徹夜してもできるかどうだか、大きな壁にぶち当たっています。今日はとてもいい天気で、午前中ちょっとだけ散歩に出ましたが、その後レポートにかかってます。
でも、考えが文章にうまくまとめられず、昼寝をして休憩したり、夕飯のあともまた夜寝をしたりして、全然はかどりません。いやだから寝てしまうのかな。そんなに寝たのにまた眠たくなる始末です。
夕飯の材料を買いに夕方また外に出ました。車が停まってます。車を見ると運転しなくちゃという反応が、条件反射のように出てきてしまう。そして、焦る。昨年、免許をとってからというもの、そのビョーキは始まった。それは、一種の強迫観念のようなものでもあります。これは、一生続くのかな。
でも、車に乗っているどころではないので、1週間くらい乗らなくたって大丈夫だよと自分で自分の気を落ち着かせるしかありません。これは絶対にビョーキです。
私にとって、車の運転は大きな挑戦だった。自動車学校の先生は皆、普通にはない「厳しさ」を持っていて、甘えやいい加減さは許さなかった。「お前のようなものに運転は許されない」というかのような空気。それを乗り越えたいという挑戦の気持ちはあったと思う。そして、それは今現在も続いている。まともなドライバーとして、その1人と認められたい。車に乗るときの一種の緊張は、ほかにはないもので、それは、なぜか、免許をとる時に刷り込まれてしまった。
夫は、車の運転をしないが、駐車場の車の運転席に座って合図確認のまねをしたりしている。そのときに、ジャージにサンダルのような格好である。いくら本当に車を運転しないからといって、そんなだらけた格好で運転席に座り、サンダルでブレーキペダルを踏むなんて私には考えられない。しかし、人の精神構造はどうにもならない。道路に痰を吐く男も信じられないが、それを何とも思うことのできない本人を、他人がどうこうすることはできないのだ。車に対して一種異様な意気込みを持ってしまっている私も、他からみるとおかしなものかもしれないが、これもどうにもならない。やらなければならない宿題は、どんどんやってしまえばいいものを、そこでぐずぐずしているのはなぜなのか、自分にもわからず、他人にはますます理解できない。
みんな、ビョーキだ。
自然は、人間をなぐさめ、安らぎを与える。でも、紅葉を眺めたからといって、やるべきことから解放されるわけではない。何を大げさなことを言っているのだろう。簡単なことじゃないか。適当に済ませることも一手かもしれない。要領が悪い。かまえるからできない。こんなことなら、初めからやらなきゃよかった。
昨日、変な夢を見た。受験までは未だ何カ月もあった。そうだ、中学1年から順に英語の勉強をしていけば、まだ間に合う、と思ってやり始めようとする夢。高校3年のはじめくらいに、中学1年からって、それは気の遠くなる作業。それでも時間はある。やる気になれば間に合う期間だ。いまだ、受験のトラウマ、英語のトラウマに取りつかれているらしい。こんな夢は昔良く見た。いつもこれから大学を受験しようとする夢ばかりだ。そして目覚めるとすでに関係ない年齢になっているのだ。
放送大学は普通の大学とは違う。それは明らかである。放送大学は生涯教育の意味合いが強い。これから職業につくための大学ではないし、専門家になるための大学でもない。教養学部だ。
また、いい加減支離滅裂になってきた。ただ、苦しみを避けるために油を売っていただけですよ~