 もうひとつの桜 』 に出逢えた時間 ( しゅんかん ) だった。






ソフトバンクの犬?

2012-04-10 15:29:15 | 日記 ・ イベント












日曜日に近所の花見に行ったら、
ソフトバンクのユニホームを着た犬がいたので写真を撮らせてもらった。
ソフトバンクファンのボクにとってはうれしいものであった。






探し物をしていたら出て来たモノは・・・

2012-04-10 15:12:39 | 日記 ・ イベント




















10年以上使っていない定期預金の通帳 ( 休眠口座 ) があるのを思い出して捜したが、どこにもない。
あれこれ引っ張り出して見ていると、通帳探しよりも懐かしさが先に立ってなかなか進まない。
そして通帳よりも、先日探していた喜如嘉で買った 「 芭蕉布 」 が出て来た。
通帳じゃなかったが、こちらも “ 探し物のひとつ ” だっただけに、見つかった時はウレシサ倍増であった。
他にも、構想用のスケッチブックやクマモンのグッズなどが袋の中から出て来たので、
「 おう!こんなとこにあったんか! 」 と、ひとつひとつ語りかけるように袋から出してやった。

今日は疲れたので探すのを止めたが、
明日も引き続き通帳探しをやらなければならないと思っている。