年末年始にIWJで現代史教育的なインタヴューが多く再配信されていた。その一部を観たが、学術的な見識をもつ研究者によって、科学的に語られる優れた内容であった。その内容の一つが、重慶爆撃の軍事的な意味合いと、その歴史的な意味合いの掲示が含まれていた。そして国民党の対日帝防衛の意味が、重慶の町でも知られるようになっている現状について、とても興味をもった。そしてそれについても調べてみた。
後述の新聞記事にも言及されているのだが、重慶などはその典型で、既に近代化と工業化が始まっていたことから、工場なども花崗岩の要塞の中に隠されたというのである。そうして「国民党が日本軍の攻撃からシナを護った」ことと、「日本の侵略によって近代化が遅れた」とする、今でも日本の「亜細亜解放論」が主張するような満州などとはまた違った状況をも日本人は認識しておく必要がある。そして、その後の反共への戦いは、重慶の白公館の展示にみられるような米国と国民党との協調作業となるのである。蛇足ながらそうした防空壕施設は文革後の冷戦時の米の核攻撃にも備えられたという近代史を付け加えておこう。
同じような展示内容が、北京の抵抗博物館でも紹介されていると、フランクフルターアルゲマイネのジーモンス氏は現地盧溝橋から伝えている。そこでは、もはや反日の内容よりも、2005年当時の現在の近代化のなかでの繁栄と世界的地位を築いた共産党のそれだけではなく、市民の日帝への抵抗運動と共に国民党のそれが展示されているのである。そこでは、小平と天皇の並んだ写真と共に、責任は日本人そのものではなくて日帝と国粋主義者にあるとされて、とても友好的な展示内容となっているというのである。
大日本帝国は、侵略に際して、シナに居る「邦人の保護と財産の保全」を理由として、遠征の口実としている。これは、まさに今安倍政権などが主張している海外の日本の権益を守るための自衛隊もしくは防衛軍の派遣と同じ口実であることを、少なくとも日本人は歴史教養として肝に銘じておかなければいけないのである。
中共の西洋的で合理的な認識には、そこではシナは第二次世界大戦で軍事債を受け持った英国、ソヴィエト、米国と並ぶ連合国の四強国として位置づけられていて、何度も繰り返すように二十世紀からシナの台頭があったとする史観であると同時に、戦後の冷戦構造をも通して国際秩序を担ってきた戦勝の大国であったという理解である。
この二つの情報で大変打ちのめされた気持ちになった。中共が、19世紀の列強の圧力の被害妄想から抜け出て、国民党までを評価するような堂々とした大国面を構えるようになるとすれば、FAZが書くように大国中国には歯が立たないために、修正主義に溺れる日本人の日本では、最早国際的な評価は全く入れ替わってしまうのである。
なるほど、私が知っているような文化革命時代の中国人ではなくて膨大な数の中国の若者が世界中で学んでいることを考えれば、日本人の知能や教育では全く文化的に話にならないことは一目歴然としている。既に四十歳を過ぎようとしている海外に滞在するような日本人が、BBCが伝えるように正しい世界史や現代史を学んでいないことから、シナ事変ですら侵略戦争であることを否定しようとするのを見かけたことがあるからである。こうなれば、嘗て私が知っていた文革世代のシナ人よりも日本人の教養の程度が低いことになる。
即ち、個人個人の日本人と言うのではなくて、現代の日本人とシナ人を比較すると、明らかに後者の方が世界的に通じるエリート層が割拠していて、前者は殆ど北朝鮮の連中と程度が変わらないと見做すしかないのである。なるほど、ある程度の年齢の日本人にも同じような人間はいなくはなかったが、少なくとも戦前のそれをまたは敗戦を経験している明仁天皇や三島由紀夫のような世代には、立派な近代的な知性を持ち合わせていた人たちは少なくなかった。しかし、現在も人種差別的な発言を繰り返すフクシマ禍以降有名になった武田邦彦などの世代にも代表されるようにとんでもないコムプレックスのようなものが蔓延っていて、敗戦の事実を見つめようとしない修正主義的な考え方が浸透している場合も少なくないようである。
そうした日本人白痴化の現象は、靖国や護国神社などの意味合いも分からずに、「英霊への哀悼」などと、狂人的な国家神道思想を宗教的に曲解している無知な人々にも良く表れていて、同様な現象は「非武装中立の玉砕思想」と対をなして戦前・戦後から形を変えながら脈々と受け継がれてきているものなのだろう。しかし、そうした一億総白痴化が学校教育などに引き継がれて、現在の日本人の全体像を世界に晒すことになっているのである。
「アホノミクス」の浜矩子女史などは余程の楽観主義者なのか、人材だけはそこそこいると期待するが、シナのそれとは比較などはできない。それが文化芸術学術的な面において、十九世紀の植民地主義から本当の意味で解放されそれを克服するとき、その合理的な思想がドミノ倒しのように押し寄せるとなると、最早日本などの小国の出る幕ではないのである。彼女が言うように、小さな島国はそれ相応に可愛らしく振る舞うことで、明治維新の時にも議論されたような小国としての生き方が可能とがなるに違いないのである。現在の日本人には、虚勢を張って束になって自国の国威発揚などと古臭い国家主義を振り回したい、シナ人よりも時代遅れの無教養層が増加しているようで本当に情けないことである。
参照:
Eine Reihe offener Rechnungen, Mark Siemons, FAZ vom 6.1.2014
二人の阿保のミックス 2014-01-06 | マスメディア批評
上から目線でしょうか? 2013-12-04 | マスメディア批評
日本無力化への道程 2013-11-30 | 歴史・時事
普通の日本人たちの責任 2013-05-20 | 歴史・時事
稚拙な権力者と外交戦略 2013-01-29 | 歴史・時事
後述の新聞記事にも言及されているのだが、重慶などはその典型で、既に近代化と工業化が始まっていたことから、工場なども花崗岩の要塞の中に隠されたというのである。そうして「国民党が日本軍の攻撃からシナを護った」ことと、「日本の侵略によって近代化が遅れた」とする、今でも日本の「亜細亜解放論」が主張するような満州などとはまた違った状況をも日本人は認識しておく必要がある。そして、その後の反共への戦いは、重慶の白公館の展示にみられるような米国と国民党との協調作業となるのである。蛇足ながらそうした防空壕施設は文革後の冷戦時の米の核攻撃にも備えられたという近代史を付け加えておこう。
同じような展示内容が、北京の抵抗博物館でも紹介されていると、フランクフルターアルゲマイネのジーモンス氏は現地盧溝橋から伝えている。そこでは、もはや反日の内容よりも、2005年当時の現在の近代化のなかでの繁栄と世界的地位を築いた共産党のそれだけではなく、市民の日帝への抵抗運動と共に国民党のそれが展示されているのである。そこでは、小平と天皇の並んだ写真と共に、責任は日本人そのものではなくて日帝と国粋主義者にあるとされて、とても友好的な展示内容となっているというのである。
大日本帝国は、侵略に際して、シナに居る「邦人の保護と財産の保全」を理由として、遠征の口実としている。これは、まさに今安倍政権などが主張している海外の日本の権益を守るための自衛隊もしくは防衛軍の派遣と同じ口実であることを、少なくとも日本人は歴史教養として肝に銘じておかなければいけないのである。
中共の西洋的で合理的な認識には、そこではシナは第二次世界大戦で軍事債を受け持った英国、ソヴィエト、米国と並ぶ連合国の四強国として位置づけられていて、何度も繰り返すように二十世紀からシナの台頭があったとする史観であると同時に、戦後の冷戦構造をも通して国際秩序を担ってきた戦勝の大国であったという理解である。
この二つの情報で大変打ちのめされた気持ちになった。中共が、19世紀の列強の圧力の被害妄想から抜け出て、国民党までを評価するような堂々とした大国面を構えるようになるとすれば、FAZが書くように大国中国には歯が立たないために、修正主義に溺れる日本人の日本では、最早国際的な評価は全く入れ替わってしまうのである。
なるほど、私が知っているような文化革命時代の中国人ではなくて膨大な数の中国の若者が世界中で学んでいることを考えれば、日本人の知能や教育では全く文化的に話にならないことは一目歴然としている。既に四十歳を過ぎようとしている海外に滞在するような日本人が、BBCが伝えるように正しい世界史や現代史を学んでいないことから、シナ事変ですら侵略戦争であることを否定しようとするのを見かけたことがあるからである。こうなれば、嘗て私が知っていた文革世代のシナ人よりも日本人の教養の程度が低いことになる。
即ち、個人個人の日本人と言うのではなくて、現代の日本人とシナ人を比較すると、明らかに後者の方が世界的に通じるエリート層が割拠していて、前者は殆ど北朝鮮の連中と程度が変わらないと見做すしかないのである。なるほど、ある程度の年齢の日本人にも同じような人間はいなくはなかったが、少なくとも戦前のそれをまたは敗戦を経験している明仁天皇や三島由紀夫のような世代には、立派な近代的な知性を持ち合わせていた人たちは少なくなかった。しかし、現在も人種差別的な発言を繰り返すフクシマ禍以降有名になった武田邦彦などの世代にも代表されるようにとんでもないコムプレックスのようなものが蔓延っていて、敗戦の事実を見つめようとしない修正主義的な考え方が浸透している場合も少なくないようである。
そうした日本人白痴化の現象は、靖国や護国神社などの意味合いも分からずに、「英霊への哀悼」などと、狂人的な国家神道思想を宗教的に曲解している無知な人々にも良く表れていて、同様な現象は「非武装中立の玉砕思想」と対をなして戦前・戦後から形を変えながら脈々と受け継がれてきているものなのだろう。しかし、そうした一億総白痴化が学校教育などに引き継がれて、現在の日本人の全体像を世界に晒すことになっているのである。
「アホノミクス」の浜矩子女史などは余程の楽観主義者なのか、人材だけはそこそこいると期待するが、シナのそれとは比較などはできない。それが文化芸術学術的な面において、十九世紀の植民地主義から本当の意味で解放されそれを克服するとき、その合理的な思想がドミノ倒しのように押し寄せるとなると、最早日本などの小国の出る幕ではないのである。彼女が言うように、小さな島国はそれ相応に可愛らしく振る舞うことで、明治維新の時にも議論されたような小国としての生き方が可能とがなるに違いないのである。現在の日本人には、虚勢を張って束になって自国の国威発揚などと古臭い国家主義を振り回したい、シナ人よりも時代遅れの無教養層が増加しているようで本当に情けないことである。
参照:
Eine Reihe offener Rechnungen, Mark Siemons, FAZ vom 6.1.2014
二人の阿保のミックス 2014-01-06 | マスメディア批評
上から目線でしょうか? 2013-12-04 | マスメディア批評
日本無力化への道程 2013-11-30 | 歴史・時事
普通の日本人たちの責任 2013-05-20 | 歴史・時事
稚拙な権力者と外交戦略 2013-01-29 | 歴史・時事