最近人に指摘を受けるまでも無く、おかしな喋り方をしているのではないかと気がついてきた。謂わば、本来日本語のアクセントや訛り方を例えばドイツ語において引き摺っているのは当然なのだが、それがどのような形で一種の訛りとして形成されていくのか、常に関心をもっていた事なのである。
特に、ハンブルクなどの高地ドイツ標準語地域で生活していれば違うのだろうが、高地である南ドイツからスイス・オーストリアへと掛かる地域の文化的影響も強く、さらに最近はこてこての方言の中でしか生活していないような按配だから、電話などで書き言葉を聞くとどきっとする事がある。
TVも殆どみなくなった事から車の中のラジオ放送が主となるが、そこでもシュヴェビィッシュからアルマン方言が飛び交う。ヘッセンの放送などはやはり異なるなと感じるようになって来ており、ザクセンに電話すると身近にいる者の顔を浮かべてそれはそれでなかなかなだなと感心する。
今年死去した親戚の日系二世の話し方を思い出す。最初に会った時がもう三十年近く前になるから還暦を過ぎていたがまだ現役で若かった。それでもかなりゆっくりとした喋り方であって、そのバイリンガルであった日本語力と英語力を考えると、両親が日本人でありおかしな英語アクセントはなかったが大井川以西のそれを身に付けていた。しかしそれが何処のものとは確認出来るほどの言葉上の特徴はなかった。母親の出生については詳しくはないが、日本で生涯を終えた同じ医師であるその弟とともに両親の日本語方言が身に沁みていたのだろう。
弟の方は流暢ではなかったが確か通訳をしたほどに言語能力は高かった筈だが、兄のそれは味はあったが流暢という感じではなかった。今親戚筋で同じような語り口を探すと、叔父などに近いものがない事は無い。
家庭内でも分かり難いと言われた自らの言語能力を顧みるになるほど、その思考傾向はオバマ次期大統領に似ていると思ってもその弁舌は全く異なる。思考形体の一形式としての言語活動は、その発言内容の叙述方にによってかなり変化がある事が想像出来たからこそ、自らのそれにも興味を持っていたのであるが、どうもそれとは異なる生物学的な言語能力もあるに違いないと実感するようになって来ている。
つまり、発言の論理性や組み立ては叙述方の収斂と洗練によって大幅に変化させる事が出来るから、よくあるヘジテートノイズと呼ばれるようなそれは大幅に減らすことが出来て尚且つ内容を無駄なく伝える叙述を実現する事は出来る。これは所謂スピーチの訓練などと同じものだが、そのようなレトリックは芸人や弁護士やセールスマン以外は決して習うべきものではない。これは文章を書くその練習と同じであるから自己の必要に従って修得すべきものである。
しかし文章も、その綴り方や構文とは異なり、どのような響きをそこから発して行くかと定めるとき殆ど音楽的な能力と同じように、その「声」以上にそのテンポ感やリズム感は個性としての言語能力に負うところが大きいように感じる。
特に、ハンブルクなどの高地ドイツ標準語地域で生活していれば違うのだろうが、高地である南ドイツからスイス・オーストリアへと掛かる地域の文化的影響も強く、さらに最近はこてこての方言の中でしか生活していないような按配だから、電話などで書き言葉を聞くとどきっとする事がある。
TVも殆どみなくなった事から車の中のラジオ放送が主となるが、そこでもシュヴェビィッシュからアルマン方言が飛び交う。ヘッセンの放送などはやはり異なるなと感じるようになって来ており、ザクセンに電話すると身近にいる者の顔を浮かべてそれはそれでなかなかなだなと感心する。
今年死去した親戚の日系二世の話し方を思い出す。最初に会った時がもう三十年近く前になるから還暦を過ぎていたがまだ現役で若かった。それでもかなりゆっくりとした喋り方であって、そのバイリンガルであった日本語力と英語力を考えると、両親が日本人でありおかしな英語アクセントはなかったが大井川以西のそれを身に付けていた。しかしそれが何処のものとは確認出来るほどの言葉上の特徴はなかった。母親の出生については詳しくはないが、日本で生涯を終えた同じ医師であるその弟とともに両親の日本語方言が身に沁みていたのだろう。
弟の方は流暢ではなかったが確か通訳をしたほどに言語能力は高かった筈だが、兄のそれは味はあったが流暢という感じではなかった。今親戚筋で同じような語り口を探すと、叔父などに近いものがない事は無い。
家庭内でも分かり難いと言われた自らの言語能力を顧みるになるほど、その思考傾向はオバマ次期大統領に似ていると思ってもその弁舌は全く異なる。思考形体の一形式としての言語活動は、その発言内容の叙述方にによってかなり変化がある事が想像出来たからこそ、自らのそれにも興味を持っていたのであるが、どうもそれとは異なる生物学的な言語能力もあるに違いないと実感するようになって来ている。
つまり、発言の論理性や組み立ては叙述方の収斂と洗練によって大幅に変化させる事が出来るから、よくあるヘジテートノイズと呼ばれるようなそれは大幅に減らすことが出来て尚且つ内容を無駄なく伝える叙述を実現する事は出来る。これは所謂スピーチの訓練などと同じものだが、そのようなレトリックは芸人や弁護士やセールスマン以外は決して習うべきものではない。これは文章を書くその練習と同じであるから自己の必要に従って修得すべきものである。
しかし文章も、その綴り方や構文とは異なり、どのような響きをそこから発して行くかと定めるとき殆ど音楽的な能力と同じように、その「声」以上にそのテンポ感やリズム感は個性としての言語能力に負うところが大きいように感じる。
スペイン語では、そこまでの激しい訛りは見受けられません。発音的には完璧に日本人もマスターすることができます。英語はやはり小さいころから話さないと発音はマスターできないようです。なぜあのような複雑な発音を多用するのか、普通ならば発音はシンプル化してくるんですけどね。
私もアクティングのクラスで発音を良くするための訓練を一所懸命してますが、未だに「外国人」であることがバレてしまいます。でも、我らにはシュワルツネッガーがいますから、カリフォルニア人としてまったく恥ずかしくないですけどね。
ドイツ語の発音は、日本人にとって難しいのですか?
ゲルマン語圏でも北欧に行くほどまた独特の胸から出て来る音が増えますからね。チロルのイタリアに行くと無くなる。あの深い音はやはり日本人には難しいでしょう。
例を挙げればウムラウトの付く音をae,ue,oeなどは英語では表記されないだけで沢山ありますよね。ブリティッシュの場合は現在のドイツ語と同じで表記通りになって来ていると思うのです。だから外国人には表面上は習い易い。
ドイツ語の難しさはだから子音ではないかと思います。これはどの外国人でも同じでしょうが、日本人の場合は母音がどうしてもそこに入って仕舞いますからね。母音は、ウムラウトのお蔭で区別出来ますが、子音は地方や癖によっても変わると言うのがあります。
例えば数のZWEI,DREI,ZWANZIG,DREIZIGと読ませても様々です。また方言となると母音にも影響を及ぼして、tsvaiが標準語ですが地元ではtsveiが標準で、電話などでは区別し易いようにtsvo:も全国的に使います。
pfaelzerweinさんの
ドイツ語なまりの、
日本語って、
どんな感じなんでしょう?
興味ありますね。
長年日本を離れ、
思考もドイツ語でされているのでしょうか??
考える事象によって、
日本語だったり、ドイツ語だったり、
はたまた第三の言葉なのでしょうか??
ドイツ語なまりの日本語というと、
私が体験するのには、、、。
フランクフルトに日本人の通訳の女性を
知っているのですが、、、。
そのお子さんが、
ドイツ人とハーフ。
まったくもって、
ドイツ語もきれい。
日本語はちょっとおかしい。
ドイツ語なまりの日本語って感じです。
そういうことって、
どうなんでしょうね??
では。
なるほど、ドイツ語は方言によって子音が違ってくるんですね。米英語も子音が方言によって把握できなくなります。特に南部がひどいです。母音もいい加減で「ユナイテッド」が「ユナーテッド」になります。そのaboutさが、アメリカって言ったら、それまでですが・・。逆に女王英語は子音がもっとも聞き取りやすいですね。でもビートルズが歌うときは南部訛りでしたけど。
シカゴやデトロイトなどの中西部の英語が一番発音がはっきりしてますね。ニュースキャスターもこの発音で、これが事実上の標準語となってます。
オバマもシカゴで標準語ですが、黒人英語の影響を少なからず受けてます。でも演説のときはまるで教会の牧師のような迫力のある英語を使ってます。政治家ってよりも精神指導者って感じですね。
反対に習った外国語は、何処かで注意をして使うので発音も制御し易い筈だろうと考えたのでした。しかし実際は聞く音の感覚(味覚も同じ)なので、聞きわけが出来ないと別けて喋れないのです。
ヘルメスさん、スペイン語はそのような感じが私もありますがポルトガル語になるとちょっと濁った音が増えるような。
嘗て志賀直哉あたりが日本語廃棄論を唱えていたと思いますが、平仮名は大幅改定した方がよぴと思います。
母音のつかない子音の可能性を増やすと響きが豊かで明瞭となります。中国人の方が、どうしても拼音がついて仕舞いますが、その点は有利なんですね。
それからオバマ氏の妹さんのドイツ語は、二十年ほど居たので、結構使えるらしいです。TV放送されたようで一度探してみます。
「混ぜる」、「本気になる」、「早く走れ」は、京阪神では何というでしょうか?言葉の上では関東圏より標準語化しているように思いますがどうでしょう。
ここの地元でもそうですが、書き言葉と喋り言葉が遠いか近いかの差は地方によっても社会層によっても異なるようです。
それよりも音楽的な言語表現の差の方が強いように思います。
その意味からしてイーデス・ハンソンさんの大阪弁は京阪神の女性標準語に近いですね。男性標準語は、キダ・タローとか高島忠夫を挙げると阪神間に贔屓になってしまいそうですが、経済文化的に言っても京阪神間の言葉使いが関西標準語でしょう。
繰り返しになりますが、イントネーションや語尾などは、谷崎や田辺聖子が試みていますが、書き言葉になり難いので口語として残っているのです。
これは、高地ドイツ語と呼ばれる南ドイツの言葉が文字化されたに拘らず、それを使うのは北ドイツの者で、南ドイツではどんどんと書き言葉から離れて行った状況は、英語と米語の関係でにも似ていると、上に述べました。
hochdeutschが北部で使われるというお話は興味深く拝読しました。もし僕の父に言わせるとすれば「おめー、どたまん中がほれいらおさんからなんだからよみしみてたまにゃ考えてみたほうがよかんべ?」(=お前、頭の中が空っぽなんだからたまにはない頭を使って真剣に考えたほうがいいんじゃないか?)と言うでしょうね(笑)。いや僕に対してですね。Hannover近辺の言葉が元になっていると学生の時授業で習ったのですが放送等を聞かれるとそう思われますか?