Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

TVドラマのような視点

2019-07-24 | 文化一般
来年の「フィデリオ」新演出に関心を持ちだした。先日のバーデンバーデンからの冊子に演出に関して言及してあったからで、未知の演出家マテヤ・コルゼニックが気になる。このザルツブルクでもゴーリキ作「夏の客人たち」を演出することになっていたが五月頃に辞退した。理由は分からないが表向きは56歳のスロヴァキア女性の健康上の理由となっている。本当に健康の問題ならば気になるが、しかし月末に他所でシュニッツラー作「孤独な道」が再演されているようでもある。結構面倒なおばさんではないかとも思う。

彼女のホームページからそれらの演出のトレーラーを見ると可成りいい。何よりも気が付くのは人と人の間に強い緊張感や関係性が舞台で築かれることである。そして映像感覚が嘗ての丁度彼女が慣れ親しんだヴァルシャワパケットの中での映画やTVドラマ風の色合いを作っている。それによって生じる効果は我々の知るアメリカの影響を受けたその画面とは違う。SECAMで映された東側の室内の調度の雰囲気とか色合いである。シックと言うよりもくすんだ感じが何を表現するのか?

それを「フィデリオ」のそれも冊子にあったブルーの背景に収めて見ると、やはり独特の緊張感がそこに生じる。例えばフィデリオとヤキーノの関係から一寸家庭劇みたいな延長でそれが描かれることになろう。現行のミュンヘンの「オテロ」におけるもう少し心理描写的なものよりも明らかにTVカメラが撮っているような視点もそこに存在するかもしれない。

また彼女の演出の特徴は、長い作品でも凝縮して切り取ってしまうことのようだ。その割には、「オテロ」のニールマイヤ演出のような場の気分をあまり感じない。寧ろ登場人物の発する場を感じる。オペラ初演出でとても気になっているところが歌を歌う身体の向きとか動かしかたであるが、そのこと自体が彼女の演出の核にあるようだ。つまり、声楽上の技術的なアドヴァイスを受ければ形を作れるのかもしれない。しかしどう見てもその佇まい自体がTVドラマ的で、広いオペラ舞台ではどのようになるのか。

ここまで演出を想定して、キャスティングのマルリス・ペータセンを思い浮かべると、更にバーデン・バーデンの奈落と舞台の関係そしてあの音響を想い描くと、可成りインティームな「フィデリオ」になるのではなかろうか。それはそれでフィルハーモニカーには小さい音で大劇場に通る音が要求されるだろう。

こうして考えていくと、キリル・ペトレンコの演出への指向も分かると同時に、その音楽性との関係も明らかになってくる。当然のことながらそこまで音を絞るとダイナミックスレンジが巨大になって、一体どのようなレオノーレ序曲が演奏されるのだろうかと思う。やはり三幕での三番になるのだろうか?思い描くだけで、鳥肌が立ちそうで、ぞくぞくしてする。



参照:
すっきり気持ちの良い夏 2019-07-18 | 生活
「キリルと高度に一致」 2019-02-05 | 文化一般

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする