Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

反照の音楽ジャーナリズム

2012-02-27 | 
室内クライミングを終えて駅前のビアホールで食事をした。そこで、相棒が一週間の過ごし方として、クライミング、ランニング、タンゴ、ギターに加えて、癒しのために態々カールスルーヘまで通っていることを知って驚いた。

課題は真実の追求で、エゴを取り去ってと言うことなので、瞑想かと聞くとそれ以上だと答える。そこで、五年前ほどに取り上げた脳神経学者の話しをした。子供離れのためにクライミングをはじめたクリストフ・コッホ教授のことなのだが、紹介がてらに読み返してみると、厳格なカトリックの生い立ちなどの共通項をなんとなく想像させた。

一般的な日本人にとってはエゴを意識することの方がエゴから開放されるよりも先に解決しなければいけないのだが、カトリック社会の者にとっては、プロテスタント社会でのエゴとの葛藤・克己以上に、それは厄介なものなのかもしれない。

オーストリアの交響作家アントン・ブルックナーの最新の合衆国からの論文は、そうした19世紀終わりのヴィーンの社会環境からそうした文化的な背景を具体的に解析することで、その交響作品を読み取っているようである。

つまり当時の世紀末の環境とは、ホフマンスタール、ヨハン・シュトラウスらがシュニッツラー、クリムト、フロイト、ゼッセッションを含むモダーンの実験へと対峙しており、カルナップからヴィットゲンシュタインまで割拠した環境を指す。

こうした社会背景の中で音楽芸術の論壇を捉えるとシューマンの流れを汲んだ「反照の哲学のエリートのジャーナリズム」と、民主的に社会的に解放された社会層に啓蒙によって「自己の判断を齎すジャーナリズム」が存在した。

そうした枠組みの中で、音楽愛好家にも有名なハンスリックを筆頭とするグスタフ・デムーケら一派の反ヴァーグナーと、新古典主義のブラームスを叩く一派が対峙したことになる。

しかし現実にはブラームスもヴァーグナーも実際は同じ社会層に含まれていて、双方とも同じようにベートーヴェンの交響文化を継承しようとしたことには間違いなく、自由な市民社会の中で危うい対極化を示していたに過ぎないとする認識が表明される。

つまり、それは自由主義とそれに反対する陣営の中で生じたのではなく、その市民社会の中で生じた対極化であって、寧ろ、ドイツ的なプロテンスタティズムとハプスブルクのカトリズムの社会の中での現象とすることが出来る。

そこには、自由主義のスローガンとしての理性と啓蒙思想後の「資本主義の目的合理性」とマックス・ヴェーバーが呼んだ理性があり、一方にはそこで非合理的と考えられる危険な構造が、対峙することになるのである。

これで合点が行くように、正しくブルックナーの交響曲こそは非合理的で危険ですらあるからこそ、健全な市民社会への注意喚起がなされたと看做される。例えばその創作の中では最も理に適い無駄のない生前は唯一の成功作品であった第七番の交響曲の第二楽章にもその危険性を観る。

第二楽章のアダージョは、創作時期意図から楽匠リヒャルト・ヴァーグナーの逝去と重ねられるが、第二主題の提示へとの移行に於けるヴァーグナーチューバとホルンの不協和音の無重力な流れに ― 「酔っ払い」とデームケに処される ―、ハプスブルクの絶対性から浮遊して中世の神秘主義へのつまりヴァーグナーの狂気が自意識の非合理として捉えられる。それはハプスブルクの治世を軽視するばかりか、市民社会を危険に陥れると言うのだ。

勿論そうした経過の動きへは伏線が張られていて、また同様な例は他の交響曲に頻出してブルックナー愛好家には馴染みな現象であるかもしれないが、少なくとも対位法の教授の創作として、またその展開から、ブルックナーは無政府主義者であるとするのには異論がないだろう。

それゆえに、必ずしも美学的な視点からでなく、同時代の不愉快なフロイトの深層心理の分析への恐れが、オーストリアのブルジョア層や音楽批評のアイデンティティーに関する議論として、そこに投影されたのだとするのである。

それどころか、そうした背景にある危険性こそが、現在においてもアングロ・サクソンの文化圏ではグスタフ・マーラーの交響作品に比較して、全く受け入れられていないブルックナーの交響世界にあるされる。

相棒のスポーツ医が早速メール受け取りの礼を返してきた。注意欠陥・多動性障害ADHS気味の人格であるだけに、それはそれなりに苦労があるのだろう。ドイツ語圏文化の少なくともルネッサンス以降の発展には、こうした躁鬱的な対極性と対極化による議論の発展が重要な役目を果たしたことは間違いなく、そうしたエゴと社会の関係から環境意識へとジャーナリズムとしての議論が止揚される。



参照:
Mit Dissonanz die Position des Kaisers unterminimiert?, Klaus Peter Richter, FAZ vom 15.2.2012
記憶にも存在しない未知 2007-05-27 | 文化一般
緑の趣味の原風景 2012-02-24 | アウトドーア・環境
復古調の嘆き節の野暮ったさ 2010-03-30 | 文化一般
ボルシェヴィストの鼻を折る 2009-08-12 | 文化一般
我が言葉を聞き給え 2007-02-09 | 音
生への懐疑の反照 2005-11-15 | 雑感
御奉仕が座右の銘の女 2005-07-26 | 女
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