Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ドグマに至らない賢明さ

2014-01-21 | 文化一般
東京都知事候補宇都宮健児から反原発市民団体が細川陣営へと流れている様で、その一本化交渉も座礁に乗り上げているという。日本共産党の党大会の報告は比較的詳しくフランクフルターアルゲマイネ新聞で掲載されていたが、コミニズムのドグマから脱却できていない限り、共産党の推薦を得ている宇都宮陣営は一本化への道を歩まないに違いない。なるほど氏の言明は筋が通っているが、本人は共産主義者でなくともその主張を一点も揺るがさない限りドグマと呼ばれても仕方ないであろう。丸山真男の共産党批判のようなものが未だに有効なのは脱構造の時代に全く理解に苦しむものである。FAZ新聞は、共産党大会の結果を踏まえてそこに一点の希望を持たせていたがさてどうなることだろう。

ユーロコミニズムの一角にあった指揮者クラウディオ・アバドが亡くなった。夕方のラディオの討論番組はシュライバー氏など評論家に加えてベルリンのコントラバス奏者を交えて追悼番組としていた。興味深かったのはミラノの緑化運動に関してで、そのことは知らなかったが、現在もその延長で緑のビルなどが話題になるのはとても面白い。

昨年末のバーデン・バーデンでのコンサートも券が余っていたにも関わらず出かけ無かったが、それを後悔していない。プログラム変更で詐欺行為で苦情を本人にしようと思った二年前のルツェルン音楽祭のエグモントのそれが全てであった。あのような演奏実践はもう二度と体験できないと感じた。全く異なる次元での音楽表現であったのだ。ヴィーンの楽友教会での「グレの歌」も懐かしいが、やはりスカラ座の東京公演での「シモン・ボッカネグラ」がとても貴重な経験であった。このようなヴェルディ―のオペラ体験は二度とできないと思われる。

番組でもこれらの作業は彼一人の業績ではなく、今後とも最も重要な功績として後世に伝えられるであろうルイージ・ノーノの演奏実践も作曲家だけでなく芸術監督やポリーニなどの演奏家共々の協調作業によって初めて為されたものであるという確認が話された。我々を含めて皆が楽員から聞くように、とても評判の良い親仁タイプの人物像であったが、ルツェルンのそれは一度失敗をすれば二度とお呼びがかからないようなとてもとても厳しいビジネスライクの集まりであって、斎藤記念の同窓会とは全く異なったプレッシャーの中での同志の集合であったというのである。

そうした厳しさは、残されたオペラ録音などにも表れているが、レコード会社との確執は強く、金は要らないから思うようにやらせて呉れというものであったようだ。そのような厳しさは音響の設定にも表れているのはロンドンやミラノでのとてもデットな音響に如実に表れている。それに相当するような演奏がルツェルンのそれであったのだ。

ロッシーニ・ルネッサンスにしても、ヴェルディのそれにしても、クラッシックラディオのようなものなら自分の名前を使わないで置いて呉れというような芸術への厳しい姿勢と商業主義への強い抵抗は貫かれたようである。そうした主義主張が東京や北京でのルツェルンの管弦楽団との演奏旅行に繋がっている様で、そこにはユーロコミニズムのイデオロギーが感じられる。と同時にドグマとまではならない賢明さがあったのだ。

その厳しさは、自分の描いたハーモニーが出せないことで、指揮を下りるとかの行動に繋がっているとされて、特に晩年は興行師泣かせだったに違いない。その意味からも、もはや自分の思うままに管弦楽団を作るような時代ではなく、集中したプローベで其の域に達することが出来るかが問われていたわけで、発病後の行動がもともと本人の求めていた活動であったことも理解できる。



参照:
Die Stille nach der Musik (SWR2 Forum)
Der scharfe Rundblick eines Leuchtturmwächters, Gerhard Koch, FAZ vom 21.1.2014
すべては金で動くのか? 2014-01-20 | 雑感
時代錯誤への対抗軸 2014-01-15 | 歴史・時事
少しでも良いように変える 2013-12-29 | アウトドーア・環境
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
コメント (4)
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