Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

モンサント社の撤退

2013-11-16 | アウトドーア・環境
モンサント社がドイツでの遺伝子操作商品の販売を諦めたようだ。そもそもEU内での99%の売り上げは種子と肥料であるが、そうした企業イメージを不満と思っているらしい。遺伝子操作トウモロコシMON 810は1989年に許可を取ってからEU内での栽培を行っているがそれは維持するという。EU内の食料では5%条項があるので意図した使用は許可されていないが、糊やその他の商品としてのみ使われている。BASFの判断は正しかった。たとえメルケル博士に広報をさせようが駄目なものは駄目なのである。そもそも「モンスターが生まれる」などというようなことを考えている有権者などはいない。国民を馬鹿にしたような言動に関しては首相も大いに反省しているに違いない。

室内クライミング第三日目は、木曜日の他の二人に合流してみた。19時に行くと既に18時30分から始めたということで、最後の一本を登っていた。引き続いて。そこを登らせて貰う。初めてであるが当然のことながら綺麗に熟せたが、クライミングダウンでガタガタになった。そこで目眩がすると帰って行ったが、パートナーと一緒にもう一本登った、室内でしか経験がないようで、屋根の仕事でもしている延長でやっているような感じの二年経験の爺さんである。単純に足場を登るように登って行くのを見ると、なるほど室内を対象としているとこうした登り方で通してしまえるのだと改めて気が付いた。

彼らにとっては、ザイルをカラビナに掛ける時のレストの体勢にも全く興味がないばかりか、短い距離を最後まで登り通せる腕力さえあればよいのである。だから体の捩じりや足使いなどには全く気が付かづに続けているのであろう。クリス・シャーマがアドヴァイザーになると言うが、こうした基礎からまともなクライミング技術を身につけれるように導くのは全く容易では無い筈だ。流石に戸外でも登ろうとする意思のある者は少しは気を使っているように感じる。

垂壁を登り、降りて最後は滑り落ちた。確保の仕方もやはりいつも決まったようにしか出来ないのは仕方がなかろう。兎に角、二本だけで力尽きた感じで、疲れが溜まっているというしかないのである。極力腕力を使わないで登っていても、量を登ると室外とは異なった疲れ方をするようだ。



参照:
Monsanto gibt Deutschland vorerst auf, FAZ vom 13.11.13
欧州の環境に従う経済博士 2012-01-18 | アウトドーア・環境
散髪が叶わなかった日 2013-05-22 | 生活
クリス・シャーマの指導まで 2013-11-14 | 生活
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どんなゴムを使っていても

2013-11-15 | マスメディア批評
水曜日の夕刻、文化波SWR2の科学ジャーナルを車中で聞いた。ドイツでは性病が2000年ごろから増えているというのだ。昨今ではエイズのためコンドームの利用が減っている筈がないのだが、それでも防げない性病が広がっているということである。ウイルスの類もということでもあるのだろう。

青少年から若い成人層までの増加が報告される。特に性器同士の接触によるものでなくてもオーラルセックスや器具を介した感染も多いことから、その場合も直接の接触を避けなければいけないということであった。最初の性的な接触で感染していることも少なくないようで、特に症状が現れない性病などは自覚症状が無いので、更に感染させているという現実があり、年間不特定数人以上との交渉を持つ男女は定期的に検査を受けることを勧めている。

このニュースで知らなかったの事実は、ショパンやハイネやマイケル・ダグラスだけでなく、レムブラントやベートーヴェン更にはカテリーナ帝までが性病であったということである。

室内壁二日目は、初日に続き、トップロープの登っていないものを片っ端から片づけた。二時間に全部で七本で、それに五本のクライミングダウンであったろうか。先はまだ十分に見えないが、少なくとも昨年の同時期から比較すると、どんどん量を登れるようになった年間を通じて鍛錬している体力と、オヴァーハングの下でもしっかりと立てるようになった技術だろう。そのお蔭でオヴァーハングの下でも急ぐことなく、的確な動きが出来るようになった。

その反面、緩斜面では今年最高に難しい六級に遭遇することになって、外側に立たなければいかず、手がびしょびしょになってマグネシウム無しの室内用に靴では立ち込めなかった。相棒が最近使っている柔らかい仏ボレアルの靴ではなくて偶々ラ・スポルティーヴァ刀レースを履いていたので、その差異に気が付いたようだ。決して底が柔らかい硬いだけでなくて、そうした差異に気が付くことで足技を少しづつ認識していくだろう。

未だトップロープももう少し残っているが、5.10までを全て片づけて、そこから今シーズンの本格的な練習を始めることになるのだろう。ボウルダ―リングと並行させたいところだ。



参照:
Das Wissensmagazin(SWR)
処方箋無し避妊と啓蒙 2013-11-12 | 歴史・時事
クリス・シャーマの指導まで 2013-11-14 | 生活
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クリス・シャーマの指導まで

2013-11-14 | 生活
初めて本格的に霜が降りた。山は雪のようだ。それでも陽が射すようになったので気持ち良い。再度、ボウルダ―を訪ねてみて、この寒さでも登れるのかどうか審査しよう。明け方トイレからベットに戻ると左足の脹脛がつった。久方ぶりである。だからいつもの沢をゆっくりと歩いた。理由は分からないが、日曜日の疲れと、町を歩いた疲れかもしれない。気温もあるのかもしれないが、鉄分が不足しているのかもしれない。暖かいレヴァー団子を買った。

漸く室内でのクライミングを始めた。このところの湿った天気には室内練習が良いのだが、同時にバイオウェザーが良く無くて、週末になってなんとか始めた。九回登って、七回降りた。合計して16ピッチ分であるが、短いので略8ピッチ分を二時間少々で登り終えた。トップロープのスタンダードものだったので、それほど練習になる動作は無かったが、一カ所だけはオーヴァーハング越えが上に手が届かなかった。乗り移る工夫が必要だ。相棒のを観ているとそこにすぐに手が届いていた。もう一つは矢張り長い感覚を足を腰の高さまでに上げて突破して、オヴァーハングでも左右に振って行かないと上の手掛かりに手が届かなかった。これも相棒は普通に手が届いていた。要するに双方の二か所で彼は折角の技術的な課題を練習できていなかった。それを不利とはまだ思っていないようだ。明らかにこの二か所はそうした配慮がされた手掛かり作りがされているのである。

個人的には、技術的に左右の足への荷重の取り方と言うか太腿内側で挟みこむような感覚の荷重があったのが面白かった。恐らく、体幹の使い方だ上手になって、左右への荷重の配分が出来るようになったからだろう。要するに5.10クラスの不可欠な技術に違いない。

昨年の記録を見ると十月末に始めているようで今シーズンは一週間遅れている。券の料金は同じで、30回を超えると本が取れる。来年は四月二十日が復活祭となるので、四月になって夏時間になってからも使用の可能性もなくはない。反面この冬は室外での活動も多くなるので、終日に詰めて三回ほど通うこともありそうだ。要するに日数は増える傾向にある。その基礎にはこうして書いていてもあれほど登り詰めたに拘わらず疲れが少ないのである。習慣とは恐ろしいものだ。

昨年の始まりの記録を読んで、進歩していることは変わりなく、昨年はオープンとクローズでの所謂捩じりの技術習得に終始したが、今年はそれは身に付いているので、それを基本とした上下左右への足の荷重の可変性を追求したい。車のESPスタビライザーのようなもので、四輪駆動を目指すという形になりそうだ。これとボルダーでの特訓を積むことで5.11への道を拓くと考える。昨冬シーズンの終わりの程度よりも技術的にも進歩している印象を確認できたので、ここ二週間ほどで一回り登ったところで具体的な工程表が出来るだろう。

最後の仕上げに登った五級上の垂壁ルートを、手掛かりとても小さくてもレッドポイント通過出来たのはとても良い兆候である。如何に登れるようになったかと言う証明で、まさに大岩壁向きの実力がついてきている。相棒の様子を見ると、目標が定まらないのか、完全に最初から「室内壁の世界」に巻き込まれてしまっていて、ここで幾ら5.10を登れても南プファルツの奇岩地帯では5.7どころか5.6が危ういことがどうも理解できていないようだ。

今年からドイツアルパイン協会の教育課題「室外は違う」に世界のトップクライマーでスペイン在住のクリス・シャルマが協力する。具体的な計画は分からないが、その差異の示唆だけでなく、我々の室内壁のようなドイツ養成施設をツアーで回ってくるかもしれない。そのレヴェルの達人が室内外での技術の相違や洗練・選択などを示さなければいけない難しい課題だというのが分かる。私自身、少なくとも5.10までのその差異は十二分に埋められた個人的な体験を更に推し進めて行くことになる。



参照:
宗教改革の日に始める 2012-11-02 | 暦
皆病気がちのバイオウェザー 2012-11-06 | 生活
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市民の賛否が必要条件

2013-11-13 | アウトドーア・環境
昨日のラディオニュースでの速報が良かった。2022年冬のオリムピックへの立候補を問う住民投票の結果である。当事者であるガルミッシュ・パルテンキルヘンなどの開催地の百三十万人が対象になったようである。過半数が反対に投じた。

詳しくは調べてみなければわからないが、多くの住民は緑の党を除く政治に反対票を投じたのである - 因みに先頃の選挙では保守キリスト教社会同盟が圧勝しており緑の党は負けている。

パルテンキルヘンのシュミット市長は、「全く予想だにしなかった結果で、これが当地開催の最後のチャンスだったと思う」と語る一方、緑の党のハルトマン代表バイエルン議員団は、「全ドイツではもはやオリムピックは済んだことであり、この否定は決してスポーツに向けられているのではなくて、IOCの商業主義に向けられている」と話している。

それに続いて、連邦政府で連立協議でこうした直接市民の生活に関わることは直接の賛否を問うことを前提とするようにするという考え方が盛り込まれるらしい。つまり飛行場の建設や増設の発着ルートの下に住む住民の賛否、そして公共事業の可否などである。こうした連邦共和国はまた一歩世界でトップクラスの民主主義社会に近づきある。とても喜ばしいことである。

こうした報道を聞いていると如何にも日本人の欲の皮が張っていて、その割には一部の者にしか利が無いにも拘わらず、東京に誘致する日本人が如何に恥さらしなものかであるかを思わない訳にはいかない。



参照:
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
東電解体への五輪開催 2013-09-08 | 雑感
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処方箋無し避妊と啓蒙

2013-11-12 | 歴史・時事
金曜日のアルテオパーへの途上ラディオで現在話題の話がいくつかあった。一つはミュンヘンの絵画であるが、これは改めるとして、避妊薬の処方箋無し販売の賛否を巡っての話題である。なかなか秀逸なのはSWR2社内の若い女性二人に賛否を挙げさせていることであった。当事者に近い人の意見をやらせでは無く、局内で済ませるという発想が良かった。このような話題はティーンエイジャーのそれから聞き取る以外は女性がスーパーに勤めていようが放送局に勤めていようがその意見にはそれほど差異が無いからである。

先ずは賛成の意見は、特に十代のまだ子育てには未熟でありながらセックスへと突き進んだ少女たちの立場を代弁することで、たとえば週末に性行動があったとしてコンドームが破裂してしまった時の状況をして、二十数時間以内の服用が必要な状況を挙げていた。その時に親に相談して、叱責を受けて医者に駆け込むというような状況を考えると、処方箋無しで入手できることの利点を述べていた。

次に反対意見として、同じように幼い性行動の場合に先ずは性病などの疾病から守るという保険を考えるべきで、堕胎と同じくとても危険なことだとする意見である。更に避妊薬自体の副作用の啓蒙活動が十分でなく、特に生理も不安定なこうした十代が避妊法として使うことが便利になるようなことはすべきではないとする意見であった。

恐らく薬剤師無しのネット販売などの議論とも共通した面があると思われるが、薬の販売や利用が利便性や経済性で扱われることには問題がある。なるほど処方箋や副作用に関しては薬局の薬剤師や正規の使用説明書以上に貴重な正しい情報もネットに転がってはいるが、その正否を判断するには基本的な知識や十分な教養などが要求されるので、誤用や事故を防ぐことは出来ないであろう。そのような面からも明らかに処方箋無し販売には問題があり過ぎる。

以前から観てみたいと思っていた文化庁後援の映画「パッチギ」をネットで拾った。第一話と第二話の双方を観たが、評判やトレイラーの割には良くなかった。時代背景もあるのだろうが矢張りマルキズムな視線がそこに感じられる典型的な日本映画で、そこに朝鮮民族の怨念の文化が重ねれれているので、とても程度の悪い娯楽作品になっていた。

何よりも異文化接触のハイライトへの盛り上があれだけ安っぽくフォ-ルクルシンガーズの曲に収束する作りは三流であった。あれならば流行したそれらの曲の価値を下げても上げることのない迷惑な使用だったに違いない。それらが韓国ドラマなど顔負けのじとじとした感覚で描かれるだけで嫌悪感を持つものも少なくないのではなかろうか。その湿度の差こそあれ、たけしの暴力映画と変わらぬ暴力性も受け入れられるものではなく、まさしく劇中の毛思想の「力には力の解決」がそこに描かれているだけである。未だにこうした映画が日本で制作されて興行的にも成功しているというのが日本の現状に違いない。日本文化の低落ぶりは、アジア主義の間違った政治社会の動向と並行していて、コツコツと積み上げた近代性から脱近代への流れの中でかなり文化程度が落ちているのを目の当りにするのである。

先にダウンロードしたラモーのオペラ「ゾロアステル」も全然よくなかった。ドロッティンゴームでのルッセーらフランスグループの制作のようだが、作品自体が期待するものではないことを感じさせた。

なによりもフリーメーソン的な勧善懲悪の話がそれだけの舞台演出と音楽で演じられると、正直退屈してしまった。そこには色々な背景があるのだが、そもそも作曲家ラモーの音楽にも責任があるに違いないのである。これならば冗長と言われるリュリのそれの方が遥かに高尚で今日的な意味合いが強いとなる。上の演目においても、もはや高尚な貴族のお遊びとしての古典への回帰であるよりも、啓蒙主義思想における啓蒙となると、どうしても次元が低くなってしまうのは仕方がないのである。それが機能和声の明確化として描かれると、こうした単純な世界となってしまうのだ。次はそのリュリのオペラを観て感想を述べてみよう。



参照:
TOB期間を引き続き延長 2006-06-04 | 生活
映像の賢い使い方 2013-11-10 | マスメディア批評
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体育会系枠組みの娯楽

2013-11-11 | 文化一般
クリスティァン・テツラフのバッハソロ全曲を聞いた。意欲的なプログラムはレコーディングプロジェクトと関わっているようだが、イザーイではなくバッハのそれを聞くことになった。我々の会では、ユリア・フィッシャーが少しずつ全曲を演奏していて、それがベーシックとなっている。どうしても聴衆もそれと比較することになるので、大分気の毒な感じであった。

自身にとっては、二時間半以上前にワイン街道を出たのにも拘らず、霧雨の視界の悪さと高速道路の多発した事故や渋滞といつもより一時間早い時間のフランクフルト市内の通勤ラッシュで、平常の倍以上の時間が掛かった。そのお蔭でチィクルスの第一番ト短調ソナタは聞き逃した。小ホールの少なくない人が第一部は立ったまま聞いていた。

先ずその印象は惨憺たるものであった。つまり、ロ短調パルティータ、イ短調ソナタである。そのアーティキュレーションに合理性が感じられないのである。そうするとどうしても重要なフレージングの意味合いが不明確になる。本人もインタヴューで最初の短調は演奏だけでなく理解が難しいと吐露しているように、面白さを表現していない。そうなるとどうしても先に聞いた古楽的な奏法を参考にしたフィッシャー教授の柔軟であり、しなやかに描き出すその叙述法に敵わないのである。勿論そのように演奏するようになって初めてその音楽の豊かさが感じられるようになったことは21世紀のバロック音楽に興味のある我々が漸く辿り着いた次元でもあるのだ。

そうした音楽文化的な意味合いからすればこうした20世紀型のバッハ実践が、知的な意味合いを持つことは不可能であり、たとえそれが上海生まれのヴァイオリニストであろうが、ザムビア生まれであろうが、ハムブルク生まれであろうが変わらない。その証拠にバッハに親しんでいる会員のご老体の口からは「まるでジプシーの様だ」という、屈辱に満ちた皮肉が漏れるのである。成程言葉は悪いが、それは間違いでも無かろう。こうした演奏においてドイツ語のアーティキュレーションも確認できなければなにも彼が弾く意味も無く、会員が期待するものを一切満たさないのである。

しかしである、演奏家自身が分かりやすいという後半のニ短調のパツティータの斎藤編曲でも有名なシャコンヌになって、聴衆は認知し出すのである。こうした演奏家によってはそうした文化的な枠組みではなく、奇しくも斎藤メソードや斎藤記念のような体育会系の枠組みで、つまり芸術表現に必要な技の一つとしてのそれの意味を改めて思い知らされることになるのである。大ホールで一流の演奏家がそれを行っても汗としてそれを聴衆はそれを感じることは出来ないが、こうして小ホールにおいて演奏されることで体験することが出来るのである。

個人的には、もはや重音奏法や見極めた握りをみて、スポーツクライミングにおける心身の調和と同じような技しか感じない訳であるが、そこから生じてくる音楽と言うものがあることも否定できないのであった。つまり、古楽的な奏法を入れてということで、だらっとした下がりぱなしの音程も緩やかで緩急屈伸するフレージングの山も肯定的に受け入れられるのだが、ここではそれは決して許されない。大管弦楽団と協奏曲を毎週のように世界中で演奏するこうしたヴァイオリニストにとっては、僅かなだら下がりも許されないのである。彼らは、少しでも上に乗るだけの音を保つことでそうした舞台に立ち続けているのである、そうした厳しいビジネス世界で生きていることも確かであろう。それを思うと、この演奏家がどれだけの強い意志を以て全曲演奏と言う行為に出ているかが分かるのである。それはそれで感動させるものがあるのは事実である ― 本人の弁によると大分力を抜いてアドレナリン分泌も少なく対処できるようになったと言うが。

なるほど彼にはグリュミオーやミルシュタインのような輝きも無ければ、シゲティやシェリングやまたはクレメルのような厳しさも芸もないが、「誰がこれだけのことが出来る」というかのように、ハ長調のソナタや最後のホ長調のパルティータへとベストを示すことで、それはそれなりに曲の精神を感じさせるのである。この曲順によっての全曲演奏でしか示せない世界であろう。

チェロの全曲演奏のようなロストロポーヴィッチが示したような世界でもないが、それはそれなりに魅せてくれたのは確かである。と同時に、イザーイの演奏などにも興味もあったが、こうした彼が表現するそれを聞いてみたいとは一切思わなかった。我々にとってそうした音楽を鑑賞する時間など無いのも事実であり、演奏家自身が言うようにCDなどでは伝わらない臨場感であり、ますますこうした演奏家の録音や映像などに価値が無いのを実証しているのである。その反面、世界の音楽市場と言う中ではプロモーションとしてそうしたメディアが重要な素材となっているのである。嘗て日本などでも、録音の通り演奏している舞台の外来音楽家を確認する作業が繰り返された訳であるが、そこで確認されたものとここで指す体育会系の枠組みとは全く同じことを指す訳で、全く文化的な枠組みとは関係ないことを指しているのであった。要するにエンターティメントとは対象が音楽であろうが映像表現であろうがスポーツであろうが全く変わりない作業であり、それなりの対価を設定する商業構造の中に含有されているのである。



参照:
女手で披露する音楽文化 2013-05-18 | 女
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
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映像の賢い使い方

2013-11-10 | マスメディア批評
ガーディアン紙や英語圏のニュースなどを見ると山本太郎の行動は大成功だったことが証明されている。これだけ世界的に話題になれば、その発言力も大きな意味を持つようになるに違いない。既成の職業政治家の皆が恐れていたように天才的な政治家なのかもしれない。ポピュリストとは言っても出来ないことを約束している訳でもなく、大阪のヤクザ市長のように権力掌握のためならば形振り構わず何でもありの発言をする訳でもない。兎に角、田中正造と文部科学大臣に言わせたのでその目的は殆ど達成したと言っても良いかもしれない。

同じ新聞は、ロンドン交響楽団の演奏会にプーティン一味である常任指揮者ゲルギエフへの抗議行動を報じている。この指揮者に関してはほとんど興味がないので、どちらでもよいことなのだが、文化活動ではこうした政治的な立場が問われるのは当然のことである。

先日ラディオで報道されていた。ベルリンの英米などの在外公館を外から調べるだけで。そのアンテナから情報活動をしているかどうかが分かるというのだ。盗聴などの微妙な電波を解析するためには、大使館などが重要な役割を果たして言うのは世界中同じであろう。

昨晩も大量にダウンロードしたオペラ映像の一部を観た。今回の題材はラモーのオペラ「ザラストロ」である。違う上演のCDは購入したのだが、資料がついていない安売りものなので、その字幕がとても助かる。DVDで発売されているようだが、公共放送で中継放送されたものなので既に受信料として払ってあるから、もはやDVDなど購入する必要が無い。それどころか、映像はPCなどで資料として使うのが最も都合よくて、ホームシアターなどと言って映画館もどきでそんなものを観ている暇も我慢も無い。そして、台本や構造を研究して、再びHIFIサウンドのCDをオーディオ装置で聞き直すことで、そのオペラ作品の細部まで理解できることになる。何よりもうれしいのは、フランス語の歌にフランス語の字幕が付いていることでとても語学勉強になることだ。映画と比べて細部に拘らず流せるのがとてもうれしい。



参照:
Japanese politician causes uproar by giving letter on Fukushima to emperor, AP, 7 November 2013
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
二十世紀末を映した鏡 2013-11-05 | 文化一般
僅かばかり早い、冬篭り 2012-10-15 | 暦
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観念は自由、限りなく

2013-11-09 | 文化一般
火曜日に冬タイヤにした。昨年二本だけしか買えなかったので、同じコンティネンタルTS850を二本買い足して交換したのである。最終的に安く付いたかどうかは、請求書が来るまでは分からない。これでアルプス諸国の溝の深さ最低4ミリメートルをクリアーするので冬季も安心して入国できる。

交換の間、そこにおいてある安売りのブリジストンのタイヤセットを見た。価格はホイールを入れて800ユーロ程度で割安で、大きさもAクラス用のものだったと思う。その冬タイヤのプロフィールを見て、そして触って驚いた。一つには室内であるから比較的柔らかくなっていて、摩擦係数は良さそうだが、一カ所の角などは触っているうちに外れそうになるのである。もし寒冷地ならば簡単に刃毀れするように剥げ落ちてしまうと思った。どうも日本のメーカーの冬タイヤのプロフィール開発能力は大分低そうだ。どうしてもテスト結果で、ミシュランやコンティネンタル、デュムロップ、ピレリ―などに比較するとそれ以上に評価されているのは見たことが無い。矢張り経験不足でノウハウがないのだろう。

新聞の文化欄の短報を見て驚いた。ドレスデン聖十字架合唱団が中国公演でプログラムを変更したことが、ドイツ音楽諮問会で強く批判されている。本来のプログラムに19世紀の民謡の「観念は自由」に対して、中共当局が削除を申し入れて、それを受け入れたことからである。

因みにその民謡の現行の歌詞は次のようなものである。

1. Die Gedanken sind frei
wer kann sie erraten?
Sie fliehen vorbei
wie nächtliche Schatten.
Kein Mensch kann sie wissen,
kein Jäger erschießen
mit Pulver und Blei:
Die Gedanken sind frei!

2. Ich denke, was ich will
und was mich beglücket,
doch alles in der Still’
und wie es sich schicket.
Mein Wunsch und Begehren
kann niemand verwehren,
es bleibet dabei:
Die Gedanken sind frei!

3. Und sperrt man mich ein
im finsteren Kerker,
das alles sind rein
vergebliche Werke.
Denn meine Gedanken
zerreißen die Schranken
und Mauern entzwei:
Die Gedanken sind frei!

4. Drum will ich auf immer
den Sorgen entsagen
und will mich auch nimmer
mit Grillen mehr plagen.
Man kann ja im Herzen
stets lachen und scherzen
und denken dabei:
Die Gedanken sind frei!

5. Ich liebe den Wein,
mein Mädchen vor allen,
sie tut mir allein
am besten gefallen.
Ich bin nicht alleine
bei meinem Glas Weine,
mein Mädchen dabei:
Die Gedanken sind frei!

以下に幾つかのVIDEOを紹介する。

英語・中国語字幕付き
ドイツ革命
ネーナ
反監視社会

上の歌詞で、「子供の不思議の角笛」を思い起こした人はいるだろうか?その通り、アーニムとブレンターノによって編纂されて、その時代の流れから囚人の自由への願いや思想の自由がそこに歌いこまれるようになったと言う。マーラーの曲は、更に内容を深化させて、掛け合いの歌として歌われる。

フィッシャーディースカウ

身近な例では、ギロティンで処刑されたナチ抵抗で有名な「白バラ運動」のゾフィー・ショルがこれを歌っていたらしい。

白バラ

中共の態度を過剰と笑う日本人、それはなにも知らされずマスメディアなどで洗脳されているだけなのに気が付いていないだけなのである。

考えるのは自由、公共の秩序を乱さない限りは。
考えるのは自由、特別秘密に触れない限りは。
考えるのは自由、騙され続けている限りは。



参照:
秘密保護法の馬鹿さ加減 2013-10-28 | マスメディア批評
連邦共和国文化大使の死 2012-05-21 | 文化一般
自由民主の連邦共和制 2007-06-03 | 歴史・時事
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退廃芸術の行方は?

2013-11-08 | 歴史・時事
火曜日の記者会見を受けて、FAZがトップ記事でグルリット家の絵画について伝えている。興味深いのは、雑誌の報道が事件解決に困難をもたらしていることで、実際79歳のコルネウス・グルリットが生きているのか、どこにいるのかも「関係者以外には明らかに出来ない」ということで、その押収した絵画の山の現在の所在と共に謎のままである。そして、2010年にチューリッヒからミュンヘンへ向けて列車で移動中に、通常の検査で新札の札束を持っていたこの男性がヒルデガルト・グルリットの息子かも断言されていない。ヒルデガルトには、未亡人ヘレナと他に娘のレナーテがいたとされる。因みに、ミュンヘンのアパートに家宅捜査を掛けたのは、2011年になってからであり、マックス・ベックマンのそれがオークションに掛けられたのはそれ以前と訂正されて、更なるアジトの存在は否定されている。

絵画の内容では、1942年にフランスから強奪されたマティスの「座る婦人」のほか1919年と記された未知のオットー・ディックスの「自画像」があって、ハレの美術館にあったフランツ・マルクの「馬のいる風景」も紹介されている。その他ガッシュの作品群として、シャガール、ピカソが挙げられる。その他、ココシュカ、ロートレック、アウグスト・マッケ、キルヒナー(これは既にメランコーリッシェス・メードシェンとして市立のマンハイムのクンストハーレが返還を希望している)、ルノワール、カール・シュミット・ローットルフ、クリスチャン・ロールス、カール・ホーファーなどがあるが、1937年の法に基づく押収ものとは異なるということでもある。

コルネリウス・グルリットへの嫌疑は、脱税容疑であったが、それ自体本人がその合法的な所有を証明できるならば、それ以上の罪に問えないので、当局がそれを証明する立場にはないとするのは当然であろう。相続税脱税の時効は遠に過ぎていることでもあろう。しかし、個人が所有権を主張しているマティスの作品など200点と想像される作品群は1998年発効のワシントン条約で返還される。

面白い記事に、今回の主役となったリスト作りを進めているマイケ・ホフマン博士に関連して、こうした数ある退廃芸術に関する学術的な研究を専門としている研究室や施設は存在しておらず、今回の件もそれに関して専門の彼女が任を担っているということである。

音楽とは異なり美術骨董品は、その芸術を愛でようが関心がなかろうが、こうして所持しておくだけで、それが本物である限りその価値は維持されて、それが闇で扱われようが表に出ようが投資価値が維持されるということでもある。先頃、投資ファンドの有名なコレクターである総裁が、所持していた美術品を一斉処分することになって話題となっていた。今回の件を見ると、追徴課税などを処分できる美術品で清算すれば何とかなるということならば、どのような手段で強奪しようが盗もうが時効がこればなんとかなるということにもなり兼ねない。そのような背景があるからこそ、今回押収した宝の山の所在は安全のために秘密にされているというのも納得できるのである。



参照:
Schwabinger Sensation, David Klaubert,
Der Star ist die Kunsthistorikerin, Julia Voss, FAZ vom 6.11.2013
グルリット家の負の遺産 2013-11-07 | 歴史・時事
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
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グルリット家の負の遺産

2013-11-07 | 歴史・時事
ミュンヘンのアパートから発見された名画の件はまだまだ後を引きそうだ。なによりも発見された2011年から今までその概要すら公表されていなかったこと、そして未だに1500点と言われるそのカタログすら発表されていないことなど様々な憶測をよんでいる。後者は、未知の絵画も多く含まれていることと必ずしもキャムバスものだけでなくて紙に書かれたデッサンものなども含まれているということで理解できる。前者はリスト作りの調査に手間取っているとも言われるが、その全容は正式に起訴されるまでは公表されないようだ。

最新の情報では、所謂退廃芸術として法の名のもとに召集された作品群以外にもデュラーやビーダーマイヤーのシュピッツヴェークなどの多くの作品が含まれていることから必ずしもナチの法の下に押収された作品だけでなく、パリのローゼンベルクコレクションからのマティスなども含まれることから、海外での強奪品も含めて多様多種であるということだ。内200点ほどが捜索願が出ているものと言われる。長い期間に亘って集められた父親でヒットラーの総統美術館芸術管理番であったヒルデブラント・グルリットの収集品である。

法的には、少なくともドイツ帝国の美術館などから撤収されたそれらが我々の現在の美術館に返還されることは無いようで、その根拠は合法的に美術館の持ち主であった第三帝国が放棄したものであるからと言う。しかし、その他の個人所有のものは捜査願いが出ていて、法的に証明できるものに関しては返還の可能性があるという - そしてユダヤ人の手にそれが戻されるのである。

さて事の起こりは2010年にチュリッヒに向けてスイスに入国した故人コルネウス・グルリットが国境線で引っかかったことから、何時ものように脱税容疑で捜査が入ったことで発覚したようだ。そして、ゴミや食い散らしたアパートメントの居間から1500点に及ぶ一千億円相当と言われる絵画群が無事に徴収された。その出本は、父親がドレスデンの空襲で全てを失ったと虚言したナチに関与した美術品群であるようだ。

ヒルデブラントは、必ずしもただ一人の総統美術品管理番ではなかったようだが、1938年にヨゼフ・ゲッベレスに美術品の海外での売却を依頼されるなどかなり重要な任務を担っていたことは間違いない。ユダヤ人でありながらナチの党員であったというのが全てを象徴していると思われるが、それを利用するナチの体質と言うものが改めて浮き彫りになる。正しく彼らは私利私欲のみならずそうしたユダヤ人の体質やコネクションを利用して高笑いしていたに違いないのである。そもそも国家社会主義労働党と名乗る連中が前衛芸術を隈なく駆逐していく態度は似非保守主義者などとの近似性が見受けられるところである。今回の公表への時間のずれそのものがそうしたオークションハウスや美術商網などのユダヤコネクションとの関係もあって躊躇したように感じられても仕方がない。

今回のように今頃になって眠っていた財宝が現れるのも決して珍しいことではないが、このグルリットの残した絵画の場合は、ややもするとイスラエルから狙われるようなものであったかもしれず、死ぬまで秘密にしていたのも頷ける。とても興味深いのは、今回の徴収があった後も話題となったマックス・ベックマンの「ライオン使い」がコルネリウス・グルリットが持ち込んだレムペルツのオークションに掛けられて七十二万ユーロで落とされていることで、他にも隠しアジトがあるのではないかと疑われていることである。



参照:
Marc, Matisse, Picasso, Dürer, Julia Voss, FAZ vom 5.11.2013
ミュンヘン美術品発見事件とグルリット『ヴォツェック』 (緑の錨)
待ってました!日本一!成田屋! 2010-02-07 | 文化一般
山本太郎よりも厄介な天皇 2013-11-06 | マスメディア批評
偽造する人、商う人、騙される人 2012-01-22 | 文化一般
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山本太郎よりも厄介な天皇

2013-11-06 | マスメディア批評
山本太郎「天皇直訴」手紙の中身と福島の反応と題するネット記事を読んだ。正しく、在東京独大使の分析が其の儘証明されていた。被災者にとっては共同体と天皇しか頼るものは無かったのである。その他の政府や政治家などは皆信じるに足らないものであると直ぐに気が付いていたという事実である。その気配は、明仁による世界中に流された緊急スピーチによってうすうすは感じられていたが、まさかオリムピック誘致での皇族の発言への強い不信感にまで結びつく命綱であるとまでは思いもよらなかった。同じような大災害のあった阪神の大地震のときにはそれほどまでの危機には至っていなかったのは、如何に原発事故が異質であるかをフクシマの被災者は身を以て体験したからであろうと考える。

今回のことで更に明らかになったのは、天皇は日本の為政者にとって田中正造や山本太郎よりも遥かに厄介な存在であるということである。それは、国粋主義者にとっても共産主義者にとっても同じように厄介な存在であって、如何に天皇を二人羽織のように自由自在に操ることが出来るかで権力の掌握が出来るかということでもあろう。こうした事情は、その存在が元首であろうが象徴であろうが同じくしていて、その存在自体が問題なのは山本太郎と同じなのである。これが否定しようもない事実であり、日本の実体そのものなのである。それを好悪ではなく、事実として認知することそこからしか日本人にとっては科学的な思考もあらゆる学問も始まらない ― まるで三島由紀夫の言い分のようになってしまった。

雨の合間にパンを取りに行って、17分、2974歩、沢沿いの往路をゆっくりとジョギングして8分であった。こうしてゆっくりと足を進めると、散歩していたときのように様々なことを考えながら走ることが出来る。それでも復路で頑張ったので脈は十分に上がっていた。復路では犬を連れた比較的高齢な大柄なご婦人二人が走ってくるのと入れ違った。初めて見かける顔なので普段は違い場所か時間を今日は合間を抜いてやってきていたのだろう。

途上話題のニュースの続報がラディオで流れていた。ミュンヘンの普通の近代的なアパートメントから1500点以上の名画が亡くなった老人コルネリウス・グルリットの遺品として表れたと雑誌フォーカスで紹介された話である。ピカソやらマティス、シャガール、フランツ・マルク、エミール・ノルデ、マックス・ベックマン、マックス・リーバーマンなどで全て合わせると一千億円以上の価値があるという。恐らくナチの徴収ものとされるが、既に母親の死亡時に本拠地ザルツブルクで財務捜査が入っていた。

グルリット氏の同名の祖父コルネリウスは、有名な美術史家で、風景画家の子息であり、作曲家のグスタフ・コルネウス・グルリットの甥と名門出である。日本で有名なユダヤ系でありながらナチ党員であったグルリットさんと従兄にあたる父親ヒルデブラントはヒットラーの画商であった。その独自の政治的な位置がこうした隠されたヒットラーの選んだ残り物の戦利徴収品の発覚となったようである。

田中正造に関しては、最近はフクシマ禍との関連で語られることが多い。実際、その名を耳にしたのは小出助教の話と地元のsaarweineさんの口からで、足尾銅山との関連で地元では決して忘れてはいけない人物のようであった。さて前述の行為は政治社会的にはどのような意味合いを持つのかはわからないが、少なくとも在京大使が言うフクシマの被災者の気持ちと天皇を繋げるという極インティームで素朴な感情を満足させるという本来の「メディア」の働きを果たしたことだけは間違いない。



参照:
Seriöser Herr von nebenan, Jörg Häntzschel, Cathrin Kahlweit und Antonie Rietzschel, SüDZ vom 4,11,13
ミュンヘン美術品発見事件とグルリット『ヴォツェック』 (緑の錨)
独駐日大使からの福島報告 2011-06-29 | 雑感
天皇陛下!万歳!万万歳! 2011-04-06 | 雑感
秘密保護法の馬鹿さ加減 2013-10-28 | マスメディア批評
コメント (2)
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二十世紀末を映した鏡

2013-11-05 | 文化一般
先頃逝去したパトロス・シェロー演出オペラ「ルル」を観た。写真や抜粋では知っていたが、全編を通して観るのは初めてである。VIDEOテープを上げたようで状態はとても悪い。制作はドリームライフと称する日本のものであるが、本国フランスのパリでも闇で高く売られているらしい、要するに1979年にアンテヌデューがチェルハによる補筆初演を生中継したものは正式には出ていないようだ。恐らくどこかでホームヴィデオで録画されたものが海賊版として日本で出ていたようだ。字幕も入っていてクレジットも入っているが、映画の字幕のような仕事ぶりである。兎に角、今やネットにありとあらゆるものが転がっている、

さて、音は全曲スタジオ版を知っているのでそれほど雑音ほどに質の悪さは気にはならなかったが、映像も劣悪ながらも珍しくオペラとして通して鑑賞出来た。その理由は、矢張り卓越した演出に他ならない。バイロイトの「指輪」の時にはあまりにもコンセプトに視点が向かったが、これはその音楽の精緻さに相応してと共に劇表現としてかなり肌理細かな演出がなされていている。その一方コンセプトとしては冒頭の前口上時に映される「人間動物」の所謂マルキストの指すブルジョワ―が映し出されることで明確となる。

そもそもシェローはマルキストとは思われるが、英術家として社会学的な視点を持った大演出家であり、イデオロギーを離れて広く知的な劇場空間を繰り広げた芸術家であったに違いない。映画などももう少し観たい今年逝った最も惜しまれる人物だった。

そしてこの映像でその劣悪な音響からもレコーディングの高音質アナログ録音からは気が付かなかったような重層の音楽構造が見え隠れするのは、演出がその主旨をしっかりと表現しているからにほかならなく、そのテクストの秀逸さも味合わせてくれるのである。音楽だけではそのアナリーゼ無しにはなかなか気が付かない構造をこうして表現してくれるのが良質のオペラ演出なのだ。それにしてもこの音楽の美しさは尋常ではなく、二十世紀の系譜である以上に精華の源の一つであったことを百年が近づく今こうして分からせてくれる。

なるほど演出家自身が語るルルのその性の存在の説明以上に、その演出の舞台としてこの演出家がいつもするように作曲創作の1930年の同時代を舞台化することで、1979年2月のパリのそしてその同時代がここにその時代の生理として十二分に表現されている。正しくこれが芸術であり文化であり、社会学的な視点を我々に示してくれるのである。

ユダヤ女であろうが、ジプシー女であろうが、その女が我々に及ぼす、深いセクシャリティーである金の力や実体無き市場への射幸心はそのもの時代の不安であり永遠の不安でもあるのだ。その意味から、ここで繰り広げられる殺戮と死の情景ほどその必然性を感じさせるものは無い筈である。芝居としても十分なリアリティーを表現している。そしてその焦燥感や昂揚感そしてその絶望の生理こそが動物を人間としている実在そのものなのである。

処女鉄道株の暴落やパリでの革命騒ぎ、切り裂きジャックによる終結へと、ありとあらゆる社会生理は原作通りであって、それが1979年パリの劇場に展開した。正しく1900年代冒頭の原作をアルバン・ベルクが十二音技法を駆使して1930年のそれに映した鏡がそこに突き立てられたのであった ― 有名な音楽技法の逆行に相当する場面の背走の群の動かせ方も芝居に包み込まれていてこれほど秀逸なリアリズム演出を知らない。そしてその後の二十世紀の歴史をみれば、こうした文化芸術的な出来事に無関心であったり、その真意を理解できなかった人たちの未来が映されていたことがここに記録されているのである ― 当時は東京には国立音楽劇場は存在しなかったが、仮の話として、これが共同制作として上演されていたとしてもフランス人や欧州人のようにはこの舞台から近未来を描けなかったに違いない。それはなぜか?日本人の知能指数が低いだけか、違う、その原因こそが現在の日本を形造っている。



参照:
不可逆な一度限りの決断 2006-01-25 | 女
今は昔の歴史と共に死す 2010-03-22 | 雑感
間違った国策と呼ばれるもの 2013-10-11 | 文化一般
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雨がちな十一月の週末

2013-11-04 | 生活
足腰に堪えている。運動時の外気温にも依るのだろう。腰の裏側のみならず、鼠蹊部から太腿内側が筋肉痛である。上体は使っているのにも拘わらずそれほどの疲れは無い。強いて言えば通常は肩に来るのだが今回は肘周辺に来ている。つまり捩じりの動作が多かったのだろう。掌幅の割れ目登攀は基本的には割れ目内に手掛かりを求めるものだから、どうしても腕には捩じりが入る、そして下半身は上体の左右に振るために右へ左へと足場を求めて下半身を突っ張るためにどうしても膝上の捩じりと突っ張りが必要になるのだ。ここまで根詰めて登り、走り込みをしているにも拘らず、流石に続けることが出来ないほどの疲労の沈着は無かったが、こうして疲れるのがとても不思議なのである。それどころか腹筋や上腕にも筋肉痛を感じるようになったので、前日水曜日にボルダリング視察で試したそれが堪えていることも分かってきた。

そこでパン屋日曜閉店の冬シーズン始まりに因んで、近所の山道を走った。バムビには会えなかったが、身体慣らしの心算で、通過地点で1200歩、10分は明らかに歩数が少ない。前回走ったのは通過地点まででシャモニ帰りで高度に順応している時だ。そこで、1390歩、8分であった。急坂であるから歩数は減るようだ。更に緑のベンチまでは、2349歩、15分であった。そこから頂上まで行く元気は無かった。降りて、4193歩、28分で車に戻ってくると、雨が降り出した。先ずは今シーズンの基準となるだろうか。お蔭で体の凝りが取れた。

2010年早開けワインは、今回はバッサーマン・ヨルダン醸造所のイエズイーテンガルテンである。通常はクリスマスに残しておくようなものであるが、先のクリストマンのイーディックの件もあり早く飲み干してしまう方が得策と感じた。BJのグローセスゲヴェックスの最大の問題点は綺麗に熟成しないことに尽きる。木樽を使わないといけないと言いながらその割合はほとんど増えていないに違いない、そして天然酵母の自然発酵を断念した醸造技術の欠陥が、グローセスゲヴェックスに期待される瓶熟成を不可能にしている。同じような傾向は、ロベルト・ヴァイル醸造所の木樽比率が低かったので、グレーフェンベルクにも明白に見られる。

イエズーテンガルテンで十分に力もあるのだが、その酸と糖の溶け合いが今一つで、ややもすると残糖感が出やすい方に向かう。最大の魅力は、イーディックの苦味とは異なり果実風の後味である。それは、醸造法の相違でもあり、培養酵母と天然酵母の違いでもあるだろう。イエズイーテンガルテンの方が万人に受け入れられるが、必ずしもイーディックよりも質が高いとは言えない理由がここにある。正直一本を空けるうちに飽きが来るようなグランクリュなど意味があるのだろうか?

さて体の疲れを癒してくれるワインはあるだろうか?ここらでフリュ―リングㇲプレッツヘンの登場か、それとも我慢してオェコノミラートの最後の一本に手を出すか?無くなると寂しくなる一本だけに考えものなのだ。もう六本余計に買っておくべきだったか。



参照:
ガブリエリ・ルッペに学ぶ 2013-07-23 | 文化一般
酸分解における貴腐とは 2012-07-24 | ワイン
教えたがり面倒くさがり 2012-02-21 | 生活
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胸元を飾る艶やかな金髪

2013-11-03 | 
ブロンドの彼女の株が上がる。久しぶりに顔を見た。またまた美しくなっていた。特別なことをしているのではないが、いつもの自慢の金髪に磨きをかけながらも、その多くをヤッケで隠すという高等な魅せ方をするようになってきた。十分に朝早くから身作りに時間を掛けたに違いない。

恐らく彼女の最も外見的な弱点は胸元の貧弱さにあると自身考えているのではないかと思うのだが、それをヤッケとその胸元に上手に入れ込んだ金髪で豊満なふくらみとして魅せているのである。その効果は覿面で、自然に彼女の胸元にショールのように現われる美しい髪に目が引き寄せられる。髪の色目によって本来は変わらない筈なのだが、その髪の質がとても柔らかくて、通常の衣料素材では不可能なふくよかさに達しているのである。なるほどヤッケの色に対して明るい光沢のある手入れの行き届いた艶やかなブロンドであることが決め手になっているのは間違いない。色合いは異なるが殆どミンクか何かの最高級の毛皮素材のように見えるから恐れ入った。

そして、その指先に視線を移すと、ヴィオレットのマヌキュアに気が付いた。初めて色を付けているのを見た。一般的にそれほど感心はしないのであるが、色合いと言い、金を掛けないお洒落として、全体的にけばけばしない品の良い印象は決して悪くは無かった。寧ろ、こうなると完全に男は焦ってしまうのである。全く脈が無いことならばどうでもよいのだが、あのような女ぶりを魅せられてしまうとここで引っ込んでしまうことは出来ないのは当然であろう ― 何か全て見通されているような気もしないでもない。

まさしく株が上がるように、彼女の魅力に磨きが掛かってくると、どうしてもという気がむらむらと沸き起こってきてしまう。これは一体どうしたことだろうか?彼女のその辺りの計算上手は尋常でなく、天才的というしかないのである。それにしても女性の実力とはこれほど強烈なものであるのをおもい知らされる。



参照:
神々しい微笑に映る魂胆 2013-08-19 | 女
自己分裂の葛藤の日々 2013-10-22 | 女
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緑カリフラワーカレー

2013-11-02 | 料理
必然的に重くなりそうなリースリングを開けて行っている。特に2010年でなければ購入しなかったようなものは早く開ける。その筆頭がイーディック2010年産である。VDP会長のクリストマン醸造所の目玉グローセスゲヴェックスであるが、良いと思ったことは一度もない。それでも、購入したのは強い酸が効けばどうだろうかという期待があったからである。

鳥胸肉と緑のカリフラワーのカレー煮をしたのでそれに合わせた。緑のカリフラワーは初めて料理するが、おまけに八百屋で貰ったものである。やはり白い通常のものと比較すると売れにくいようで価格も倍以上する。しかし栄養素は、アスパラガスとは反対に光を浴びている分白いそれよりも豊富なようだ。調理してみて感じたのは煮崩れし難くて、最後までサクサクとした感触が楽しめる、ブロッコリーのような独特の味を持っていないので使える食材であるということである。

さて、ワインはカレー味には予想通り悪くは無かった。本来は、シェーンレーバ―醸造所のフリュ―リングㇲプレッツヘンを開けようかと思っていたのであるが、あまりに繊細過ぎて勿体ないと思って、ハーフボトルのイーディックにしたのである。今まで新旧合わせて最も良かったイーディックであった。それでもハーフでもその価格は殆どPC級に等しい。13.5%のアルコールがどのように効いているかはわからないが、例年に比較するとコムパクトな味筋で、酸も量感はあっても丸くなっている。明らかに石灰の減酸の影響其の儘で、偶々土壌との相性が良いので、違和感は感じなかったが、もはや置いておけば色だけが濃くなっていきそうな勢いである。クリストマン醸造所の醸造では2010年はあまりもたないに違いない。

食事との相性も良好で機嫌よく、どってりした味筋ながら楽しんだのだが、翌日人に試して貰うと苦いと言い出すのである。なるほど後味が正露丸とまでは言わないが苦汁である。食事のときには酸との相性で全く感じなかったが、土壌のミネラルというよりも明らかに醸造法の問題であると確信した。果実風味が豊などというような評価も一部ではあるようだが、実際はその正反対の還元醸造法からくる苦汁系のリースリングがここの特徴である。

甘辛の日本の食生活に何故か好まれ、本来ならば苦味に弱い日本の舌にもその点が問題となっていなかったのは不思議なのであるが、恐らく酸とのバランスのとり方でそのような印象を与えているのがここのリースリングの特徴なのであろう。残糖の後味に弱い私自身、人に指摘されなければ分からなかったのであるが、天然酵母での綺麗で繊細なリースリング醸造が如何に難しいかを改めて教えてくれたハーフボトルであった。



参照:
黒い森の新旧エコシステム 2012-02-15 | 料理
虫歯なしのお祝い事 2013-04-23 | 雑感
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