Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

工業成形される人生基盤

2008-05-15 | マスメディア批評
アルバン・ベルク四重奏団のお別れ世界ツアーの途上、フランクフルトで最後の演奏会が開かれたようだ。ヴィオラのココシュカ氏が死去してから、女性の弟子が入っていたが、間近の終焉は十分に予想出来た。

今回の演奏評でもピヒラー氏の冒険に満ちた演奏態度に触れられているが、ああしたトップを支えるのは、これまた亡くなった氏のような強烈な演奏態度が必要だったのに他ならない。

初期のLP録音の特に新ヴィーン学派の演奏は印象深いが、テレフンケンの独特の録音によるモーツァルトやシューベルト、ドボルジャークなども忘れがたい。その後、メンバー交代後に一般的に知られるEMIの録音へと続いていく。

EMIへの録音では、更に大コンサートホールで四重奏の夕べを大々的に開いていくこの四重奏団の過去のヨーロッパの伝統とは一線を隔した演奏実践が記録されている。その後の若手のアンサンブルが彼らに学んだものも大きいが、それ以上に弦楽四重奏を芸術的に大掛かりなものとしてしまった責任はこれらのコンセプトにある。

結局、そうした演奏形態は、決してその音楽の可能性を拡げた訳でもなく、大管弦楽団に起ったような、工業化されて規制化されたような平均率的な音を奏でて、恐らくそうした音楽の試みは六月にお別れコンサートの開かれる中国大陸の音楽生活などに引き継がれるのだろう。

個人的には、ザルツブルクのモーツァルテウムでの新旧ヴィーン学派の連続演奏会の印象が今後とも記憶として残るであろう。そこで見聞きしたものは、まさに後進の音楽家達が薫陶を受けた音楽作りであり、新聞評にはそれを称して、「結局、感覚的に且つ精神的な行程 ― つまり人類に重要な人生基盤の存在を伝えようとするもの ― の形成・形態」であったとしている。

要するに、彼らの音楽実践は、偶々弦楽四重奏と言う伝統的なジャンルにおいて、生まれ故郷の歴史文化に則って、つき詰めて表現した古典音楽と言うことになるだろうか。

そうした人生基盤が、近代工業技術と同じく、欧米以外で同じ意味を持つのかどうかの懐疑を、商業音楽活動の中でそれが特に盛んであった日本などへの演奏旅行で示していたに違いない。



参照:
Der weite Reise zum langen Abschied, Gerhard Rohde, FAZ vom 13.5.2008
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10
袋が香を薫ずる前に [ 文化一般 ] / 2005-07-14
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
コメント
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