中田永一の小説を読んだとき、その不思議な味わいに魅了された。それだけにあの小説が映画になることをうれしく思った。そこには、きっとあの気分がある。それが映像となってスクリーンに再現されるのだ。もうそれだけでウキウキする、と。
なのに、こんなにも丁寧に作られた映画なのに、まるで心踊らない。これはどういうことか。とてもきれいな風景が描かれる。理想的なロケーションだ。きっと監督があの小説に見た風景を再現したのだ。これでいい。僕も満足だ。そこに展開するお話はもとろん、あの小説のままだ。なのに、映画を見ながら「こんなはずじゃなかったのに、」と何度も思う。それはクライマックスのはずのダブルデートのシーンで確定的になる。これでは無理だ。
理由はいろいろある。まるで理不尽なお話なのに、それが有無を言わせぬ展開で始まり、流されていく中で、だんだんその切ない想いにシンクロしていく。そこには百瀬がいる。彼女がすべてだ。だから、わかった。
この映画の失敗は明らかだ。それは百瀬がまるで魅力的ではないからだ。どうしてこんなことになったのだろう。百瀬を演じた早坂あかりが悪いのではない。彼女はアンバランスな魅力でこの映画にちゃんと存在した。だが、その描き方が微妙に作品世界と馴染まない。どこかでボタンの掛け違いが生じている。映画は、4人の幼い弟たちを養い、現実の世界と齟齬をきたしているけなげな彼女を描ききれない。彼女は、家庭生活と高校生活の両立をする。危ういけど、どこかでバランスを保つ。それは先輩への片想いだ。いや、片想いではない。両想いだ。でも、先輩は二股をかけている。そんなことを知っていてそれでもいいと思う。それどころか、自分は日陰の花でいい。そんなことで満足する女子高生がいるのか? 彼女はまるで、意に介さない。ありえない。そんなありえないことに主人公は付き合わされる。彼女は現実を見ない。夢に中だけでいい。だから、先輩に理想の彼女がいても、自分が先輩とつきあっている時間だけが意味を持つのだ。それ以外の時間は彼女の関知しない時間だ。
基本的にはストーリーを丁寧になぞっている。だが、これでは彼女の強引な態度がただのバカにしか見えないのだ。それはあんまりだ。それでは彼女に心惹かれていく彼(彼こそが主人公なのだが)の気持ちがわからない、ということになる。そこって、このお話の要。
しかも、圧倒的にわがままな先輩も、ちゃんと悪い人ではないけど、これではその根拠が描けてない。理不尽。何かが足りないから、微妙なところで完全に空中分解しているのだ。
30歳になった主人公(向井理が演じる)が懐かしい高校を訪れる。しかも、小説家となり講演会を行うために帰郷するのだ。表面的には輝かしい凱旋である。でも、本人はなんだか気恥ずかしい。たった1冊品を出しただけの駆け出し作家だし、これから作家として活躍できるのかも定かではない。不安定な境遇で、作家と胸を張れるわけではない。そんな彼が百瀬のいる(はずの)街を再訪した。彼の小説のタイトルは『初恋』。きっと百瀬とのことが書かれてあるはずだ。彼はこの帰郷で何を確認するつもりなのか。
と、そこまで期待させて、あんなにも回想シーンも見せといて、それだけのお話。でも、そのたわいなさが魅力のはず。ラストでふたりが再会するエピソードを避けたのはなぜか。もしそうするのなら、もっと別の、そこまでの描き方があるはずだ。そこも含めて、これはすべてがもどかしい映画なのだ。