Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

右の耳が痒いから

2005-04-23 | 歴史・時事
マックス・ヴェーバー(1864-1920)の有名な1915年の書「主要宗教の経済倫理」の「儒教」の章がネットで拾えた。西洋の宗教を比較対照とするので理解しやすい。

現在のように、宗教の存在意義が問われ、原理主義者たちの戦いが世界で繰り広げられ、EU内では遺伝子工学を初めとする自然科学の今後について激しい論争が予想される時、またグローバル化の大潮流のなかで非西洋社会のあり方が問われている時、このような視点は色々と参考になる。

簡易な言葉を使い宗教を扱っている。著者は哲学者でなくて法学者である事を先ず喜びたい。バイオグラフィーを見ると、精神病からハイデルベルク大の行政経済の教授を投げ打っており、このような宗教へのリサーチもその時期になされたと推測出来る。マックス・ヴェーバーの見解は、今後とも適宜引用するとしよう。

新秩序の確立と言う視点から、ここでバイエルン出身で連邦大統領経験のロマン・ヘルツォーグ氏に登場を願う。氏は、法律端出身でスパイヤーの行政管理高等専門学校の学長を勤めた官僚の鑑であり連邦憲法裁判所長を務めた。そこで下した最も有名な判決は、原発反対デモの禁止である。理由は、「憲法で国民の集会の自由は保障されている。少数や少数派による騒ぎが計算出来る場合は、」である。その後も議論を呼ぶ判決を下している。

ロマン・ヘルツォーグ氏が、ドイツ100年を語ると、「信念のために誰が自己を犠牲に出来るか?」と言うテーゼが挙げられる。この老獪な行政家らしい発言である。ここで氏は、イデオロギーへの自己犠牲を意味しているのではなく、戦後にナチスもしくは協力者ながらアデナウアーの内閣に入った人物や、更に多くの市町村まで含めた役人達への認識を示す。広くドイツ人へ向けられているのかもしれない。氏に言わせると、だからこそ判決には十分な配慮が必要と言うことらしい。

もう一つ顕著な意見は、「社会から援助を受ける必要のない人がそれを受ける事は、必要のある人がそれを受け取る事を目立たないようにするだけである。右の耳が痒いからといって、左の耳を掻くようなものである」。この人らしい考え方である。つまり本当の社会の公平と言うのは何処にあるかと問うことになる。

さらに、現連邦憲法は、過去の経験を踏まえて良く出来ているが、幾つかの幻想を加味していると言う。つまり裏返しに、ヴァイマール憲章下で何故ナチスが台頭したかと言うのは、法やその他のシステムに幻想を持ったからだとも理解出来る。実際家の冷めた見方のようだが、自身が言うようにこれが楽天的なバイエルン人なのかもしれない。 



参照:IDの危機と確立の好機 [ 文学・思想 ] / 2005-04-20
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2 コメント

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あなた自身の考えがわからない (のぶさん)
2005-04-24 19:50:30
全部読まさせてもらいましたが、何を言いたいのか解りません。
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明快な回答こそ原理主義? (pfaelzerwein)
2005-04-24 20:29:49
のぶさん、コメント有難うございました。アデナウワー絡みで、ヘルツォーグ氏の表現しようとしている事だけでも意味深く、誰も簡単にはコメント出来ないのではないでしょうか?決して質問を重ねる心算はないのですが、もし全てに明快な回答が出されるならば、それこそを原理主義と言うのではないかと考えます。
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