道路側にある路標と真玉橋の説明板
真玉橋について書かれた説明板
琉球王朝時代の真玉橋
橋側のアーチは一部に現在の石が使われている
橋の規模からすると意外と薄い輪石
橋の内部はきれいな曲線でつながれている
陸側のアーチは昔日の面影を醸し出す
城壁のような大きな石で組まれた橋脚
豊見城市側から現在の真玉橋を望む
道路沿いに移設復元された2つのアーチが並ぶ
所在地 / 沖縄県豊見城市真玉橋
架橋 / 1708年
石工 / 不明
長さ / 不明 幅 / 不明
拱矢 / 不明 径間 / 不明
環厚 / 不明 6連アーチ
真玉橋は国道329号線と県道11号線の交差する場所にあり、
現在の真玉橋は国場川にコンクリート製の橋で架かっているが、
昔の石橋は、豊見城市側の橋の袂に
2つのアーチ部分が移設復元されている。
橋のアーチを見ると橋台となる部分の石は
城壁のように大きな石が使われているが、
輪石は意外と薄い石が使用されている。
豊見城教育委員会によると真玉橋は、
1522年に首里と島尻地方を結ぶ交通の要として架けられたもので、
その橋は木橋の五連橋であった。
橋の中央を真玉橋といい、南側が世持橋、北側が世寄橋、
そして両端は名前のない橋であった。
1707年に木橋から石橋への改築工事が開始され翌年完成した。
その後、1837年に世寄橋を改築し、
その北側へ新たな世済橋を築き六連の石橋となった。
真玉橋は大きく美しい曲線をもつアーチを連ね、
水流から橋を守るために橋脚にはスーチリー ( 潮切り ) を設けるなどして、
構造的にも景観的にも沖縄独特の石造文化を代表する橋であったが、
1945年の沖縄戦によって破壊されている。
1996年に、戦後造られた橋の改修工事にともなう発掘調査によって
戦前の真玉橋が豊見城市側と那覇市側の双方で見つかり、
戦後半世紀を経て再び風格ある 「 真玉橋 」 が姿を現した。
この橋を後世のために保存しようと住民運動が展開された結果、
豊見城市側の一部を移設保存している。
「 重修真玉橋碑文 」 から
真玉橋は1522年 ( 嘉靖元年 ) に首里城ならびに
軍事的要衛である那覇港および那覇一帯を防御する
目的として第二尚氏第三代国王、尚 真によって架けられた橋です。
また、琉球王府時代には首里王府と南山 ( 島尻地方 ) とを結ぶ
交通の要所 ( 宿道 ) でもありました。
1707年に改築工事が開始され翌年には
木橋から石橋に架け替えられました。
1809年に大雨のために川が氾濫し、
世寄橋が破損したため仮の木橋を架けたが再び破壊されました。
その後、1836年に世寄橋を改築し、
その北側に新たなる橋の世済橋を築き工事は終了しました。
「 重修真玉橋碑文 」 は二度にわたる改修工事を記念して
1837年に建てられた碑で、
戦前までは橋の近くにありましたが、沖縄戦により破壊されました。
その残存資料は1995年3月に市有形文化財に指定され、
現在は豊見城市歴史民俗資料展示室に展示されている。
祖先の残した文化的偉業を偲び後世に伝えるため、
1978年地元真玉橋K自治会を中心に
「 重修真玉橋碑文復元期成会 」 が設置されました。
その後、多くの資料収集を行い1980年に
「 重修真玉橋碑文 」 が復元されています。
碑文は漢文で表面には二度にわたる改修工事が記され、
裏面にはその工事に費やした人夫、工銭等が記されています。
工事にかかわった人数は最初の工事で石工8918人、
人夫が35ヶ間切りから83676人、
二度目の工事は石工10258人で、
人夫78226人と多くの人々がかかわっています。
真玉橋へのアクセス
真玉橋へは、那覇市と豊見城市の境界を流れる国場川に架かる
現在の真玉橋の豊見城側にある。
駐車は、橋の袂の道路の広くなった場所に駐車した。