山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

突然、今さら、今でも足尾銅山事件

2008-11-20 00:45:57 | 環境
・環境社会検定試験(ECO検定)を受ける予定です。試験は、12月21日です。
そこで、毎日、ほんの少しずつ勉強をしています。
今日、難しかったと思った問題は「足尾銅山鉱毒事件」についてのものでした。
中学の頃、社会の教科書に載っていたようですが、あまりよく覚えていませんでした。

足尾銅山ってどこにあるのか?群馬かと思ったら「栃木」でした。
足尾銅山は江戸時代に発展した銅山ですが、明治になってさらに発展し、20世紀の初頭には日本の銅産出量の4分の1を占めるほどになったそうです。
しかし、銅の精製時に出る排煙や鉱毒ガスなどによって、酸性雨が降り、近辺の山が禿山になってしまい、木がなくなった山は土が崩れ、それが洪水の原因ともなりました。
また、洪水のときに鉱毒も川の中に流れ出てしまい、それによって川の周辺の土壌が汚染され、稲などの農作物が大きな被害を受けました。この川は「渡良瀬川」です。
この渡良瀬川から農業用水をとっていた群馬県山田郡毛里田村でも被害が大きかったそうです。被害はさらに下流にも及びました。この問題に対して、代議士田中正造が農民運動の中心となって活動しました。
この事件は、明治時代後期に発生した日本の公害の原点といわれるもので、1899年の推計でも1000人以上の死者がでています。
その後も銅山は1973年まで、工場は1980年代まで続き、現在も、2007年の水質検査において環境基準を上回る汚染が観測されるなど、環境破壊は完全に回復されたわけではないようです。

「足尾銅山事件」なんて、古~い話という気がしたのですが、今でもこの地域は公害の痕跡が消えていないのですね。実は過ぎ去った過去の話として片付けられないなと思いました。

そして、今、中国などでも工場による川の汚染などが激しいようなので、なんとかしないと大規模な公害の被害が発生するのではないかと危惧されます。

コメント (2)

今日もただの日記

2008-11-18 19:04:49 | 日記
・豊かな日本
昨日、お米を切らしてしまったので、今日は米5キロをスーパーで買って帰ってきました。
そのほかに様々な食材を買って、自転車にいっぱい載せ、それから、ペットショップに行って、ウサギの干草を買いました。干草もちょうど食べ終わってしまったところでした。
ペットショップで買物をするとき、米やたくさんの食材を、自転車のカゴにそのまま置いて行きました。
しばらくして戻ってきたら、それらの品物はちゃんと自転車のカゴに載ったままでした。
置いて行く時に、取られるかな?なんてことも思わないし、戻ってきて何事も起こっていないのはあたりまえのことでした。
でも、これが外国だったら、こんなわけにはいかないんだろうな、と思いました。
自分の荷物から目を離したら、あっという間に奪い去られたりしてしまうんでしょう。
日本はそれだけ豊かで、幸いにも、日常の食べ物を買うのに困るような人は、あまりいないということですね。

・忍び寄る不況
しかし、アメリカのサブプライムローンの破綻から始まった金融危機によって、なんかじわじわと不景気のにおいが迫ってきています。
株が下がって損をするのは投資家だ、なんて、そんな段階じゃないでしょう。
投資をする人がいなくなったら、本当に多くの会社がつぶれてしまうんだ。それに、業績が上げられなくなり、赤字に転じた大企業は、まず子会社を切り落とすし、非正社員を解雇したりする。そんな動きはもう次々に起こってきている。

実際、私の勤める会社の取引会社(大企業)では、まず、複数の子会社を解散させてしまいました。そして、工場を閉鎖したりもしています。
これは他人事じゃない。その会社はそうやって無駄なものを削り、本体だけは打撃を被らないようにし、生き残ろうとしているけど、うちの会社への仕事の発注も減る可能性が高い。子会社を解散した影響は親会社にはないとのことだが、親会社も苦しいに決まっているのだ。
それで、この世の中、そんな状況で、いろんな会社からいっぱい失業者が出たら、もう、路上に自転車なんか置いて、その上に買い物の荷物なんか置けなくなるに違いない。
すでに、国内ではトヨタに関係していた外国人労働者などが大量に失業しているし、日産なんかも大量解雇を始めたようだ。
日本だって、日常の食べものも買えなくなるような人が出てきたら、無防備な他人の持ち物につい手を出してしまう人も増えてくるかもしれないのだ。

本当に深刻なことである。
平和で豊かな日本が続きますように。
コメント (2)

ただの日記

2008-11-18 00:04:50 | 日記
・訪問者数
このブログの訪問者数は普段は、1日100前後、閲覧数は300前後というところだ。
ところが、昨日は、訪問者数が217、閲覧数が1115と、珍しく多かった。
なんでだろうと思うに、おそらく、「容疑者Xの献身」が原因でしょう。
それにしても、パソコンで「容疑者Xの献身」と書こうとすると、必ず「容疑者Xの検診」と出るので、容疑者が健康診断をしている様子を連想してしまうこのごろです。
そういえば、このブログに健康診断だの検診だののことは時々書きます。そして、私は誰にも献身していないので、献身という文字は一発では出てきませんね。

・忘年会
会社の忘年会があるため、出欠確認の回覧が回ってきました。忘年会はパートタイマーも参加の対象になっています。
私は、最初の年を除いて、2年目・3年目と2回出席しています。でも、他のパートさんたちは、ほとんど出席しません。
それで、今年はもっとしっかり誘ってみようかなと、同僚に声をかけてみたのですが、やはり答えはノーでした。
なんか、会社の人たちと交流したいとは思えないらしいです。なぜなのかわかりませんが、興味も関心もないし、これ以上の付き合いはゴメンだというふうでした。会社とは関係なしに、パートタイマーだけの忘年会ならやりたいとのことでした。結局、正社員や上司に聞かれたくない話などをしたいってことかもしれません。
後は、今日いなかった新人さんを誘ってみようと思います。
私は、せっかくの機会なので、正社員の人たちとも仕事以外の話などして気心が通じるようになりたいと思っています。


・上司の性格
仕事のことは、このブログには書いては消し、書いては消しを繰り返していますが、今日も上司のやった仕事に、ちょっと唖然とする部分がありました。
簡単に言えば、完成度が低いんじゃないかと思うわけですが、思い当たるところ、関係会社(顧客)である先方に原因があります。その会社は結構、無理難題を押し付けてくるようです。それで、そんなことはできないと言って、実際、辞めてしまった几帳面な社員さえいたのですが、この上司の場合は、先方の要求に対して絶対に「できない」とは言わない人です。ただ、無理なものを引き受けるからには、それなりのものになるよ、ってことだと思います。
それも1つの方法なんだろうなと思います。
それでも、その会社と長い付き合いをしているということは、先方もそれでいいってことなんでしょう。多少の難点はあってもとにかく消化してくれということなら、それはそれでいいわけでしょうね。
几帳面な相手には几帳面に、ずさんな相手にはずさんに対応するってのも、生きていくには必要な方法かもしれないなと思いました。
コメント

傘の話

2008-11-17 00:54:29 | 日記
今日は、1日雨が降ったり止んだりだった。
コンビニに買物に行き、傘たてに傘を置こうとしたら、私の傘にそっくりの傘が先に置かれていた。
2本の傘は、どっちもベージュだが、多少茶色っぽいか黄色っぽいかが違っていた。
おそらく外出先で雨に降られ、500円くらいで必要に追われて買った傘である。このごろは、透明のビニール傘ではなく、無地で色のついた傘が売られている。
こういう傘は、ありふれているし、買ったときにもよく見ていないので、自分の傘がどのような色合いなのかも、ちゃんと認識していないことが多い。私自身、この2本の傘が並んでいたら、どっちが自分のかわからなくなってしまいそうだ。
もともとそんなに思い入れがあって買ったものじゃないのなら、入れ替わったところで、たいした問題でもないが、やはり一旦自分の所有物になったほうの傘が自分の傘であって取り替えられたくはない気分だ。そこで、ちょっと離して、立てかける角度などを特徴づけて置いてから、店に入っていった。
店を出るとき、先客の傘は相変らず置きっぱなしになっていたので、間違えて取り替えられることもなく、自分の傘を持って帰った。

そんなことがあって、思い出したのだが、この間テレビで、どれが自分のビニール傘かという3人のコントをやっていた。1つ壊れかけたビニール傘があって、誰もがそれは自分のではないと言い張るコントだった。たしかに、ビニール傘はどれも似たようなもので、判別は難しい。知らずに入れ替わっていることもありそうだ。

我が家の人間は、雨に降られて傘を買うことが多く、そんな傘がいっぱいあるので、まともな傘をあまり使わない。次女はいつもビニール傘を使っている。学校は人が多いので、自分の傘がわからなくなるんじゃないの?と聞いたことがある。
すると、ビニール傘なんて同じだから誰のでもいいじゃん、というような返事が返ってきた。へえ~、最近の若者はそういう感覚らしい。
それにしても、自分の傘がないのに、人の傘を持って行く人はさすがにいなかろうが、娘がバイト先にビニール傘を持っていったところ、みごとに持ち帰られたそうだ。その日、娘は遅番で雨が降り出してから出勤したが、早番の何者かが、娘の傘をさして帰ってしまったらしい。ビニール傘だからやられたと言っていた。
ビニール傘は安いので雨が止んでしまえばもう用はなく、置き去りにして放置してくる人もいるため、あまり貴重なものという感覚がない。そういう傘だと思って拝借する人もいるのだろう。しかし、雨が降った場合は、急に貴重なものに変化するので、そのあたりのギャップが大きい。取られたほうは悔しくてたまらない。
ビニール傘がどれも同じというのはそのような点で問題がある。

ビニール傘が無個性であるということで、面白いなと思ったのが、長女の就職活動のときだった。就活で、雨が降った場合、いったいどんな傘をさしていくのがふさわしいものであろうか。傘がぼろぼろなのはよくないだろうし、あんまり派手な傘もどうだろう。服装が黒のリクルートスーツだといって、傘まで男のような黒ってわけでもなかろう。そこで長女に聞いてみたところ、「ビニール傘だよ」とのこと。
なるほど、ビニール傘は無個性でいい。派手でもなく地味でもない。値段も安価だからといって、本来が臨時的なものだから、貧乏くさいということはない。
これはどんな傘を持っていこうかと迷う苦労もないし、万が一訪問先の会社に忘れてきたところで、どうということはない。

ビニール傘は、所有者についても個性についても、何も主張しないってことかな。
日本は雨が多いから、ビニール傘や無地の安価な傘がいっぱい製造販売されていて、それがこの国のひとつの特徴なのだそうだ。

ステキな模様やデザインの傘を持つというのも楽しみのひとつではあるが、どうしてもビニール傘や無地傘を使う頻度が高くなる日常である。

    

コメント (2)

変な例外2

2008-11-16 19:42:06 | 日記
「私は“晴れ女”なのよ」と断言している人がいる。
その人が、旅行などに行く日は、必ず晴れるのであって、絶対に雨にはならないそうだ。
たまに、雨でも降った場合は、同行者に強烈な“雨女”がいるのであって、
その女が原因なのだそうだ。
“晴れ女”も“雨女”の力にはかなわないということだろうか。

強烈な“雨女”さえいなければいつも晴れるのだという話を聞き、
「そういえば、以前一緒に旅行に言ったとき、すごい大雨が降ったじゃないの」と言ってみた。
そのときは“雨女”は同行していなかった。

そうしたら、その人曰く、
「あれは、雨じゃなくて、台風だったじゃないの。台風はしかたがないわ」とのこと。

は?
台風は雨ではないのか?
台風は雨天の中で例外か?

台風だって雨は雨ではないのかな~

インフルエンザは風邪ではないという人と
台風の大雨は雨天ではないという人
なんか、変だな~
コメント (2)

変な例外1

2008-11-16 19:32:59 | 日記
絶対に風邪をひかないと自慢している人がいる。
ずっと皆勤賞だったとか言っている。
でも、そのひとはインフルエンザで何日か休んだりしている。
しかし、ある学校では、インフルエンザは普通の風邪ではなく、
伝染病で避けるのは不可抗力であり、
さらに他人に移してしまうと大変なことになるから
出席停止となって、それは風邪で休んだことにはならないそうだ。
幼稚園ではそんなこともあったけど、学校でもそんなところがあるらしい。

つまり、この人は、風邪で休んだことはなく皆勤賞だけど、
実際にはインフルエンザで休んでいるのだ。

一方に、インフルエンザにもかからないで皆勤賞だった人もいるわけだが、
インフルエンザを例外とするなら、その差は「ない」ということになる。

そんな人が、会社員になって、
インフルエンザの診断書があれば会社は欠勤にはならない
などと思ったら
大間違いだよ。

欠勤は欠勤なのさ。
その分を有給休暇とは別枠の
特殊な有休インフルエンザ休暇にするという会社も
あんまりないと思うよ。

コメント

おかしいよね

2008-11-16 13:22:13 | 日記
人はたまたま自分に向けられたわりあてに何か特徴があると、変なかんぐりをしてしまう。

たとえば、ロッカーの位置が一番奥になったとか、一番入り口になったとか、古かったとか新しかったとか、そういうことはたまたま起こった可能性が高いのにも限らず、どうして私がここなの?などと思う。

そうかと思うと、他の人は、自分の席はどうして窓際なの?、壁際なの?、おちゃ台のそばなの?、出入り口のそばなの?上司の前なの?○○さんの隣なの?社長からパソコンが丸見えの席なの?人の通り道なの?プリンターのそばなの?とそれぞれに気にする。

私に会社やめろって意味?私が信用できないの?私目をつけられてるの?私にお茶くみをしろと?などと様々な詮索をしている。

どうして私の椅子は古いの?
なんか私のパソコン変なんですよね。
私のマウス調子わるいんですよ。 等等。

そんなことを耳にして、な~んだ、いじけ虫に限らず、自信満々の人まで、みんなそんなことを感じてるんだなと思ったことがある。

先日、年末調整の用紙が配られた。
ところが、私のところには配られていない。
しばらく待ってみたが、相変らず配られない。
私を除外する気か~~~?
と思い、総務に催促メールを送りつけようと思いきや、

ありましたありました。
書類入れの下のほうにうずまってた。
な~んだ、ちゃんと配布してくれてたんじゃない。

思い込みと被害妄想に気をつけよう。
コメント

株の講座

2008-11-16 10:44:58 | 日記
先日、株についての講座というものを初めて受けてみた。
内容は「株主優待」に関するものだ。
以前、衣類の会社の株を持っている知人が、その会社から商品券が何万円分も送られてくるなどといっていて、それだけでも得だと言っていた。
そこで、今回、たまたまそんな内容の講座が夜開かれるので、どんなものか参加してみた。

たとえば、人気一位の「ダイドードリンコ」は、100株以上持っている人に、年に2回3000円相当の自社製品が贈られる。ちなみに昨年のある時の株価4580円で計算すると、100株買うには、45万8000円必要ということになる。そのほかに、証券会社への手数料とかも必要になるだろう。
他に人気のある会社の例としては、マクドナルドは食事優待券1冊、全日空では搭乗割引券、オリエンタルランドではディスニーランドパスポートなどがある。
株主優待を実施している会社は上場企業の中の4社に1社の割合となっているそうだ。
どうせ買うなら株主優待のある会社のほうがいいなと思う人が多いだろう。

結論的には、株主優待として得られる特典は、銀行の利子よりも良いようだが、株が下がったり、最悪の場合は株券が紙切れになってしまうこともあるから、リスクは大きい。
株主優待だけを目的に株を買うというわけにはいかない。
単に、優待だけを望むのであってリスクを避けたいのなら、懸賞に応募するほうがいいかもしれない。

しかし、株を買うということは投資だから、社会貢献ではある。
株は博打と同じだなどという人もいるが、競馬やパチンコなんていうものは、本人が楽しむことにお金が使われるだけである。自分が当たって儲かったところで、人が外れて損をした分がこっちに回ってくるだけだ。
宝くじも同じであり、100万円もくじを買ってたまたま当たったところで、自分が得をするだけであり、外れたところで、あたった人のところにお金が移動するだけだろう。

よく宝くじを何十万円分も買っている人がいるが、株を買ったほうがよほど意味があると思える。自分が損をする結果になっても、そのお金が株式会社の事業のために有効に使われるからだ。
たとえば医薬品の開発を応援したいと思うのであれば、製薬会社の株を買うなどということができる。たとえ株価が上がらなかったとしても医薬に貢献したということになるわけだ。
宝くじだったら、自分の出したお金が、1億円の宝くじを当てたどこの馬の骨ともわからない人間のものになってしまうだけである。

とは言え、1枚300円の宝くじを10枚買うのも苦しいような人間が、なけなしの貯金をはたいてリスクの高い株を買うということはなかなかできるもんじゃない。
ということで、私の場合、たぶん実行には移らないだろう。

株主優待は商品や商品券や各種割引などの各種特典が得られるが、やはり持ち株の量に応じるため、冒頭に書いた商品券が何万円分も送られてくるという人は、何百万円分もの株を所有しているのだろうと思えた。

「知って得する株主優待」という冊子をもらったが、それはあたかも普通の商品カタログのようでさえあり、何がもらいたいかな~、飲み物がいいかな、ビールがいいかな、お米か?優待券か?などと、お歳暮を選ぶような気分で楽しんでみてしまうのだが、その会社の株を買うとなると、株価はこれから上がるのか下がるのか、社会状況はどうなっているのか、この業界はどういう見通しなのか、どんなリスクがあるのか、いつ買っていつ売ったらいいのか、などということを吟味しなければならないわけで、もうわけがわからなくなってくるのだった。

「ノエル」という不動産関係の会社は、バスタオル・ミネラルウォーター・観葉植物・お掃除ギフトセット・ハウスクリーニングなどの中から持ち株数に応じて何点かを選択してもらえるということで、主婦には人気だったようだ。会社としても、業績を上げており、黒字だった。にもかかわらす今年のリーマンの倒産に関連して、この会社は倒産してしまったという。このようなことが現実に起こっているので非常に難しい。

受講者の中には、具体的にそのようなことを見据えた上で、良さそうな株を選び出し、証券会社の人に相談や質問をする人などもいた。
すごいなあ~私にはわけがわかんないよ、と思うばかりだった。

株式についての説明は簡略なものだったので、あんまり勉強にはならなかったが、参加してみて多少の新知識を得ることができ、それなりによかったと思う。
今回受けたのは、あくまでも株についての公の講座であって夜に開催され、証券会社の営業活動ではなかったが、結果的に半分は証券会社の営業活動のようでもあった。
証券会社による株についてのセミナーなどは多々行われているが、平日の昼間行われることが普通のようでなかなか参加する機会が得られない。夜や休日にもこういう講座を開いてもらいたい。
コメント (2)

何をするか

2008-11-16 09:23:38 | 日記

休日に雨が降ることが度々ある。
休日には、区民体育館に行ってエアロビクスやシェイプアップ体操をしようと思っているのだが、天気が悪いとつい億劫になってしまう。
文化の日の連休に空振りをくらって以来、天気が悪かったり、他の用事にかまけて体育館には行っていない。だから今日こそは行こうと思っていたのだが、なんとなく気が乗らない。
運動も3日坊主だったか。

いやなことでも我慢してやる。いやなことは無理にはしない。
このどっちが自分にとっていいことなのか、私は迷ってしまう。
いやなことをしないでいたら、根性などというものは身につかないし、何も達成することはできず、すべてが3日坊主で終わるだろう。
そして、運動をしなければ、メタボへの道を加速度を増して突き進むのみかもしれない。

しかし、たかが趣味の世界で、いやなことを我慢してやるというのは、どれだけ意味のあることだろうか。
気が乗らないことを無理にするなんて、ストレスがたまるし、精神衛生上よくない。
1日やそこら休んだところで、急激にメタボになるわけではなかろう。

あっ、しかし、もうすでに2週休み、今回で3週目ということになる。
これだから、やはり単発参加型ではなく、数か月分の高額の月謝を払い込んで自分を縛り付けてしまう方法でないと、人間は物事を継続することができないのではないだろうか。

単にメタボを回避するためではなく、
スマートなひきしまった美しい身体になりたい。
そういう理想像と夢があったんじゃなかったっけ。
行けばきっと気もちいいよ。
でも、家の中でぬくぬくごろごろしていたいなあ~。

・・・迷いは続く・・・

コメント

容疑者Xの献身

2008-11-16 01:25:37 | 日記
今日は映画を見に行きました。
印象に残ったのは、堤真一さんと松雪泰子さんでした。
松雪さんは、悪い夫と別れて女手1つで中学生の娘を育てている母親という、松雪さんには珍しいような役柄でしたが、一生懸命お店をやりながらささやかな幸福を求めて生活している母親の雰囲気をすごくよく出していて、適役だったと思います。生活感があり苦労している中でも、その華奢な体とさわやかな表情がどきっとするほど美しいです。あれは松雪さんじゃなきゃ出せない雰囲気ではないでしょうか。
また、堤さんですが、よくもあれだけ、人間としてすたれた雰囲気が出せるものだと、やはり演技力に感心しました。他のドラマなどで、堤さんの日頃の格好良さを知っているだけに、人は落ちぶれると、あんなに格好いい人でも別人のようになってしまうんだということが連想でき、すごい実感です。しかし、100%落ちぶれきっているわけではなく、数学の才能と松雪を愛する部分で、光り輝くものを持っているという人間像をよく表わしていました。俳優ってすごいですね。
それで、この2人のオーラがすごくて、福山雅治も確かに素敵なのですが、福山と柴崎コウよりも、堤と松雪が主演だったように思えます。
でも、福山雅治の湯川学は、物理のことしか興味がないはずだったのに、この作品では、愛を察するということでも、すごく鋭い能力を発揮し、友情という点でも申し分なく、人間的な部分を味わわせてくれました。
ただ、ストーリー的には、犯行日時のトリックのために、別の殺人をするという部分が、かなり現実ばなれしていて変だなとは思いました。
コメント

人の一生

2008-11-16 00:34:17 | 日記
人の死について語るのはちょっと勇気がいるが、いろいろ思うことがある。
今日は、「象の背中」という録画してあったドラマを見た。
働き盛りの会社員(部長)役所広司が、気付いたときはすでに肺がんの末期であり、ぎりぎりまで仕事を続け、会いたかった人に会い、最後はホスピスで家族との貴重な時間をすごして、ついに亡くなるというストーリーだった。そこには、何ら特別な展開があるわけでもなく、もし不治の病にかかったら誰もが似たような経緯をたどるような出来事が描かれていた。
それでも、自分の死期を悟り、身辺整理をして、有意義な最後の日々を過ごせたことは、良い死にかたをしたということができるだろう。
やりたかった仕事もあきらめなくてはならないが、仕方のないことである。そうやって亡くなっていく人がたくさんいる。

生まれてくる赤ん坊がいっぱいいて、子どもが生まれるのが日常茶飯事の出来事だとしたら、亡くなっていく人がいるのも日常茶飯事の出来事ということになる。しかし、そうだとしても、人が亡くなるということは、受け入れがたい現実である。
でも、やっぱり生まれるのが自然ならば、亡くなるのも自然なのだと思わなければいけないし、生まれたからにはいつか死ぬという覚悟が必要だと、私は思う。
人が死ぬことも自分が死ぬことも怖くてしかたがないからこそ、そういう覚悟が必要なのだと思っている。

人によって亡くなる年齢は様々である。でも、亡くなった人は、どんなに若くても、亡くなった時点で、生きている人よりも人生の先輩となってしまう。
生きている人は、死を体験したことはないが、亡くなった人は、死を体験したのだ。
だから、そこでもう仏様という、目上の存在になるように私には思える。

自分はどんな死にかたをするのかと思うと、恐ろしい。病気になって苦しんだり、痛みに耐えたりするのかもしれないし、どんなことになるかわからないが、そういう経緯を通過して人は亡くなっていく。それは、恐ろしいことで、自分にはとうていそんなものに臨む勇気も覚悟も持てそうにない。しかし、人は自然に生まれできて、きっと生まれるときも苦しかっただろうが、立派に生まれてきたのだから、亡くなるときもきっとそれを立派にやり遂げるはずだ。それが人の人生だ。いや、人だけではなく、動物や虫などの生き物でも同じだ。
たった1人で死のうと、身内に見守られて死のうと、ちゃんと一人前に眠りにつけるだろう。

このあいだ、夫の叔父が亡くなった。親戚が少なく、夫も仕事で出られなかったので、私が告別式に参列した。叔父を見送ったのは20人ほどだった。血縁関係のある者もいれば、私のように血縁的には他人の者もいた。しかし、私は夫と結婚したことによって、その故人と近い親戚関係になり、叔父の亡骸を見送ることに遭遇したのだ。その叔父に会ったのは2回くらいで、直接に言葉を交わした記憶はない。
しかし、遺影は、夫の母の弟だけあって、亡くなった義母に面影が重なる部分もあり、まるで義母の葬式のときのように悲しかった。

そうして、思ったのだ。叔父はもう80代半ばだったから、同年齢の参列者も少なく、叔父より若い人ばかりだった。私がそのような年齢まで生きられたとして、誰が参列し、私の亡骸を見送り、花を手向けてくれるのだろうか。
年の順で行くと、私の夫や姉夫婦も亡くなっているだろうから、自分の娘たちと、甥姪だろうか。
今回のように甥である夫が出られなければ、その配偶者ということになるから、私が何十年か後に亡くなったとき、甥や姪ではなく、そのつれあいのあまり会ったこともない他人が私を見送ることになるのかもしれない。すると、私は80年もこの世に生きて老化した体をその人の前にさらすことになるのだ。
しかし、それもおそれることはないし、とくに避けたいことでもないのだ。それも何かの縁だろう。ありがたくそういう状況も受け入れよう。人の亡骸を不謹慎な気持ちで見る人間はけっして存在しないのである。

お葬式は3人の和尚さんがお経を唱えてくれた。しかし、どんなに和尚さんが偉い僧であったとしても、とても亡くなった本人には及ばないと思った。和尚さんはけっして死を経験したことがない生身の人であるからだ。そして、亡くなった人が高齢であれば、人生経験もたくさんあったわけである。そうしたら、和尚さんなんかは若造である。
和尚さんたちは、私がそんなことを思う以前に、そのようなことはちゃんと自覚済みなんだろう。ある人が亡くなり、ある人がお経を唱えるという組み合わせも、何かの縁なのだろうと思った。

死んだ人にはもはや意識がないから、誰がお経をとなえようと誰が参列しようと関係ないことだが、生きてるほうには経験として意味があることである。

人生を全うした人々を通して、教えられることはあまりにも多い。
コメント

笑顔

2008-11-15 01:43:51 | 日記

自分がふだん、どういう表情をしているかっていうことは、なかなか客観的には見ることができないものだ。
隠しカメラででも撮っていてもらえばわかるが、そんなことも滅多にない。
だれでも、鏡に向ったときは、ちょっとにっこりしてみたりして、まあ、感じは悪くないと自分で思っている。
でも、人というのは、自分で思うほど愛想よく人の目には映っていないのだそうだ。
そういえば、無表情でいるときは、無愛想に見えるかもしれない。

だから、人と合ったら、普通の顔ではなく、にっこりと笑って挨拶をしよう。

しかし、何かを話したりするときに、意味もなく、あははははとか、うふふふなどと言って、笑ってごまかすのはよくないそうだ。
そういえば、娘が小学生の時に、担任の女の先生にそういう癖のある人がいた。ぜんぜんおかしくもなんともないときに、自分の意見を言った最後のところで、「~なんです、ふふふふふ」のようにまとめる。なんとなく、自信がなさそうな感じがした。そうだ、わらってごまかしているわけだ。なんか、必要以上にその場をとりつくろうとかそんな感じがする。

だが、それは、他人事ではない。自分はそんなことをしていないだろうか?
昔、独身のころ会社に勤めていて、先輩の男性から仕事について忠告を受けたときなど、
「ああ、すみませんでした・・(笑)」というような反応を示していたのだ。それは自分でも無意識にしていたのだが、その先輩に「いつも、笑って返事をしてるけど、笑うのはやめなさい」のようなことを言われたことがある。自分の仕事に落ち度があって、人に注意されているときは、深刻に受け止めなければいけない。そういうときは笑うべきではない。

うん、なかなか難しいことだ。

ところで、通勤途中でいつもすれ違うご婦人が、ひとりで顔をしかめて歩いていることが多かった。
なんで意味もなく顔をしかめているのだろうと思ったりした。その人が、先日、ニコニコして歩いているのだった。隣にもう少し若い女性がいて連れ立って何か話しながら歩いている。同じ会社の同僚と道で一緒になったらしい。
その表情は、本当にほがらかでステキだったよ。

やっぱり、人間は笑顔がいいですね。
自分ひとりでにやにやしているのも変だから、やはり人と楽しい話などして、笑顔の時間を増やしたいものですね。



コメント

違う道

2008-11-15 01:17:30 | 日記
いつも通っている道は、車の一方通行道路を自転車で逆走する部分があった。
そこが、通勤には難所で、道路の両側あちこちに駐車している車があり、その間を縫って、たくさんの車と自転車と人が通るから、なかなか進めないことが多かった。
最近は、その道路際で住宅を建設しているため、工事車両がいて、よけいに交通困難となり、容易に進めない。そこで、一本となりのあまり走ったことのない道を行ってみることにした。

そしたら、なんと、すいすいなのだ。
この隣の道は、逆方向の一方通行道路だということがわかった。だから、対向車は来ないし、また、商店などが少ないので、荷降ろしの車も停まっていない。通勤や通学の人もそれほど多くなかった。

今の会社に通うようになってから、4年近くも通りにくい道路を通っていたのが、バカみたいである。

そして、それに付随してもうひとつの発見。
いつも同じ時刻に同じ場所ですれ違う紳士が、そっちの道を歩いてくるのを発見したのだ。
今までは、少し時間がずれると会うことがなかったのだが、今度の道では、多少時間がずれても、どこかですれ違う可能性が高い。
ま、すれちがったからと言ってどうということもないけど、その人がさらにどっちに向かって進んで行くかを発見することがあるかもしれない。

日頃、これしかないと思いこんでいる方法を、視点を変えて変更してみると、意外にいい方法があるかもしれない。
何事も、ひとつのことに固執しないで、目先を変えてやってみることもいいことですね。
コメント

疲れたまんま

2008-11-14 01:20:37 | 日記
こんばんは
実質、二日間の空白でしょうか。
貯水槽タンク清掃の日から、いろいろ取り込み中で、ブログを書いている暇がありませんでした。
いや、一度書いたんですが、現状の顛末は、ちょっと公開できないなと思い、草稿にしています。

公営住宅は老朽化しているため、貯水槽の掃除をすると、きれいになるどころか、余計にきたなくなってしまうのではないでしょうか。
たぶん、掃除をきっかけに、水道管の中の大量のサビが水に溶け出してしまうんじゃないかと思います。
タンクはきれいになっても、水道管がダメなのかもしれません。
今日は、もとどおりのきれいな水に戻っていますけどね。

それで、よその家は意外と大騒ぎしていないのです。
お年寄りで気がついていないのか、お風呂も毎日入れ替えないので、当日の水のにごりに気がつかない人も多いようでした。
昼間汲み置きした水で料理をして、早々と寝てしまった人が多いのかもしれません。
こちらは、いつまでも澄んでくれない水道水と格闘し、深夜まで起きていて、そのまま疲れが翌日にずれ込んでいきました。

我が家の場合、特に上の階の家も空き家であり、同じ水道管を使っている家がない(4軒中3軒が空き家のため)ので、サビを一手に引き受ける状況となってしまったのかもしれません。

なにやら、支離滅裂ですみません。
とりあえず、今日はここまで・・・。

コメント

だらしねえ~

2008-11-11 11:01:47 | トラックバック練習・ご意見板
ああ、なんと品格のない言葉。しかし、そのとおりのこの現状。

パソコンの左側。

放送大学「日本美術史」の教科書
課題提出用紙
以前受講した知的財産講習のテキスト
放送大学面接授業の科目申請要項
同じく時間割
会社で正社員がやった基本知識確認テストの問題と解答
(…公開されたものをこっそり印刷して持ち帰り)
 きのうやってみやら、50点でした。たしか、正社員の最低が50点。
 しかし、正社員は資料を見てもよかったそうだ。また、どんな問題がでるかも知らされていたはず。
 何も見ないでいきなりやって50点なら、まあいいほうじゃない?
公営住宅入居者一覧表
住宅供給公社から送られてきた排水管清掃の申し込み用紙の残り
クリアファイルと10月分の出勤簿
区民体育館の日程の載った広報
日韓・韓日小事典
 ・・・サムスンのスンが「星」の音読みであるかを確認したとき出したんだ
    ちなみに韓国本来の言葉では「ほし」は「ピョ-ル」という
はとバスツアーのパンフレット
美術館に行ったときに持ってきたパンフレット
知的財産管理能力検定2級特例講習のときにもらったテキスト
放送大学の課題の入っていた厚紙封筒
読みかけの自分の本(夢をかなえるゾウ)
図書館の本(恩田陸 小説以外) ・・・あっ、また返却期限が過ぎてる
お菓子の食べかす(キットカットゆず味の包装紙)

下のほうに
送られてきたはがき
セロテープ
修正テープ ・・ああ、こんなところにあったのか!
マーカー
消しゴム
線引き
めがねふきの布・・なぜかケースから外へ
カッターナイフの入っていた外の包装部分
替え刃が入っている
あっ、安全刃折器なんてものもついてた  今発見
シャーペンのしん
動かなくなった腕時計
社会保険庁からの厚生年金被保険者記録

へえ~、生活のすべてが地層のように堆積していました。

(トラックバック練習版“パソコンの回りには何がある?”でした。


コメント (3)