(承前)「サロメ」のアンティセミティズムをどのように評価するか?これはこの楽劇を知った最初の子供の時からの課題でもあった。その後実際に最初の欧州旅行でユースホステルでユダヤ人と一緒になって、その意味するところも実感した。なによりもイスラエルから来たユダヤ人とパリのユダヤ人が共通の母国語でなくても直ぐに意気投合してしまう情景を見て、またユダヤ人同士の議論を聞かされたからだ。五人ぐらいだと思う、喧しく盛んにやっていた。
新制作「サロメ」のプログラムに演出家のヴァリコスキーへのインタヴューが載っている。そこにもこの問題が扱われていて、要約すると時代の変遷となるだろうか?当時の欧州の感覚とすれば日常茶飯事のユダヤ人弄りであって、20世紀初頭における前世紀から引き継がれた関心がそこに流れているのみであって、それ以上のものではない。実際にその後にもアルバン・ベルクの「ルル」や若しくはオペラの原作となった「ヴォイツェック」には色濃くステレオタイプのユダヤ人が描かれている。
カトリック出身のポーランド人であるヴァリコフスキーの演出の成果である。最初は上演禁止にもなりながら、世界のオペラ劇場で最も人気のあるレパートリーとして定着したこの楽劇の上演においてもはや誰も気にしないようになっている事への関心を想起して、当時とは異なる現在の感覚からすれば明らかに不思議な感じに再びさせた事を指す。現在ならばそうした嘲笑がその後の歴史の端緒となっていたとか後付けで講釈を述べれる、若しくは劇場作品にありがちなただの設定でしかないステレオタイプな文化的な記号とも位置付けられる事である。しかし、最近の特に音楽劇場における演出の趨勢をそこに見るならば、創作された時代を環境を舞台とすることで新たな今日からの視線をそこに張るという方法がここでも採られる。
それならば作曲年代その数年先のオスカー・ワイルドの原作のそれが舞台になる筈だ。しかしここでは設定が1940年代となっている。演出家はヘロデ王の僅かしか聖書に書かれていない家庭劇の舞台をポーランドのゲットーにおける「劇中劇」とすることで、今日からの繋がりをそこに求め、舞台で演じる歌手たちの助けとした。
そこには色々な記号が散りばめられており、多くの人がこともあろうにジャーナリストとされるプレス資料に一通り目を通した人たちにまで、この演出を不可解なこととして評価を疎かにした。憶測すれば敢えてそこを論じることを止めている。一般的な独ジャーナリズムの特に左派ジャーナリズムの手法となっている。逆説的ながら初日も三日目も鋭く間髪を入れずブーイングを入れた人は恐らくそれよりはもう少し演出意図を理解していたかもしれない。要するにエンタメとして定着しているこの出し物をもう一度今日に繋がる影響ある音楽劇場作品として上演されるような意図を演出家は語っている。
そして実際には、初日前に出された写真に示唆されていた。その第一景のつまりゲットー内で「手癖の悪いユダヤ人の強奪を嘲笑する」自虐的な寸劇がなされ、マーラーの「亡き子の歌 ― またこの録音が戦後1946年の録音であったのも隠し味となっている」が流される情景の背景の書架に印象させたバイロイト音楽祭の現行の「マイスタージンガー」への観念連想だった。偶然ではなくマガジンでその演出家バリーコスキーとの二人のインタヴューが載っているのは傍証となろうか ― このマガジンはネットからもDL可能である。ユダヤ系オーストラリア人とクシュトフ・ヴァリコスキーとまた名前がそっくりだ。それだけで十分だった。あの恥じたらしな「マイスタージンガー」を知っている者ならばこれがそのものポーランド批判にもなっていることは直感的に気がついた筈だ。そして、バイロイトで私なら精一杯ブーイングをしていたのだが、そこではなくミュンヘンでブーイングが起こった不思議。
その不可思議こそが、今回の演出の最大の効果であって、まさしくヴァリコフスキーが語るように、一体どのような面をしてヴィーンでもどこでもこの作品が戦後直ぐに上演されるようになったかについての嫌疑される状況が続いていることへのアンチテーゼとしての演出となっていた。それが初日に起こった聴衆の戸惑いの一部でもあったが、同時にその音楽的な歴史の流れをそこに我々は見ていくことになる。
バリーコスキーを受け入れる素地の方がまだ団塊の世代を中心に大きいのかもしれないが、時代精神としては明らかにヴァリコスキーの方が今日的で、予想以上にバッハラー体制が可成りリベラルだったことを思い起こすきっかけになった。バリコスキーの演出は受け入れられても、ヴァリコスキーの演出を受け入れられなかった人は一体どうした層に属するのかは明らかだろう。(続く)
参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般
新制作「サロメ」のプログラムに演出家のヴァリコスキーへのインタヴューが載っている。そこにもこの問題が扱われていて、要約すると時代の変遷となるだろうか?当時の欧州の感覚とすれば日常茶飯事のユダヤ人弄りであって、20世紀初頭における前世紀から引き継がれた関心がそこに流れているのみであって、それ以上のものではない。実際にその後にもアルバン・ベルクの「ルル」や若しくはオペラの原作となった「ヴォイツェック」には色濃くステレオタイプのユダヤ人が描かれている。
カトリック出身のポーランド人であるヴァリコフスキーの演出の成果である。最初は上演禁止にもなりながら、世界のオペラ劇場で最も人気のあるレパートリーとして定着したこの楽劇の上演においてもはや誰も気にしないようになっている事への関心を想起して、当時とは異なる現在の感覚からすれば明らかに不思議な感じに再びさせた事を指す。現在ならばそうした嘲笑がその後の歴史の端緒となっていたとか後付けで講釈を述べれる、若しくは劇場作品にありがちなただの設定でしかないステレオタイプな文化的な記号とも位置付けられる事である。しかし、最近の特に音楽劇場における演出の趨勢をそこに見るならば、創作された時代を環境を舞台とすることで新たな今日からの視線をそこに張るという方法がここでも採られる。
それならば作曲年代その数年先のオスカー・ワイルドの原作のそれが舞台になる筈だ。しかしここでは設定が1940年代となっている。演出家はヘロデ王の僅かしか聖書に書かれていない家庭劇の舞台をポーランドのゲットーにおける「劇中劇」とすることで、今日からの繋がりをそこに求め、舞台で演じる歌手たちの助けとした。
そこには色々な記号が散りばめられており、多くの人がこともあろうにジャーナリストとされるプレス資料に一通り目を通した人たちにまで、この演出を不可解なこととして評価を疎かにした。憶測すれば敢えてそこを論じることを止めている。一般的な独ジャーナリズムの特に左派ジャーナリズムの手法となっている。逆説的ながら初日も三日目も鋭く間髪を入れずブーイングを入れた人は恐らくそれよりはもう少し演出意図を理解していたかもしれない。要するにエンタメとして定着しているこの出し物をもう一度今日に繋がる影響ある音楽劇場作品として上演されるような意図を演出家は語っている。
そして実際には、初日前に出された写真に示唆されていた。その第一景のつまりゲットー内で「手癖の悪いユダヤ人の強奪を嘲笑する」自虐的な寸劇がなされ、マーラーの「亡き子の歌 ― またこの録音が戦後1946年の録音であったのも隠し味となっている」が流される情景の背景の書架に印象させたバイロイト音楽祭の現行の「マイスタージンガー」への観念連想だった。偶然ではなくマガジンでその演出家バリーコスキーとの二人のインタヴューが載っているのは傍証となろうか ― このマガジンはネットからもDL可能である。ユダヤ系オーストラリア人とクシュトフ・ヴァリコスキーとまた名前がそっくりだ。それだけで十分だった。あの恥じたらしな「マイスタージンガー」を知っている者ならばこれがそのものポーランド批判にもなっていることは直感的に気がついた筈だ。そして、バイロイトで私なら精一杯ブーイングをしていたのだが、そこではなくミュンヘンでブーイングが起こった不思議。
その不可思議こそが、今回の演出の最大の効果であって、まさしくヴァリコフスキーが語るように、一体どのような面をしてヴィーンでもどこでもこの作品が戦後直ぐに上演されるようになったかについての嫌疑される状況が続いていることへのアンチテーゼとしての演出となっていた。それが初日に起こった聴衆の戸惑いの一部でもあったが、同時にその音楽的な歴史の流れをそこに我々は見ていくことになる。
バリーコスキーを受け入れる素地の方がまだ団塊の世代を中心に大きいのかもしれないが、時代精神としては明らかにヴァリコスキーの方が今日的で、予想以上にバッハラー体制が可成りリベラルだったことを思い起こすきっかけになった。バリコスキーの演出は受け入れられても、ヴァリコスキーの演出を受け入れられなかった人は一体どうした層に属するのかは明らかだろう。(続く)
参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
意地悪ラビと間抜けドイツ人 2017-07-27 | 文化一般