Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

蜉蝣のような心情文化

2008-05-14 | 文学・思想
小林秀雄関連は興味のある人が多いようだ。私などこれについてとやかく言う筋の者ではないが、何度も書いているように、自ら氏の著書「モーツァルト」関連の書籍を集めていたのを全く忘れていた事が発覚して愕然としている。一体、どうした経過だったのだろうか?

今回、その文庫本から「モーツァルト」・「表現について」・「ヴァイオリニスト」・「バッハ」・「蓄音機」・「ペレアスとメリザント」・「バイロイトにて」を流し読んで、日本におけるその影響力の大きさを改めて考えている。

好悪はハッキリとしているのだが、何故それがいまだに影響力を持っているかの方が重要な問題のような気がする。

幾つか、他の当時の日本社会との対決もしくは提示として、興味ある記載を見つけた。その箇所を挙げると、メニューヒンの来日とその演奏会訪問印象記に兼常清佐のピアニスト不要論に言及している箇所と、五味康祐の毎月の雑誌への「(オーディオ)気違いの寝言」という部分であろうか。

それらの部分において、ジャーナリスティックな扱いを徹底的に避けて、前者ではそれの口実として該当の事件に言及することで係わりあいを「サンボリック」に暗示していて、後者ではハイフィデリティーを「気違い」の言動に上手く語らせることで事なきを得ている。

全体を通して、この高名な文化人がこれらの簡単な書きものをどこに残したのかはわからないが、それらのレトリックは、日本の大衆新聞の文化欄にあるような、典型的な翻訳文化ジャーナリズムやアカデミズムのようで、それらの衣装を引き剥がして行った時に残る蜉蝣のようなみすぼらしいオリジナリティーを影絵のように浮かび上がらせるためにこそ存在しているように思える。

一体、そうした障子に映る空ろな影に、その心情を映し出すような文化の本質は何処にあるのだろう?



参照:
自己確立無き利己主義 [ 歴史・時事 ] / 2008-04-28
女子供文化の先祖帰り [ 文化一般 ] / 2008-04-20
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