Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

俄かサボテン愛好の憂慮

2008-05-16 | 
毎日サボテンを観察している。何時の間にサボテン愛好家になったかって?そう、訳ありだ。先日、今や最も気になる女性に手渡しで貰い、早速植えつけたのである。しかし、ワイン地所から失敬して来た土であり、最初に水を十分に含ませたので、未だに表面にも湿り気がある。根腐りは起きていないかと毎日気になって仕方がないのである。

夕方、買物を済まして帰ってきて、郵便桶に向かうと、何時も以上に活き活きとした表情の彼女がそこに立っていて、先般の緊張の最初のガス抜きのあと初めての予期せぬ再会である。

「元気?」

「今日は蒸し暑いから早めに切り上げてきちゃった」

「ああ、そう」

一瞬の沈黙も待てぬかのように、お互いに郵便桶に向って仕舞い、なんとなく周りの空気が固まってしまう。

一旦分かれたが、このままではと思い、荷物をおいたあともう一度彼女が戻って来るのを待って、プレゼントのサボテンのことを切り出した。

「あのプレゼントを植えつけたよ。でもね、大丈夫かなと思ってとても心配でね」

「結構平気なのよ。根がつくから」

「それでも、土が湿っていてね。根腐れしないかなと思って、初めから根の所、赤味がかかっていたかな?」

「大丈夫、期待しているから、私たち」

「そう、上手く行けばいいな、ありがとう」


今日の音楽:
ベートーヴェン作曲 「ラズモフスキー四重奏曲」第三番ハ長調Op.59-3



参照:
深く流れる情感の意志 [ 女 ] / 2008-05-12
清々しく熱い潮流 [ 女 ] / 2008-05-10
パラダイスに覗く花 [ 女 ] / 2008-04-24
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工業成形される人生基盤

2008-05-15 | マスメディア批評
アルバン・ベルク四重奏団のお別れ世界ツアーの途上、フランクフルトで最後の演奏会が開かれたようだ。ヴィオラのココシュカ氏が死去してから、女性の弟子が入っていたが、間近の終焉は十分に予想出来た。

今回の演奏評でもピヒラー氏の冒険に満ちた演奏態度に触れられているが、ああしたトップを支えるのは、これまた亡くなった氏のような強烈な演奏態度が必要だったのに他ならない。

初期のLP録音の特に新ヴィーン学派の演奏は印象深いが、テレフンケンの独特の録音によるモーツァルトやシューベルト、ドボルジャークなども忘れがたい。その後、メンバー交代後に一般的に知られるEMIの録音へと続いていく。

EMIへの録音では、更に大コンサートホールで四重奏の夕べを大々的に開いていくこの四重奏団の過去のヨーロッパの伝統とは一線を隔した演奏実践が記録されている。その後の若手のアンサンブルが彼らに学んだものも大きいが、それ以上に弦楽四重奏を芸術的に大掛かりなものとしてしまった責任はこれらのコンセプトにある。

結局、そうした演奏形態は、決してその音楽の可能性を拡げた訳でもなく、大管弦楽団に起ったような、工業化されて規制化されたような平均率的な音を奏でて、恐らくそうした音楽の試みは六月にお別れコンサートの開かれる中国大陸の音楽生活などに引き継がれるのだろう。

個人的には、ザルツブルクのモーツァルテウムでの新旧ヴィーン学派の連続演奏会の印象が今後とも記憶として残るであろう。そこで見聞きしたものは、まさに後進の音楽家達が薫陶を受けた音楽作りであり、新聞評にはそれを称して、「結局、感覚的に且つ精神的な行程 ― つまり人類に重要な人生基盤の存在を伝えようとするもの ― の形成・形態」であったとしている。

要するに、彼らの音楽実践は、偶々弦楽四重奏と言う伝統的なジャンルにおいて、生まれ故郷の歴史文化に則って、つき詰めて表現した古典音楽と言うことになるだろうか。

そうした人生基盤が、近代工業技術と同じく、欧米以外で同じ意味を持つのかどうかの懐疑を、商業音楽活動の中でそれが特に盛んであった日本などへの演奏旅行で示していたに違いない。



参照:
Der weite Reise zum langen Abschied, Gerhard Rohde, FAZ vom 13.5.2008
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10
袋が香を薫ずる前に [ 文化一般 ] / 2005-07-14
蜉蝣のような心情文化 [ 文学・思想 ] / 2008-05-14
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蜉蝣のような心情文化

2008-05-14 | 文学・思想
小林秀雄関連は興味のある人が多いようだ。私などこれについてとやかく言う筋の者ではないが、何度も書いているように、自ら氏の著書「モーツァルト」関連の書籍を集めていたのを全く忘れていた事が発覚して愕然としている。一体、どうした経過だったのだろうか?

今回、その文庫本から「モーツァルト」・「表現について」・「ヴァイオリニスト」・「バッハ」・「蓄音機」・「ペレアスとメリザント」・「バイロイトにて」を流し読んで、日本におけるその影響力の大きさを改めて考えている。

好悪はハッキリとしているのだが、何故それがいまだに影響力を持っているかの方が重要な問題のような気がする。

幾つか、他の当時の日本社会との対決もしくは提示として、興味ある記載を見つけた。その箇所を挙げると、メニューヒンの来日とその演奏会訪問印象記に兼常清佐のピアニスト不要論に言及している箇所と、五味康祐の毎月の雑誌への「(オーディオ)気違いの寝言」という部分であろうか。

それらの部分において、ジャーナリスティックな扱いを徹底的に避けて、前者ではそれの口実として該当の事件に言及することで係わりあいを「サンボリック」に暗示していて、後者ではハイフィデリティーを「気違い」の言動に上手く語らせることで事なきを得ている。

全体を通して、この高名な文化人がこれらの簡単な書きものをどこに残したのかはわからないが、それらのレトリックは、日本の大衆新聞の文化欄にあるような、典型的な翻訳文化ジャーナリズムやアカデミズムのようで、それらの衣装を引き剥がして行った時に残る蜉蝣のようなみすぼらしいオリジナリティーを影絵のように浮かび上がらせるためにこそ存在しているように思える。

一体、そうした障子に映る空ろな影に、その心情を映し出すような文化の本質は何処にあるのだろう?



参照:
自己確立無き利己主義 [ 歴史・時事 ] / 2008-04-28
女子供文化の先祖帰り [ 文化一般 ] / 2008-04-20
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深く流れる情感の意志

2008-05-12 | 
「折角、僕のモットーである美しい女性が居れば、他にはなにも要らないと思って、疲れる話は避けて、場をほぐそうと努力したんだけどね」

「堅いのをほぐせと言われても、できるものじゃないわ。ちょっと、考えてみるけど」

立て続け二晩のランデヴーは楽しかった。次回は何週かしてありそうだが、そのようなことは如何でも良い。こちらの年齢のゆえか、それとも相手のクールな人間性のゆえか、興味深い男女の緊張関係があって面白い。

それにしても、嘗てあまり知りあったことのないほど共通性が見つかる女性である。その分、どうしても批判したくもなり、その批判が同時に自己批判にも繋がる。あまり共通点が多い男女関係もつまらないが、その思考は理解し易く、当然のことながら差異にこそ関心が集中する。

彼女が八年間も高等教育を受けて地質学!から植物学、法学まで学んでいるので、面倒なことをしばしば話題にして顰蹙をかうこちらに引けを取らず、彼女の会話は、突然話題が硬くなる。なるほど、そうした女性のお相手をするのは血気盛んな学生か、学識経験者か、私のようなモットーを掲げる男だろうか。

流石に知識も豊富で、その上に興味旺盛で学習意欲は大変高く、一度こちらが何か言えば必ずや更に意欲を燃やしてくるような貪欲さがある。まさに当方の批判点は、そうした蠎のような方向の定まらない冷静な知識欲で、このBLOGにおけるプロテスタンティズム批判にも繋がる思考である。

つまり彼女の魅力である凛とした姿勢は、なかなか開かないカタツムリの殻のようなものに包まれている自我でもあるが、どうしてぎりぎりの所までの接近を試みようとすると防御壁のようにそれは固まっている。

批判点は、お互いが親近感を以って、語り懸けるときにその反照がしっかりとその柔らかい核を反映したものとなっているかどうかが、その対象がカタツムリの殻となると意味ある反照となって戻って来ないことにある。それならばどのような意志があっても、燃え盛る岩山の頂にはいっこうに到達できないジークフリートのようなものである。

その一つとして、精神と肉体の分離を理念としているとなると、どうしても各々の両面において完成した生にならないのみならず、情感を抑圧することにならないだろうか。

もう一つ面白い心象風景を絵画などのイメージから教えてくれた。それは、白い壁のようなものの前に一人立つと言うものである。白い障子のようなものを考えても良いだろうか。それは、未来であり、希望であることは分かるのだが、キルケゴールのように向うものは一体何なのだろうか?

そして、学習の可能性と動機付けされた意欲は、コインの裏表のように存在する重要な運動法則にも見えるが、そうしたものがどにように裏打ちされているかなど、興味がつきなく、同時にヴァルキューレの鎧の堅く身を包んだ隙間に見せるブリュンヒルデの意志を形成するようなその深く流れる情感のようなものがとても愛らしい。
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座標軸の定まらぬ思慮

2008-05-11 | 雑感
聖霊降臨祭の祝日である。復活祭から第七週目とすると、日本へ旅行してから矢張り同じぐらいの期間が経つ。その間、三週間は日本、数日はフランスであったので、地元には三週間ほど居た事になる。

ここ数日は夏日和で二十七度を越える暑さだ。乾燥していて喉が渇くが、まだまだ白昼夢見るような気候ではないが、夜放射冷却で冷えてくると肌寒く、窓を閉め切って気持ちよく就寝する事が出来る。

南ブルゴーニュの旅の隠された目的、クルニーの町の修道所について手短にまとめておかなければいけないが、その前につまらないエピソードだけを書き留めて置いて旅の思い出としておこう。同室で寝泊りしたマコンの医師からメールで写真を送りたいからこのアドレスで良いかと尋ねてくれた。

彼の息子さんが東京のフランスの海外事務所に駐在していると言うことで、盛夏にそこを旅行するアドヴァイスと参考資料を送ってあげると約束していたのである。あれやこれやと考えている。

墓場の横でリースリングゼクトをそこの水場に冷してそれを空けた時のことを思い出した。冷やそうとしていた酒飲みが、水場のたまりの後ろを覗きこんで叫んだ。

「おいこんなところに、エスカルゴ焼きの鍋があるぞ」

そこへ行く途上に必至でエスカルゴを探して、一人が何処からともなく見つけてきていたのだった。

「おい、あれは何処へやった」と道端に戻しておいたエスカルゴが急に惜しくなってきたのである。

「帯びに短し襷に長し」を、ドイツ語などではどのように言うのだったかなと考えているのだが、なかなか思い出さない。

旅行の道程や移動距離、陸路にしろ空路にしろその描いた軌跡が残像のように脳に残っていて、一寸混乱したような気分にある。新聞に目を通していても内容を漫然と理解しているだけで、もう一つそれ以上に分析的となれない。なにか、ジャイロコンパスの軸が壊れたナヴィゲーションシステムのような、ずれた空間が重なっているようで気持ちが悪い。

日本旅行前に獲得した書籍など、いくつもの集中して目を通したいものがあるのだが、そうしたものに集中する時間的精神的余裕が無い以上に、なによりも上の座標軸が固定も移動もしないと言うような 高 度 な状況に陥っている。
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清々しく熱い潮流

2008-05-10 | 
お花を貰った女性とのランデヴーを前に、短く書留めておこう。本日車に乗っていて偶々彼女が歩いているのを見かけた。暑い最中であり、こちらに気がつかなかった様子なので、態々戻ってきて、送り届けてあげようと思ったのだ。

その暑さ故にか心なしか不機嫌そうな表情を浮かべ、今まで見せていたクールで落ち着いた表情とは違った情感を醸し出しているのを見た。先方には気がつかれていないとは言いながら、なにか見てはいけないような表情を垣間見てしまった気がした。

そのためか、こちらの情感も刺激されて些か不愉快な気持ちになった。帰宅途上ではない事が察せられ、声を掛けずに終わったが、その状況も幾らか推察して、そしてつまらない事をあれやこれやと考えてしまうのであった。

夕食後一杯引っ掛けてから、いつものように散歩に出かけると、昼間の27度を越す炎天下に暖められた土壌に、熱気が浮かび、そして冷たく流れる潮流を感じた。

焦燥感の交じった火照りが温度差のある潮流を越える毎に、仔細な事柄は段々とどうにでもよく思えてくる。見てはいけなかったものを見た訳ではなく、有り体に見えるものを見て留意するのみなのである。

暖気にも、谷から吹き降ろされてくる冷たい空気の流れを感じながら、その清々しさの中に、熱い温もりをまた感じているのである。



参照:
パラダイスに覗く花 [ 女 ] / 2008-04-24
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安定と静粛の乗り比べ

2008-05-09 | 雑感
メルセデス・ベンツのAクラスに乗った。ディーゼルで大変喧しく、挙動が落ち着かない。

ここでも何度の批判しているのであまり言いたくはないが、パワーステアリングもふらふらで良くなく、市場に合わせる前の最終調整が大変雑な印象である。

当初からスキャンダルに包まれた車種であるが、結果としてはなんとか市場に収まった。それでも、トヨタ車などに比べると辛うじてと言う印象しかない。

フランスに同行して同室に寝泊りしたシカゴ大のMAは、ハイブリッド・レクサスを二週間前に買ったので自分の車では行きたくないと言った。結局上手く乗合いで小さなトヨタで大人四人が千キロ以上を往復した。

その小さなトヨタの挙動や座席は、間違っても快適とは言えなかったが、高速道路の路上が良いと最新型新幹線と、風切り音の「あたり」と妙なエアーポケットのような感じと総合的な環境つくりがよく似ていた。そしてその内装は古い車の割に軋まない。

エアコンの壊れたAクラスを降りて、目許の涼しい女の子になんだかんだと言いながら鍵を返す。点検清掃後の自らの車に乗り移ると、流石に走行感が全く別世界のものである。嘗て乗っていたBMWや更に硬質のスポーツカーとは異なるが、やはりその地面に張り付くような硬性感と重量感は、大型のエアバス旅客機に通じるような落ち着きがある。

シンガポール航空A380での飛行体験の話を聞いたが、ボーイング社の新しいスカイライナーはいざ知らず、エアバス社の機体の静かさと挙動の快適さは嘗てのB737やB747とは比較にならない。

上のバイエルン人は言う。「米国商品で自由市場で十分に売れるものはどれほどある?」、「トヨタはダイムラーメルセデスより間違いなく良い」。なるほど、しかし、トヨタは、軽量化や数字的な静粛性において優れているかもしれないが、嘗ての12気筒のジャグァーなどにあったある種の音作りされた落ち着きとは甚だ遠いと言え、それでもまたICEの乗車感が新幹線のそれより好ましい様なドイツ車にある独自の安定感と静粛も、そこにはない事を見逃せない。

それにしても70キロほど走っただけで、ディーゼルでさえ八ユーロも燃料費が掛かるなら今や高くて乗れない。上の女の子は言う、「車を走らせるのが、ちっとも楽しみでもなくなちゃってしまいましたよね」。


写真:フレンチの軽やかさ



参照:
自宅よりも快適な車内 [ 歴史・時事 ] / 2005-02-14
完全自動走行への道 [ テクニック ] / 2005-12-02
剰余商品価値の継承 [ BLOG研究 ] / 2006-05-05
再び安全なゴム使用の話 [ 雑感 ] / 2006-11-26
出稼ぎ文化コメディー映画 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-02-14
皮膚感覚のフマニタス [ 雑感 ] / 2006-11-29
搭乗への期限が延びる [ 生活 ] / 2007-04-03
追撃迫る自由競争市場 [ 歴史・時事 ] / 2005-08-11
特別なアトモスフェアー [ テクニック ] / 2004-11-17
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新幹線の国際的競争力

2008-05-08 | テクニック
フランスではTGVのトンネルを何度か潜った。交差点にその模型などが見られる自慢の超特急である。穏やかな急流を行ったり来たりしていると、その通過風景に何度も出くわした。

そのモーター音は凄まじい。風きり音とは違って、騒音性が強いように感じた。速度はそれほどでている区間ではないと感じたが、それでも無意識にはいられない。

昔の小田急のロマンスカーの音楽騒音を少し思い出す。意外であったのはその交通量でそれほど時間が経たない間にまたやってきていた。上下線が交差する事も少なからずあった。

ドイツのICEの乗り心地は素晴らしいが、羊を轢いたぐらいで脱線するようでは怖くて安心して乗っていられない。日本の新幹線のように頻繁に飛込みがあっても跳ね返すだけのスカートが必要なのだろう。

TGVは、フランスの全ての工業製品がそうであるように、当初のアイデアとコンセプトは素晴らしいが、老朽化してそのままにされているようだ。

保守やその他の問題があるとしても、トヨタの車のような乗り心地とは言っても新幹線は進歩していて、国際的競争力はやはり高いように実感した。
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価値のある品定め

2008-05-07 | 試飲百景
石灰質のドロミテに似た岩場から降りてきて、ワインを試飲した。そこを通る観光街道はボージョレー街道などと書いてあるが、シャドネーが栽培されている。ブルゴーニュであるから赤ワインとも思うが、ボージョレーに繋がる南ブルゴーニュのそれはピノノワールとは違いガメー種である。

その地方のガメーはスイスのそれとは異なり酸も薄く飲み易いが、口の中に広がるガメーとした草ぽっさは変わらない。安物のボージョレーなどに共通するそれである。

その点からすれば、シャドネー村にも近いそこでシャドネーを試すように催したマコンのアルペン協会の仲間の判断は正しいだろう。

若いオーナーの演説は、錯綜する土壌による差を如何に各々のワインに出すかと言うモットーと、バイオクラシックから出来ればバイオダイナミックへと進みたいとする強い意志を示していた。そして、全てをバリック樽による熟成をすると言うのだ。

さて、地下見学に向うと、我々仲間から、何故またバリックかと言う声が聞かれる。赤ならば分かるがと言うので、「ドイツでもブルグンダー種を中心にバリック仕立てを試みたが、不味くて売れなかった」と情報を流した。

最後までこの疑問は我々の中にあって、「土壌の違いをバリックの同じ味付けで薄めているのは何故だ」と声が飛ぶ。「それは売りの良い口実でしょう」と意見の述べておいた。様々な点で、合点が行かなかったが、まあ、それはそうとして試飲が始まる。

そしてとても嬉しい事に我々の仲間にも、ワインの試飲会に17ユーロを投入して70種類のリースリングなどを飲み干す兵まで出てきた。プフェルツァーも量だけで無く質にも拘るようになって来たのだ。

彼らは言う「そりゃー値段も違うが、スーパーで売っているワインと見本市のそれを比べるのが間違っているわな」とウンゲホイヤーの名前などが出てくるから益々嬉しくなる。

試飲は、2005年産を含む2006年産の三段階の六種類が提供された。大量の人数なので全くその程度の量しかなかったが、それなりに試すことが出来た。一挙に雰囲気は宴会ムードとなる。

我々の中に、大きく好みを二分割する二グループが出来上がった。一グループは、リースリング愛好家で、シャドネーでも清涼感のあるものを評価した。もう一つは、丸みが上手くついているシャドネーを評価したグループで、普段リースリングの産が苦手なグループである。興味深い事に両グループとも「自らが気に要らないワインのグループ」を各々が「バリック臭い」とこぼす。

こうして、盛り上がりを見せると尻を叩かれるように注文票に書き込み、帰宅へと急がされる。決して、ここの33haほどの醸造所のワインの評価は悪くはなかったが、醸造の方向と市場選択には疑問が残った。

価格においても、ドイツリースリングの比較的早飲みで大変良いものがある八ユーロを挟んでいたり、もしくは十ユーロ以上の濃くのあるものを提供している。それなりに楽しめる事とは別に、リースリングのそれと比較をするとワインとしての質は、醸造技術栽培技術共に全く足元にも及ばないと見た。

それでも、米国やアジア市場ではこうした質の低いワインの方がドイツのそれよりも珍重されているのだろう。ルフトハンザで提供されたワインではないが、こうしたワインは量が飲めない分価格も高い。そして質も低い。経済とはそうしたものだろうか。シャラクセー。

誰かが言った:「天から与えられた葡萄を今更また味つけする事はないよ」。

一つのグループの選択と感想は、「大変価値のあった試飲だった。なんと言っても我らリースリングの世界競争力が確認されたのだから」と言ったものであった。
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とても幸せな脳の人達

2008-05-06 | 生活
またしても、ドンチャン騒ぎの南ブルゴーニュの日々を過ごしてしまった。幸せな人たちの車には、ごっそりとヴァイツェンビーアやリースリングなどが積み込まれている。一汗かいたと思うや、どこららともなく取り出されたワインなどが墓場の井戸や洗濯場などで冷やされる。

そして冷えるまでに赤ワインがプラスチックのワイングラスに注がれ、地元のチーズやソーセージなどと振舞われる。こうして、昨晩の続きが始まるのだ。

前日の晩は、四十人ぐらいの姉妹都市関係にあるマコンとノイシュタットのアルパインクラブのメンバーが会食した。既にその前にはチーズなどでアペリティフを楽しんでいたのだが、カシスのシロップを入れたキール風シャドネーで二度目のアペリティフをやり、地元のガメーと共に散々飲んで、鳥のクリームになどを食した。またまたそれを食せない者がいると、残飯係を仰せ付けられて、ワイルドライスと共にたらふく食する。

そして、フランスの仲間達が去ったあともまた飲み続け、前日からの宿泊組み故に宿への案内を仰せ付けられて、宿に還るとスイスからの高校生達が鍵を開けてくれる。そして我々愚連帯が取り出すのはスペイン産のセッコ・バラクーダとかなんとかで、静粛に気を使いながら、宿泊所の前庭でまた深夜の宴会となったのであった。

その日の長い行程も半分を過ぎると農家で立食パーティが催されてワインを楽しむ。流石にその夜は食後直ぐに退散させて貰った。

それにしても、プフェルツァー・プェルツァリンは、酒を楽しむ術を心得ていると言うか飲みなれている。余所からワインフェストなど来る者はそれが分からずに泥酔してしまうのだが、我々は飲んで発散させてしまう。フランス人が驚くのでワインを水で割る事は控えるが、兎に角量をよく飲む。

只で飲まして貰って怒る者がいる訳がないと言っても、笑い上戸の女性などは居ても、悪良いして絡む者など酒癖が悪いものが無く、飲んで楽しむ名人ばかりである。脳がアルコールに溶かされるとはこうした症状を言うのだろうか。



参照:
愚連隊が飲み干す [ アウトドーア・環境 ] / 2006-09-01
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とても幸せな葡萄の光景

2008-05-05 | ワイン
ブルゴーニュの南ワイン街道を走った。通常は北、もしくはボージョレーが有名であり、マコンの北側の石灰岩質のシャドネーの本場と花崗岩のガメーは、其々大変よく似たシャブリやボージョレーなどと比べて世界的にはあまり人気が無い。その意味からプファルツの南ワイン街道とミッテルハールトの特別なワインとの関係にも似ていなくもない。

そのワインについては改めて詳しく述べるとして、その岩質を示す岩壁の下にワイン地所が広がる光景は、残念ながらここプファルツの南ワイン街道には無い。岩場からザイルを使ってワインの中に降りてくるというようなイメージを抱けるのがとても幸せであった。
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旨えー、ヤギのチーズ

2008-05-05 | 料理
ブルゴーニュからヤギのチーズをお土産に持ち帰った。一日中三十キロ近く歩き回った途中立ち寄ったチーズ製造農家でこれを買った。マコンの仏アルパイン協会の歓迎式兼食前酒の集いで、振舞われて大変人気のあったものである。

一般的に牛のそれよりも価格も安く甘んじられる傾向のあるチーズであるが、格別美味かった。

立ち寄った製造所でも三種類が紹介された。一番目は、所謂フレッシュチーズに属するもので、三番目のは反対に硬く乾燥したもので味が凝縮して、二番目のものはその中間である。

我々の評価は、上の歓迎パーティーでも三番目の乾燥して味が凝縮したものに支持が集まった。勿論フレッシュチーズを購入した者もいたが、乾燥したものが圧倒的だった。
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