Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

深く流れる情感の意志

2008-05-12 | 
「折角、僕のモットーである美しい女性が居れば、他にはなにも要らないと思って、疲れる話は避けて、場をほぐそうと努力したんだけどね」

「堅いのをほぐせと言われても、できるものじゃないわ。ちょっと、考えてみるけど」

立て続け二晩のランデヴーは楽しかった。次回は何週かしてありそうだが、そのようなことは如何でも良い。こちらの年齢のゆえか、それとも相手のクールな人間性のゆえか、興味深い男女の緊張関係があって面白い。

それにしても、嘗てあまり知りあったことのないほど共通性が見つかる女性である。その分、どうしても批判したくもなり、その批判が同時に自己批判にも繋がる。あまり共通点が多い男女関係もつまらないが、その思考は理解し易く、当然のことながら差異にこそ関心が集中する。

彼女が八年間も高等教育を受けて地質学!から植物学、法学まで学んでいるので、面倒なことをしばしば話題にして顰蹙をかうこちらに引けを取らず、彼女の会話は、突然話題が硬くなる。なるほど、そうした女性のお相手をするのは血気盛んな学生か、学識経験者か、私のようなモットーを掲げる男だろうか。

流石に知識も豊富で、その上に興味旺盛で学習意欲は大変高く、一度こちらが何か言えば必ずや更に意欲を燃やしてくるような貪欲さがある。まさに当方の批判点は、そうした蠎のような方向の定まらない冷静な知識欲で、このBLOGにおけるプロテスタンティズム批判にも繋がる思考である。

つまり彼女の魅力である凛とした姿勢は、なかなか開かないカタツムリの殻のようなものに包まれている自我でもあるが、どうしてぎりぎりの所までの接近を試みようとすると防御壁のようにそれは固まっている。

批判点は、お互いが親近感を以って、語り懸けるときにその反照がしっかりとその柔らかい核を反映したものとなっているかどうかが、その対象がカタツムリの殻となると意味ある反照となって戻って来ないことにある。それならばどのような意志があっても、燃え盛る岩山の頂にはいっこうに到達できないジークフリートのようなものである。

その一つとして、精神と肉体の分離を理念としているとなると、どうしても各々の両面において完成した生にならないのみならず、情感を抑圧することにならないだろうか。

もう一つ面白い心象風景を絵画などのイメージから教えてくれた。それは、白い壁のようなものの前に一人立つと言うものである。白い障子のようなものを考えても良いだろうか。それは、未来であり、希望であることは分かるのだが、キルケゴールのように向うものは一体何なのだろうか?

そして、学習の可能性と動機付けされた意欲は、コインの裏表のように存在する重要な運動法則にも見えるが、そうしたものがどにように裏打ちされているかなど、興味がつきなく、同時にヴァルキューレの鎧の堅く身を包んだ隙間に見せるブリュンヒルデの意志を形成するようなその深く流れる情感のようなものがとても愛らしい。
コメント (3)
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